蓮が運転手に命じて、カフェの前まで車をバックさせたときには、すでに佐伯と結衣の姿はなかった。
車の窓を透過して、路地裏のテラス席を凝視する蓮の瞳は、まるで氷点下の湖面のように冷たく、底知れない怒りと、得体の知れない不安を湛えていた。
「東條様……」

秘書が心配そうに声をかけるが、蓮は答えなかった。彼の頭の中では、先ほど見た光景が、何度も繰り返されている。佐伯が結衣の手を掴み、結衣が顔を赤らめたあの瞬間。そして、結衣が佐伯に送った、心からの、偽りのない微笑み。

(あれは、私に向けたことのない表情だ)
蓮は、結衣が自分に対しては、常にどこか警戒し、遠慮がちに接していることを知っていた。彼女の笑顔は優雅だが、いつも仮面を被っているようだった。しかし、あの男といる時の彼女は、違った。心底、安心しきったような、自然な、愛らしい表情だった。

蓮の奥歯が、ギリッと音を立てた。
「あの男を調べろ」
蓮が絞り出した声は、低く、冷たかった。秘書は、その声に背筋を凍らせたが、すぐに意図を理解し、運転手に車を元のルートに戻すよう指示した。

「すぐに、佐伯愁人という人物を。高瀬結衣さんの大学時代の人間関係を調べれば、すぐにわかるはずだ。全てだ。交友関係、現在の仕事、そして……高瀬結衣さんとの過去の関係も、全てだ」
蓮は、命令を下す時も決して感情を露わにしない男だ。だが、今の彼の声には、抑えきれない焦燥と、激しい独占欲が滲み出ていた。


その夜、蓮が東條邸に帰宅したのは、日付が変わる寸前だった。
マスタースイートのドアを開けると、結衣がソファで本を読みながら、蓮の帰りを待っていた。彼女は、昼間の出来事など何も知らない、穏やかな顔をしている。
「お帰りなさいませ、蓮様」

結衣は、いつものように立ち上がり、蓮を迎えた。彼女の左手の薬指には、蓮が贈ったプラチナの婚約指輪が光っている。
蓮は、結衣から視線を外し、コートを脱ぎながら答えた。
「ああ」

いつもの「お帰り」の挨拶だ。だが、今日の蓮の声は、まるで凍った氷のように冷たく、感情が一切込められていなかった。
結衣は、その冷たさに、ぴくりと肩を震わせた。

「お仕事、お疲れ様でした。何か、あったのですか? いつもより、お顔色が優れないようですが……」
結衣が心配そうに一歩近づくと、蓮は、まるで触れるなと言わんばかりに、強く視線を向けた。

「余計な詮索はするな。何もない」
その鋭い眼光と、突き放すような物言いに、結衣は心臓を鷲掴みにされたような痛みを感じた。
「申し訳ありません……」

結衣はすぐに謝罪し、蓮から距離を取った。
蓮は、そのまま書斎スペースのデスクに向かい、座るなり、PCを開き、仕事に取り掛かり始めた。彼の背中からは、結衣との間に、分厚い壁が築かれたような、冷たい拒絶のオーラが放たれている。
 
結衣は、戸惑いと悲しみに暮れた。
(私が何か、蓮様の気に障ることをしたのだろうか? それとも、会社のことで、何かトラブルが……?)
昼間の佐伯との再会が、蓮の目撃によって、彼の中で全く別の意味を持つ「事件」となっているとは、結衣は知る由もない。

結衣は、意を決して、蓮のデスクに、淹れたてのハーブティーのカップをそっと置いた。
「あの……お疲れでしょうから。よかったら、これを」
蓮は、PCの画面を見つめたまま、結衣を見ようともしない。

「いらない」
その一言に、結衣の胸が締め付けられた。先日の、不器用ながらもハーブティーを渡してくれた優しさは、もう跡形もない。
「ですが、今日はずっと会議だったと……」
「いいから、下がれ。邪魔だ」

蓮は、ようやく視線を結衣に向けたが、その瞳は、結衣に向けられるものではなく、冷たい刃のような威圧感を含んでいた。
結衣は、カップを置いたまま、後ずさりした。
「……はい。失礼いたします」

結衣は、寂しさと悔しさで、視界が滲むのを感じた。
(どうして急に……。まるで、私が何か悪いことをしたかのような言い方だわ)
結衣は、静かに寝室側のベッドに座り、小さく身を縮こまらせた。

結衣が寝室の明かりを消した後も、蓮はデスクから動かなかった。
彼は仕事をしているフリをして、結衣から目を逸らしていた。彼の理性は、結衣を問い詰めるべきだと叫んでいる。あの男との関係、二人が何を話していたのか。全てを聞き出して、自分のものだと宣言したい。

だが、蓮は動けない。もし、結衣があの男を今も想っているとしたら――その真実を聞くのが、怖かったのだ。
午前三時。蓮の携帯に、秘書から報告のメールが入った。内容は、佐伯愁人の詳細な個人情報と、結衣との過去の関係についてだ。

蓮は、震える指先でメールを開いた。
『佐伯愁人:大学時代、高瀬結衣に好意を抱いていたが、告白はしていない。卒業後も交流はなかったが、本日、銀座のカフェテラスで再会を確認。佐伯愁人から、高瀬結衣に対し、未練を思わせる言葉を交わした可能性が高い』
特に、太字で書かれた「未練を思わせる言葉」という箇所が、蓮の理性を焼き切った。

蓮は、デスクの引き出しから、新しい契約書を取り出した。それは、高瀬アパレルへの支援を確実なものにするための、追加の担保に関する書類だった。
(これで、高瀬家は、完全に私の支配下だ)

蓮は、書類を眺めながら、結衣に聞こえないよう、独り言のようにつぶやいた。
「契約通り……いや、それ以上を望むな。君は、私の所有物だ」

彼は、椅子を蹴るように立ち上がり、静かに結衣の眠るベッドへと向かった。暗闇の中、結衣の寝息だけが聞こえる。
蓮は、ベッドの横に立ち、眠る結衣の顔を、冷たい瞳で見つめた。彼女の顔は、昼間の佐伯に見せたような、穏やかで無防備な表情をしている。 

蓮は、彼女の左手の薬指に輝く指輪に、そっと触れた。
「……っ」
彼の指先は、嫉妬で熱く燃えていた。しかし、その熱が結衣に伝わることはない。

蓮は、結衣を起こさないよう、慎重に、そして静かに、彼女から遠い側のベッドの端に身を横たえた。
(すまない。君のことが、手放せないんだ)

心の中で、蓮は結衣に謝罪する。しかし、冷たい契約という名の仮面は、彼の心からの言葉を決して結衣に伝えることはなかった。二人の間には、愛ではなく、誤解と嫉妬による、深くて切ない溝が、今、決定的に生まれてしまった。