東條家での生活は、表向きは完璧に進んでいた。
結衣と蓮は連日、政財界のパーティやレセプションに「婚約者」として出席した。蓮は公衆の面前では、結衣を決して一人にせず、常にエスコートを欠かさない。彼の立ち振る舞いは洗練されており、結衣は改めて彼の「完璧さ」を思い知る。

しかし、二人の間に交わされる会話は、社交辞令か、今後のスケジュール確認ばかりだった。
ある日の夜。

東條家で開催された小規模な晩餐会が終わり、結衣が自室(今は蓮とのマスタースイート)に戻ると、デスクに向かっていた蓮が立ち上がった。
「結衣さん。今日のディナー、少し疲れていたようだが、大丈夫か」

「あ、はい。少し……慣れない環境なので。でも、ご心配なく」
結衣は微笑もうとしたが、顔が引きつるのを感じた。
蓮は一歩、結衣に近づいた。その距離が縮まるだけで、結衣の心臓が不規則なリズムを刻む。

「無理をする必要はない。君は、私との契約を履行するだけでいい。体調管理も、契約に含まれる」
「……契約、ですか」
冷たい言葉だ。だが、結衣は蓮の瞳の奥に、一瞬、微かな揺らぎを見た気がした。

蓮は、結衣から視線を逸らし、部屋の一角にある小ぶりの冷蔵庫を開けた。取り出したのは、結衣が最近話題にしていた、限定生産のハーブティーのボトルだった。
「これは、君が以前飲みたいと言っていたものだろう」
「えっ……!?」

結衣は思わず目を見開いた。彼女がそのハーブティーについて話したのは、数日前のパーティで、親しい友人との間で交わした、ごく短い会話の中だけだ。蓮がその場にいたかも定かではない。

「どうして、蓮様がそれを……」
「たまたま、手に入った。疲れているなら、飲んで休め」
蓮は、ボトルを乱暴なほど不器用に結衣に手渡した。彼の顔には、照れ隠しのような、わずかな赤みが差しているように見えたが、彼はすぐに背を向けてしまった。

「……ありがとうございます」
結衣は温かいボトルを抱きしめながら、混乱していた。
(この人は、契約の相手に、ここまで気を遣うのだろうか? それとも、ただの気まぐれ?)

蓮の冷たい言動と、時折見せるこの不器用な優しさのギャップに、結衣の心は戸惑いを覚える。

週末。結衣は、久しぶりに高瀬アパレルの本社を訪れた。
父から、東條グループの経営支援によって、会社が息を吹き返し始めていると聞いていたが、実際に現場を目にして、驚いた。社員たちの顔には希望が戻り、かつての暗い雰囲気は消えていた。

応接室で父と向かい合う。
「結衣。本当に感謝している。蓮様には足を向けて寝られない」
父の顔は、数週間前とは見違えるほど穏やかだった。
「蓮様は、単に資金を出しただけではない。

高瀬のブランド力を落とさずに、無駄な在庫を一掃し、さらに東條グループの持つ海外ルートと提携させた。まるで、最初から高瀬アパレルを深く知っているかのように、次々と的確な手を打ってくださるのだ」

父の言葉に、結衣は違和感を覚えた。蓮は、アパレルとは畑違いの財閥のトップだ。にもかかわらず、「深く知っているかのように」とはどういうことだろう。
「父さん、蓮様が、私たちの会社に興味を持つきっかけは何だったの?」

父は首を傾げた。
「さあ。ただ、初めてお会いしたとき、蓮様は、結衣が大学時代にデザインした、あの『スズラン』のモチーフについて、『懐かしいデザインだ』とおっしゃったんだ。あのデザインは、社内でも一部の人間しか知らないはずなんだが……」

『スズラン』。それは結衣が、大学のデザインコンペで発表した、個人的な想い入れが強いモチーフだった。公にはほとんど出ていない。
(蓮様が、あのデザインを……懐かしい?)

結衣の胸に、小さな疑問符が浮かんだ。彼女は、蓮の冷たい契約の裏に、何か別の真実が隠されているのではないかという、漠然とした予感を抱き始める。

その夜、別邸に帰宅した結衣は、自室のテラスで涼んでいた。蓮はまだ仕事から戻っていない。
(私は、蓮様のことをまるで知らない)

蓮のことは、世間での「冷徹な若き経営者」というイメージと、「偽りの婚約者」としての振る舞い、そして時折見せる「不器用な優しさ」の断片しか知らない。
「……ふう」

冷たい夜風に吹かれ、結衣は大きく息を吐いた。
その時、自室のドアが開く音がした。蓮が帰宅したのだ。
蓮は結衣がテラスにいることに気づき、歩み寄ってきた。二人は、テラスの手すりを挟んで、夜景を前に並び立つ。
「まだ起きていたのか」

「はい。少し、空気が吸いたくて」
沈黙が二人の間に降りた。それは、重苦しいものではなかったが、どこか落ち着かない、ぎこちない沈黙だった。
蓮が、ポケットから何かを取り出した。それは、きらりと光る、シンプルなプラチナのリングだった。

「来週のレセプションで、婚約指輪を披露する必要がある。試着しておけ」
彼は、指輪のケースを、結衣に差し出した。結衣は、その指輪があまりにも豪華で、そして、愛のない契約の証であることに、胸の奥がチクリと痛んだ。

「ありがとうございます……」
結衣が受け取ろうとした瞬間、蓮がケースを引っ込めた。そして、彼の長い指が、結衣の左手の薬指を、優しく掴んだ。

「……蓮様?」
結衣の心臓が跳ね上がる。彼の指先は、ひどく冷たかったが、触れる力は驚くほど繊細だった。
蓮は、言葉を発することなく、そっと、そのプラチナのリングを結衣の薬指にはめた。指輪は、結衣の指に、ぴったりと馴染んだ。

彼は指輪を確認すると、結衣の手から、すぐに手を離した。
「……これでいい」
蓮はそう呟くと、結衣の顔を一瞥もせず、すぐにテラスから戻ろうとした。
「あの……蓮様」

結衣は、衝動的に彼の背中に声をかけた。
「蓮様は、私に、何かを隠していませんか?」
蓮の背中が、わずかに硬直した。しかし、彼は振り返らない。

「何を馬鹿なことを。私は、契約通りに動いている。君も、余計なことを考えるな」
冷たく突き放すようなその声は、彼の感情を深く閉ざしているように聞こえた。蓮はそのまま、寝室の奥へと消えていった。

結衣は、左手の薬指で輝くプラチナの指輪を見つめた。
(これは、契約の指輪。ただそれだけ。……でも、どうして、私の指に触れた彼の指先が、あんなに優しかったのだろう?)

蓮の不器用な優しさと、言葉の冷たさ。二つの矛盾した感情に引き裂かれながら、結衣は、蓮という人物が、彼女が思うよりも遥かに複雑で、深い秘密を抱えているのではないかという確信を強めるのだった。