蓮の冷酷な拒絶に、結衣は完全に心を閉ざした。マスタースイートは、もはや二人の間に流れる空気が重く、冷たく、まるで凍り付いた戦場のようだった。
結衣は、婚約者の役割だけを淡々とこなす「人形」となることを選んだ。蓮もまた、結衣を避け、仕事に没頭することで、自らの感情を押し殺していた。

そんなある日、結衣は一人で東條グループの秘書室を訪れた。蓮との結婚によって高瀬アパレルが受けた恩恵は計り知れない。結衣は、その感謝を形で示したいと考え、蓮の身の回りの世話をしている佐久間や、秘書室のメンバーに礼を述べたかったのだ。

秘書室のチーフ、五十嵐は、結衣を丁重に応接スペースへ案内した。
「結衣様。東條様のことでご心労をおかけしており、申し訳ございません」

五十嵐は、二人の間の冷え切った空気を察しているようだった。
「いいえ。私が至らないばかりに……。ただ、高瀬アパレルの件では、皆様に大変お世話になりました。特に、蓮様は、あれほど多忙なのに、どうしてあんなにも的確に、弊社の状況を把握してくださったのか、不思議で」

結衣は、以前父が言っていた「まるで最初から高瀬アパレルを深く知っているかのように」という言葉を思い出し、素直な疑問を口にした。

五十嵐は、一瞬、返答に詰まり、困惑したように周囲を見渡した。そして、意を決したように、声のトーンを下げた。

「結衣様。実は……東條様は、貴社への支援を決定される、ずっと以前から、高瀬アパレル、そして、結衣様のことを、よく存じていらっしゃいました」
「え……?」

結衣は、顔を上げた。
五十嵐は、静かに、そして慎重に言葉を選び始めた。
「東條様が、正式に高瀬アパレルの経営危機を知ったのは、数か月前です。

しかし、貴社が開発された『スズラン』モチーフのデザインラインナップや、結衣様が大学時代に手がけられた卒業制作のことなど……東條様は、私たちが驚くほど詳細に、把握されていました」

結衣の頭の中に、以前父が口にした、蓮の「懐かしいデザインだ」という言葉が蘇る。
「それは、どうして……。蓮様と私は、政略結婚の話が出るまで、面識はなかったはずですが」
五十嵐は、ためらうように言った。

「面識はございません。しかし、東條様は、貴女が大学に進学されてから、毎年、貴女の卒業制作や、ご参加されたデザインコンペの資料を、私たちに密かに集めさせていたのです。もちろん、極秘で」

結衣の心臓が、ドクンと大きく鳴った。その事実は、結衣が蓮に対して抱いていた「冷徹な契約者」というイメージを、根本から揺さぶるものだった。
「毎年……。なぜ、そんなことを?」

「それは……私どもには、わかりません。東條様は、ただ『今後の事業提携の参考にする』とだけ。しかし、結衣様の作品をチェックされている時の東條様は、仕事とは違う、どこか穏やかな表情をされていました」

結衣の脳裏に、蓮の、ハーブティーを渡す時の不器用な表情や、テラスで指輪をはめてくれた時の、冷たい指先の、しかし優しい感触が、一気に蘇った。
蓮が、自分を、ただの政略結婚の道具として見ていたのではないのかもしれない。

東條邸に戻った結衣は、一人、マスタースイートの書斎スペースを見つめていた。蓮はまだ帰宅していない。
結衣は、意を決して、蓮のデスクの引き出しを、そっと開けた。

(いけないことだとわかっている。でも……確かめたい)
深い引き出しの奥。厳重に保管された書類の束の中に、結衣は、一冊の古いスケッチブックを見つけた。
それは、蓮の物ではない、結衣も見覚えのない、年季の入ったスケッチブックだった。

結衣が、震える手でそれを開くと、中には、彼女の大学時代からのデザイン画や、コンペ用の資料のコピーが、几帳面にファイリングされていた。
そして、その中の一枚。

結衣が初めてデザインコンペで賞を獲った時の、『スズラン』のイラストの横に、蓮の筆跡ではない、丸っこい字で、鉛筆書きのメモが添えられていた。
『ユイの絵、きれい。』

幼い字。それは、十代前半、あるいはそれ以前の、まだ蓮が東條グループの冷徹な社長になる前の、少年だった頃の文字だ。

その瞬間、結衣の頭の中で、全てが繋がった。
(東條様は……蓮様は、私を、ずっと前から知っていた? 会社の危機を救ったのは、単なる契約ではなく……)
結衣の胸に、激しい動揺と、そして、切ない希望が湧き上がる。

蓮が、小さな頃から、彼女を、秘密にして見てくれていたのかもしれない――。

夜。蓮が帰宅した。
彼は、デスクに向かうなり、結衣を無視して、PCを立ち上げる。昨夜の冷たい溝は、まだそのまま二人の間に横たわっている。

結衣は、決意の表情で、蓮のデスクに向かって一歩踏み出した。
「蓮様」
「何だ。用がないなら、早く寝てくれ」蓮は、顔を上げずに冷たく言った。
結衣は、テーブルの上に、先ほどのスケッチブックを静かに置いた。

「これ。あなたの物ですね」
蓮の指が、キーボードの上で、ピタリと止まった。彼はゆっくりと顔を上げたが、スケッチブックを見た瞬間、彼の無表情の仮面が、激しく、そして一瞬で崩れ去った。

彼の瞳に、動揺、驚愕、そして、結衣に見られたくない秘密を暴かれた焦燥が走った。
「なぜ、君がそれを……」蓮の声は、掠れていた。

「お聞きしたいのです。なぜ、私をずっと見ていたのですか? なぜ、知っていたのに、政略結婚という形を選んだのですか? なぜ……昨日の佐伯先輩のことで、あんなに冷たく私を突き放したのですか?」

結衣の質問は、蓮の心を容赦なく抉っていく。
蓮は、言葉を失っていた。彼が最も隠したかった「秘めた恋心」が、今、結衣の目の前で、白日の下に晒されたのだ。
「それは……」

蓮は、必死に言葉を探すが、出てこない。冷徹な経営者としての顔は、どこにもなかった。そこにいるのは、過去の秘密と、純粋すぎる恋心を、結衣に知られてしまったことに狼狽する、一人の男だけだった。

「私の質問に、答えてください。蓮様。私たちが、本当に、ただの契約だけの関係なのですか?」
結衣の瞳には、涙が浮かんでいた。それは、彼に傷つけられた悲しみだけではない。長年隠されてきた、彼の真実の行動に触れた、切ない感動の涙だった。

しかし、蓮は、その感情を、まだ、受け入れることができない。
「そうだ」
彼は、強く、冷たい言葉で、再び真実を拒絶した。
「それは、単なるビジネスの参考資料だ。君が、勘違いしている」

彼は、再び冷たい仮面を被り、スケッチブックを掴んで、乱暴に引き出しに押し込んだ。
「二度と、私の私物に触れるな。君との関係は、何度でも言おう。契約だ。それ以上を望むな」

結衣は、蓮の最後の拒絶に、心が砕かれるのを感じた。
(嘘よ。あのスケッチブックは、嘘をついてない。それなのに、どうして……!)

蓮の言葉は、彼の行動とは裏腹に、結衣を深く突き放した。二人の間に、真実の片鱗が触れたにもかかわらず、彼の不器用な秘密主義が、再び大きな誤解と、切ないすれ違いを生み出した瞬間だった。