政略結婚という名の「契約」が成立してから三日後、結衣は東條家の別邸に移り住んだ。
東條家は、都心にありながら広大な敷地を持つ、美術館のような邸宅だった。高い塀に囲まれ、外部の喧騒とは隔絶されたその空間は、美しく整えられているにもかかわらず、どこか冷たい空気を纏っていた。
「結衣様、こちらが東條様とご一緒にお使いいただくマスタースイートでございます」
東條家の年配の使用人、佐久間が、丁寧に結衣を案内する。
マスタースイートは、結衣の今までの部屋の優に三倍はある広さだった。調度品はどれも一流だが、生活感がなく、まるで高級ホテルのモデルルームのようだ。そして、部屋の中心に据えられたキングサイズのベッドを見て、結衣は改めて現実を突きつけられた。
(蓮様と、ここで……)
もちろん、結婚は「契約」だ。真実の愛に基づくものではない。だが、同じ空間で生活し、同じ寝室を共有するという事実は、結衣の心を重くした。
夜、蓮が帰宅するまでの数時間、結衣は部屋の窓辺で佇んでいた。眼下に広がる完璧に手入れされた庭園を眺めながら、彼女は自問自答を繰り返す。
(私は、会社の危機を救うため、自分を売った。それは仕方ない。けれど……蓮様の隣にいることが、あまりにも、苦しい)
蓮は、政略結婚とはいえ、結衣に対して無礼な態度はとらない。むしろ、必要なものは全て揃え、快適な環境を提供してくれている。しかし、その態度はあくまで「契約の相手」に対するものであり、温かさや、心を交わすような感情は一切なかった。
「お戻りになりました、結衣様」
佐久間の声に、結衣は居住まいを正した。
蓮が部屋に入ってきた。スーツ姿は完璧だが、ネクタイを少し緩め、疲労を滲ませていた。彼は結衣を一瞥したが、すぐに視線を外し、書斎スペースに置かれたデスクに向かった。
「おかえりなさいませ。蓮様」
結衣が挨拶をすると、蓮は書類を広げたまま、低い声で返した。
「ああ。高瀬社長の会社への資金は、予定通り全額振り込まれた。これで、当面の危機は回避できるはずだ」
「ありがとうございます。父も大変喜んでおりました」
「当然だ。私は契約を履行したまでだ」
その言葉が、結衣の胸に冷たく突き刺さった。二人の会話は、常にビジネスライクで、感情の交流がない。
結衣は、これ以上邪魔をしてはいけないと思い、そっと着替えのためにバスルームに向かおうとした。
その時だった。
蓮は、結衣が背を向けた、ほんの一瞬だけ、手元の書類から視線を上げた。
彼の冷たい瞳が、結衣の細い背中を捉える。窓からの月光に照らされたそのシルエットは、どこか頼りなく、すぐにでも消えてしまいそうな危うさを秘めていた。
(……結衣)
蓮は、唇の奥で、小さくその名を呼んだ。
彼女が、自分の目の前にいる。同じ屋根の下にいる。この事実が、彼の胸の奥で、熱い炎のように脈打っていた。
蓮は、この政略結婚が、自分にとってどれほど大きな意味を持つか、誰にも言っていない。
それは、もう二十年近く前のこと。幼い蓮は、東條グループの厳格な教育から逃れるように、時折、母の旧知の友人が住む別荘に出入りしていた。
そこで、彼は、花が咲く庭で遊んでいる、華やかなドレスを着た小さな女の子に出会った。それが、高瀬家の令嬢、結衣だった。
当時の結衣は、いつも笑っていて、蓮のような孤独な子供にも分け隔てなく接してくれた。
「ねえ、お兄ちゃん。このお花、結衣が育てたの。綺麗でしょう?」
「……ああ」
内向的だった蓮は、まともに会話もできなかったが、結衣の屈託のない笑顔は、彼にとって唯一の光だった。
それ以来、蓮は、遠くからずっと結衣を見てきた。彼女が名門女子校に入学したこと、大学でアパレルデザインを学んだこと、そして、社交界で優雅に振る舞う姿。全てを知っていた。
彼にとって、結衣は「手の届かない、高嶺の花」だった。
だからこそ、高瀬アパレルの危機を知ったとき、蓮は動いた。この政略結婚という形しか、彼女を自分の傍に置く方法はなかったと、確信していたからだ。
蓮は、再び無表情の仮面を取り戻し、書類に視線を戻した。しかし、彼の指先は、持っていた万年筆を強く握りすぎて、白くなっている。
(君は、俺が君の家を助けたから、俺と結婚したと思っているだろう。それでいい。それで構わない)
(だが、俺は、君が欲しかったんだ)
彼は、秘めた想いをひた隠しにする。結衣が、彼との結婚を「契約」として割り切ってくれる方が、傷つけずに済む、と自分に言い聞かせているのだ。
翌日、結衣は蓮の秘書から、今後のスケジュールを渡された。慈善パーティ、企業のレセプション、そして、婚約記念のディナー。
その一つ、老舗デパートでの新作ジュエリーの展示会に向かうため、結衣は蓮と連れ立って東條邸を出た。
車寄せで待つ、蓮の専用車。運転席のドアが開き、蓮が先に乗り込んだ。その間、結衣は一歩遅れて車の傍に立つ。
その時、蓮は、結衣が入ってくるのを待つ間、一瞬だけ車内のミラー越しに結衣を見た。
結衣は、新しい婚約者として恥ずかしくないよう、控えめながらも上品なドレスを纏い、背筋を伸ばして立っている。その姿は、確かに美しい。
その表情は、少し寂しそうだったが、蓮の目には、どこか決意を固めたように、健気に映った。
蓮は、ハンドルを握る運転手に気づかれないよう、唇の端をわずかに緩ませた。それは、冷徹な御曹司からは想像もできない、幼い恋心を抱く一人の男の、安堵の表情だった。
(これでいい。俺の傍にいる。それだけで、俺のすべてだ)
しかし、その安堵は、まだ「偽りの婚約」という薄氷の上に立っていることを、蓮はまだ知らなかった。そして、その薄氷が、次の瞬間、残酷に砕かれることになるとも――。
東條家は、都心にありながら広大な敷地を持つ、美術館のような邸宅だった。高い塀に囲まれ、外部の喧騒とは隔絶されたその空間は、美しく整えられているにもかかわらず、どこか冷たい空気を纏っていた。
「結衣様、こちらが東條様とご一緒にお使いいただくマスタースイートでございます」
東條家の年配の使用人、佐久間が、丁寧に結衣を案内する。
マスタースイートは、結衣の今までの部屋の優に三倍はある広さだった。調度品はどれも一流だが、生活感がなく、まるで高級ホテルのモデルルームのようだ。そして、部屋の中心に据えられたキングサイズのベッドを見て、結衣は改めて現実を突きつけられた。
(蓮様と、ここで……)
もちろん、結婚は「契約」だ。真実の愛に基づくものではない。だが、同じ空間で生活し、同じ寝室を共有するという事実は、結衣の心を重くした。
夜、蓮が帰宅するまでの数時間、結衣は部屋の窓辺で佇んでいた。眼下に広がる完璧に手入れされた庭園を眺めながら、彼女は自問自答を繰り返す。
(私は、会社の危機を救うため、自分を売った。それは仕方ない。けれど……蓮様の隣にいることが、あまりにも、苦しい)
蓮は、政略結婚とはいえ、結衣に対して無礼な態度はとらない。むしろ、必要なものは全て揃え、快適な環境を提供してくれている。しかし、その態度はあくまで「契約の相手」に対するものであり、温かさや、心を交わすような感情は一切なかった。
「お戻りになりました、結衣様」
佐久間の声に、結衣は居住まいを正した。
蓮が部屋に入ってきた。スーツ姿は完璧だが、ネクタイを少し緩め、疲労を滲ませていた。彼は結衣を一瞥したが、すぐに視線を外し、書斎スペースに置かれたデスクに向かった。
「おかえりなさいませ。蓮様」
結衣が挨拶をすると、蓮は書類を広げたまま、低い声で返した。
「ああ。高瀬社長の会社への資金は、予定通り全額振り込まれた。これで、当面の危機は回避できるはずだ」
「ありがとうございます。父も大変喜んでおりました」
「当然だ。私は契約を履行したまでだ」
その言葉が、結衣の胸に冷たく突き刺さった。二人の会話は、常にビジネスライクで、感情の交流がない。
結衣は、これ以上邪魔をしてはいけないと思い、そっと着替えのためにバスルームに向かおうとした。
その時だった。
蓮は、結衣が背を向けた、ほんの一瞬だけ、手元の書類から視線を上げた。
彼の冷たい瞳が、結衣の細い背中を捉える。窓からの月光に照らされたそのシルエットは、どこか頼りなく、すぐにでも消えてしまいそうな危うさを秘めていた。
(……結衣)
蓮は、唇の奥で、小さくその名を呼んだ。
彼女が、自分の目の前にいる。同じ屋根の下にいる。この事実が、彼の胸の奥で、熱い炎のように脈打っていた。
蓮は、この政略結婚が、自分にとってどれほど大きな意味を持つか、誰にも言っていない。
それは、もう二十年近く前のこと。幼い蓮は、東條グループの厳格な教育から逃れるように、時折、母の旧知の友人が住む別荘に出入りしていた。
そこで、彼は、花が咲く庭で遊んでいる、華やかなドレスを着た小さな女の子に出会った。それが、高瀬家の令嬢、結衣だった。
当時の結衣は、いつも笑っていて、蓮のような孤独な子供にも分け隔てなく接してくれた。
「ねえ、お兄ちゃん。このお花、結衣が育てたの。綺麗でしょう?」
「……ああ」
内向的だった蓮は、まともに会話もできなかったが、結衣の屈託のない笑顔は、彼にとって唯一の光だった。
それ以来、蓮は、遠くからずっと結衣を見てきた。彼女が名門女子校に入学したこと、大学でアパレルデザインを学んだこと、そして、社交界で優雅に振る舞う姿。全てを知っていた。
彼にとって、結衣は「手の届かない、高嶺の花」だった。
だからこそ、高瀬アパレルの危機を知ったとき、蓮は動いた。この政略結婚という形しか、彼女を自分の傍に置く方法はなかったと、確信していたからだ。
蓮は、再び無表情の仮面を取り戻し、書類に視線を戻した。しかし、彼の指先は、持っていた万年筆を強く握りすぎて、白くなっている。
(君は、俺が君の家を助けたから、俺と結婚したと思っているだろう。それでいい。それで構わない)
(だが、俺は、君が欲しかったんだ)
彼は、秘めた想いをひた隠しにする。結衣が、彼との結婚を「契約」として割り切ってくれる方が、傷つけずに済む、と自分に言い聞かせているのだ。
翌日、結衣は蓮の秘書から、今後のスケジュールを渡された。慈善パーティ、企業のレセプション、そして、婚約記念のディナー。
その一つ、老舗デパートでの新作ジュエリーの展示会に向かうため、結衣は蓮と連れ立って東條邸を出た。
車寄せで待つ、蓮の専用車。運転席のドアが開き、蓮が先に乗り込んだ。その間、結衣は一歩遅れて車の傍に立つ。
その時、蓮は、結衣が入ってくるのを待つ間、一瞬だけ車内のミラー越しに結衣を見た。
結衣は、新しい婚約者として恥ずかしくないよう、控えめながらも上品なドレスを纏い、背筋を伸ばして立っている。その姿は、確かに美しい。
その表情は、少し寂しそうだったが、蓮の目には、どこか決意を固めたように、健気に映った。
蓮は、ハンドルを握る運転手に気づかれないよう、唇の端をわずかに緩ませた。それは、冷徹な御曹司からは想像もできない、幼い恋心を抱く一人の男の、安堵の表情だった。
(これでいい。俺の傍にいる。それだけで、俺のすべてだ)
しかし、その安堵は、まだ「偽りの婚約」という薄氷の上に立っていることを、蓮はまだ知らなかった。そして、その薄氷が、次の瞬間、残酷に砕かれることになるとも――。

