真実の片鱗に触れたにもかかわらず、蓮は頑なに「契約」という壁を崩さなかった。その徹底した拒絶に、結衣は、彼の愛が深い故の「優しさ」なのか、それとも、ただの「所有欲」なのか、判断できずにいた。
結衣もまた、スケッチブックを見たことは、蓮にこれ以上追及しないと決めた。彼の秘密を知ったことで、彼の冷たさが、実は自分への配慮の裏返しなのではないかという、切ない希望を抱き始めていたからだ。
二人の関係は、表面上は平静を取り戻したが、その下には、触れてはいけない秘密と、激しい嫉妬という火薬が、燻り続けていた。
そんな中、二人は、東條グループが主催する、大規模なチャリティーパーティーに出席することになった。
「結衣さん。今夜は、各界の重鎮が集まる。東條の婚約者として、決して失態のないように」
出かける前、蓮は冷たい目で結衣に釘を刺した。彼の視線は、結衣の華やかなドレスではなく、その奥にある、結衣の心に向けられているように感じられた。
「承知しております、蓮様」
結衣は、感情を押し殺した声で答えた。
パーティー会場は、豪華絢爛だった。蓮は結衣の手をしっかりと握り、完璧なエスコートで、次々と重要な人物に紹介していく。
蓮は、結衣から一瞬たりとも目を離さなかった。それは、婚約者としての当然の行動に見えたが、結衣には、まるで逃げられないよう、監視されているかのように感じられた。
パーティーの中盤。蓮が、地方の財界トップと挨拶を交わしている最中、結衣の耳に、聞き慣れた声が届いた。
「結衣?」
振り向くと、そこに立っていたのは、大学時代の先輩、佐伯 愁人だった。
「佐伯先輩……!?」
佐伯は、結衣の驚きの表情に微笑み返した。彼の後ろには、東條グループの関連企業である、大手インテリア会社の役員が立っていた。
「まさか、東條様のパーティーで会えるとはな。俺も、独立した会社として、ようやく東條グループとの接点を持てたんだ」
佐伯は、結衣の顔を見て、安堵したように言った。
「会えてよかった。ほら、ニュースで見て、東條さんの隣にいるお前が、本当に幸せそうか、心配してたんだ」
佐伯は、昨日以来の、友としての素直な心配を口にした。
結衣は、胸がチクリと痛んだ。蓮との関係が、契約の上に成り立っている今、佐伯の「幸せそうか」という問いかけは、あまりにも重い。
「先輩、ありがとうございます。私は、大丈夫です。今は、東條グループの婚約者として……」
結衣が、佐伯から少し距離を取ろうとした、次の瞬間。
蓮が、会話を中断して、二人の間に割って入った。
蓮の顔は、結衣には初めて見るほど、激しい怒りに染まっていた。彼の瞳は、佐伯に向けられているが、その殺気は、結衣にも向けられているかのようだった。
「佐伯、愁人、さん、でしたか」
蓮の声は、異常なほど低く、抑揚がない。
佐伯は、一瞬驚きながらも、蓮に頭を下げた。
「東條社長。ご挨拶が遅れました。佐伯愁人と申します。現在、私の会社は、東條グループの関連企業と取引を――」
「結構だ」
蓮は、佐伯の言葉を冷酷に遮った。
そして、蓮は、佐伯の目の前で、結衣の肩を、有無を言わせぬ力で、強く抱き寄せた。
「結衣さんは、私の婚約者です。そして、今後、妻となる女性だ。私以外の男性と、親しげに立ち話をされるのは、少々不愉快だ」
会場のざわめきが、一瞬で鎮まった。周囲の視線が、一斉に三人に集中する。蓮の公衆の面前での、これほどまでの露骨な独占欲の表出は、異例中の異例だった。
佐伯の顔から、笑顔が消える。
「東條社長、それは……」
「失礼を承知で申し上げますが、私との契約を履行しない者が、高瀬アパレルにどのような影響を与えるか、ご想像できますね?」
蓮は、佐伯ではなく、結衣の肩越しに、佐伯に聞こえるように、はっきりとそう言った。それは、佐伯への牽制であると同時に、結衣への警告でもあった。
佐伯は、その言葉の冷たさに、ただ立ち尽くすしかなかった。彼は、蓮が、結衣の家族の「命綱」を握っていることを理解した。
蓮は、結衣の肩を抱いたまま、佐伯に一瞥もくれず、背を向けた。
「行きますよ、結衣さん」
その言葉は、命令だった。
蓮の抱擁は、愛の表現ではなく、結衣を完全に自分のものだと示す、強い独占欲の表れだった。結衣は、肩に食い込む蓮の指の力に、痛みを感じた。
(この人は、私が誰と話すかも許さないの……? まるで、檻に入れられた鳥みたい)
会場の視線が、結衣の心に突き刺さる。屈辱と、蓮に対する深い絶望感で、結衣は顔を上げることができなかった。
「離してください、蓮様!」
結衣は、小声で、しかし強い拒絶の意思を込めて言った。
蓮は、結衣の言葉にピタリと足を止め、結衣の顔を覗き込んだ。彼の瞳は、嫉妬の炎が燃え盛った後で、暗く淀んでいた。
「離す? どうしてだ。私は、君の婚約者だろう。それとも、あの男に優しくされた方が、君は気分がいいのか」
「違います! あなたは、私を、まるで所有物のように扱っている! 契約だからって、私の人間関係まで支配する権利は、あなたにはありません!」
結衣の感情が、限界を超えて爆発した。彼女は、蓮の抱きしめる腕を振り払おうともがく。
蓮もまた、感情を露わにした。
「支配? そうだ。君は、私の契約の相手だ。そして、私は、君の家を救った男だ。君の身の振り方は、私の意向に沿うべきだ!」
彼は、感情に任せて、とうとう言ってはいけない言葉を口にした。
「君が、他の男に心を向けるくらいなら、いっそ、一生、私から離れられないようにしてやる!」
その言葉が、結衣の心を、完全に打ち砕いた。
結衣は、蓮の顔を、初めて見る憎しみの感情を込めて見上げた。
「……わかりました。契約ですものね。もう、あなたを愛する努力など、しません。あなたの隣にいるのは、高瀬アパレルの為。ただそれだけです」
結衣は、そう言い切ると、蓮から完全に距離を取り、その場に立ち尽くした。
蓮は、結衣の表情を見て、自分が取り返しのつかないことを言ってしまったと悟った。しかし、激しい嫉妬とプライドが、彼に謝罪の言葉を言わせない。
二人の間には、もはや「契約」という言葉すら届かない、深い、修復不可能な亀裂が入ってしまった。切ない誤解は、今、激しい怒りと憎しみへと変わってしまった。
結衣もまた、スケッチブックを見たことは、蓮にこれ以上追及しないと決めた。彼の秘密を知ったことで、彼の冷たさが、実は自分への配慮の裏返しなのではないかという、切ない希望を抱き始めていたからだ。
二人の関係は、表面上は平静を取り戻したが、その下には、触れてはいけない秘密と、激しい嫉妬という火薬が、燻り続けていた。
そんな中、二人は、東條グループが主催する、大規模なチャリティーパーティーに出席することになった。
「結衣さん。今夜は、各界の重鎮が集まる。東條の婚約者として、決して失態のないように」
出かける前、蓮は冷たい目で結衣に釘を刺した。彼の視線は、結衣の華やかなドレスではなく、その奥にある、結衣の心に向けられているように感じられた。
「承知しております、蓮様」
結衣は、感情を押し殺した声で答えた。
パーティー会場は、豪華絢爛だった。蓮は結衣の手をしっかりと握り、完璧なエスコートで、次々と重要な人物に紹介していく。
蓮は、結衣から一瞬たりとも目を離さなかった。それは、婚約者としての当然の行動に見えたが、結衣には、まるで逃げられないよう、監視されているかのように感じられた。
パーティーの中盤。蓮が、地方の財界トップと挨拶を交わしている最中、結衣の耳に、聞き慣れた声が届いた。
「結衣?」
振り向くと、そこに立っていたのは、大学時代の先輩、佐伯 愁人だった。
「佐伯先輩……!?」
佐伯は、結衣の驚きの表情に微笑み返した。彼の後ろには、東條グループの関連企業である、大手インテリア会社の役員が立っていた。
「まさか、東條様のパーティーで会えるとはな。俺も、独立した会社として、ようやく東條グループとの接点を持てたんだ」
佐伯は、結衣の顔を見て、安堵したように言った。
「会えてよかった。ほら、ニュースで見て、東條さんの隣にいるお前が、本当に幸せそうか、心配してたんだ」
佐伯は、昨日以来の、友としての素直な心配を口にした。
結衣は、胸がチクリと痛んだ。蓮との関係が、契約の上に成り立っている今、佐伯の「幸せそうか」という問いかけは、あまりにも重い。
「先輩、ありがとうございます。私は、大丈夫です。今は、東條グループの婚約者として……」
結衣が、佐伯から少し距離を取ろうとした、次の瞬間。
蓮が、会話を中断して、二人の間に割って入った。
蓮の顔は、結衣には初めて見るほど、激しい怒りに染まっていた。彼の瞳は、佐伯に向けられているが、その殺気は、結衣にも向けられているかのようだった。
「佐伯、愁人、さん、でしたか」
蓮の声は、異常なほど低く、抑揚がない。
佐伯は、一瞬驚きながらも、蓮に頭を下げた。
「東條社長。ご挨拶が遅れました。佐伯愁人と申します。現在、私の会社は、東條グループの関連企業と取引を――」
「結構だ」
蓮は、佐伯の言葉を冷酷に遮った。
そして、蓮は、佐伯の目の前で、結衣の肩を、有無を言わせぬ力で、強く抱き寄せた。
「結衣さんは、私の婚約者です。そして、今後、妻となる女性だ。私以外の男性と、親しげに立ち話をされるのは、少々不愉快だ」
会場のざわめきが、一瞬で鎮まった。周囲の視線が、一斉に三人に集中する。蓮の公衆の面前での、これほどまでの露骨な独占欲の表出は、異例中の異例だった。
佐伯の顔から、笑顔が消える。
「東條社長、それは……」
「失礼を承知で申し上げますが、私との契約を履行しない者が、高瀬アパレルにどのような影響を与えるか、ご想像できますね?」
蓮は、佐伯ではなく、結衣の肩越しに、佐伯に聞こえるように、はっきりとそう言った。それは、佐伯への牽制であると同時に、結衣への警告でもあった。
佐伯は、その言葉の冷たさに、ただ立ち尽くすしかなかった。彼は、蓮が、結衣の家族の「命綱」を握っていることを理解した。
蓮は、結衣の肩を抱いたまま、佐伯に一瞥もくれず、背を向けた。
「行きますよ、結衣さん」
その言葉は、命令だった。
蓮の抱擁は、愛の表現ではなく、結衣を完全に自分のものだと示す、強い独占欲の表れだった。結衣は、肩に食い込む蓮の指の力に、痛みを感じた。
(この人は、私が誰と話すかも許さないの……? まるで、檻に入れられた鳥みたい)
会場の視線が、結衣の心に突き刺さる。屈辱と、蓮に対する深い絶望感で、結衣は顔を上げることができなかった。
「離してください、蓮様!」
結衣は、小声で、しかし強い拒絶の意思を込めて言った。
蓮は、結衣の言葉にピタリと足を止め、結衣の顔を覗き込んだ。彼の瞳は、嫉妬の炎が燃え盛った後で、暗く淀んでいた。
「離す? どうしてだ。私は、君の婚約者だろう。それとも、あの男に優しくされた方が、君は気分がいいのか」
「違います! あなたは、私を、まるで所有物のように扱っている! 契約だからって、私の人間関係まで支配する権利は、あなたにはありません!」
結衣の感情が、限界を超えて爆発した。彼女は、蓮の抱きしめる腕を振り払おうともがく。
蓮もまた、感情を露わにした。
「支配? そうだ。君は、私の契約の相手だ。そして、私は、君の家を救った男だ。君の身の振り方は、私の意向に沿うべきだ!」
彼は、感情に任せて、とうとう言ってはいけない言葉を口にした。
「君が、他の男に心を向けるくらいなら、いっそ、一生、私から離れられないようにしてやる!」
その言葉が、結衣の心を、完全に打ち砕いた。
結衣は、蓮の顔を、初めて見る憎しみの感情を込めて見上げた。
「……わかりました。契約ですものね。もう、あなたを愛する努力など、しません。あなたの隣にいるのは、高瀬アパレルの為。ただそれだけです」
結衣は、そう言い切ると、蓮から完全に距離を取り、その場に立ち尽くした。
蓮は、結衣の表情を見て、自分が取り返しのつかないことを言ってしまったと悟った。しかし、激しい嫉妬とプライドが、彼に謝罪の言葉を言わせない。
二人の間には、もはや「契約」という言葉すら届かない、深い、修復不可能な亀裂が入ってしまった。切ない誤解は、今、激しい怒りと憎しみへと変わってしまった。

