「――結衣。聞いてくれ。高瀬アパレルは、もう、どうにもならないかもしれない」
秋風が窓を叩く夜、父の書斎に呼ばれた結衣は、その一言で世界が凍りつくのを感じた。
老舗アパレル企業『高瀬アパレル』。祖父の代から続く、結衣にとって誇りだったその会社は、過去二年の急激な時代の変化と、新規事業の失敗が重なり、今、倒産という崖っぷちに立たされているという。
「お父様……」
社長である父、高瀬重之は、いつもの威厳ある姿ではなく、まるで数年老け込んだかのように、椅子に深く沈み込んでいた。書類の山に囲まれた彼の顔には、疲労と、そして深い絶望が刻まれている。
結衣は、華やかな社交界の令嬢として育った。これまで、会社の経営など知る由もなかった。しかし、父の苦悩を目の当たりにして、自分がただ傍観者でいることはできないと強く感じた。
「何か、方法は。融資のあては、まだないのですか?」
結衣の絞り出すような問いに、父は重い頭を振った。
「全て試した。だが、どの銀行も首を縦に振らない。この規模の負債、うちのような老舗を助けるメリットがないと……」
結衣の喉の奥が、ぎゅっと締め付けられた。このままでは、父の代で全てが終わってしまう。社員たちの生活も、長年築き上げられてきた会社の歴史も、全てが灰になってしまう。
その夜、結衣は一睡もできなかった。窓の外の暗闇のように、彼女の心も未来も、真っ暗に閉ざされてしまったように感じられた。
二日後。
重苦しい空気の中、結衣は父に連れられて、都心の一等地にそびえ立つ、ガラス張りの超高層ビルを訪れていた。
『東條グループ本社』。日本の経済界を牛耳る、巨大な財閥の本拠地である。
案内された最上階の応接室は、息を飲むほど豪華で、窓からは東京の街並みが遥か眼下に見下ろせた。その空間に、たった一人、結衣たちのために待っている人物がいた。
東條 蓮。
東條グループの若き社長。わずか二十代後半でこの巨大グループのトップに立ち、その冷徹な経営手腕と、驚異的な決断力で業界を震撼させてきた人物だ。
彼は、黒のストライプが入ったスーツを完璧に着こなし、ソファに静かに座っていた。無駄のない、研ぎ澄まされた美しさを持つ顔立ちは、雑誌で見るよりも遥かに冷ややかで、一切の感情を読み取らせない。
「東條様、この度はお時間をいただき、誠にありがとうございます」
父が深々と頭を下げる。蓮は、書類から目を上げることなく、静かに言った。
「高瀬社長。本題に入らせていただきます。貴社への資金援助についてですが、東條グループとして、独断で判断させていただきます」
その言葉に、父は一瞬息を呑み、そして僅かに光を見出した。
「よ、よろしいのですか……!?」
蓮は、ようやく手元の書類を閉じ、結衣に向かって視線を移した。その瞳は、凍てつく湖面のように、深く、感情の色がない。
「融資は可能です。高瀬アパレルが抱える負債の全てを肩代わりし、東條グループの傘下に入れる。経営権はこちらにありますが、高瀬社長の役職はそのまま維持し、ブランドの存続もお約束しましょう」
父の顔に安堵の色が広がった、次の瞬間。蓮は、一つの条件を付け加えた。
「ただし、条件があります。結衣さん」
蓮の視線が、結衣の動きを封じる。
「貴女と、私の結婚です」
結衣は、心臓が脈打つのを忘れたかのように、息を止めた。
「……結婚?」
「ええ。これは、単なる資金援助ではありません。東條グループと高瀬家の関係強化、そして、私個人の事業戦略の一環です」
蓮の言葉は、まるで商談の一部を切り取ったかのように淡々としている。そこに、恋愛感情のかけらもないことは、結衣にも明らかだった。
「どういう……ことです、東條様」
結衣は、震える声で尋ねた。
蓮は、一瞬だけ、結衣の目を見つめた。その瞳の奥に、何か隠された光が宿ったように見えたが、それはすぐに冷たい仮面の下に隠された。
「そのままの意味です。私は貴女との政略結婚を望む。貴女の家を助けるため、そして、東條グループの利益のためです」
蓮は、そう言い切った。
「結婚を受け入れていただければ、明日にも資金は振り込まれます。断れば……高瀬アパレルの命運は尽きるでしょう」
それは、選択肢のない、冷酷な契約だった。
父は、苦悩に顔を歪ませていたが、社員たちの顔と、会社の未来が脳裏をよぎったのだろう。彼が口を開くよりも早く、結衣は、深く息を吸い込んだ。
「……わかりました」
結衣は、震えを押し殺し、蓮の冷たい瞳を真正面から見つめ返した。
「東條様。私、高瀬結衣が、貴方との結婚をお受けします」
蓮の口元が、ほんのわずか、微かに歪んだように見えた。それは、勝利の笑みなのか、それとも、別の感情なのか。結衣には判別できなかった。
「賢明なご判断です、結衣さん」
蓮はそう言い、立ち上がって結衣の前に進み出た。
そして、その氷のような指先が、結衣の冷え切った手に触れたとき、結衣は、これから始まる「偽りの婚約」が、どれほど冷たく、切ないものになるのかを、直感的に悟ったのだった。
秋風が窓を叩く夜、父の書斎に呼ばれた結衣は、その一言で世界が凍りつくのを感じた。
老舗アパレル企業『高瀬アパレル』。祖父の代から続く、結衣にとって誇りだったその会社は、過去二年の急激な時代の変化と、新規事業の失敗が重なり、今、倒産という崖っぷちに立たされているという。
「お父様……」
社長である父、高瀬重之は、いつもの威厳ある姿ではなく、まるで数年老け込んだかのように、椅子に深く沈み込んでいた。書類の山に囲まれた彼の顔には、疲労と、そして深い絶望が刻まれている。
結衣は、華やかな社交界の令嬢として育った。これまで、会社の経営など知る由もなかった。しかし、父の苦悩を目の当たりにして、自分がただ傍観者でいることはできないと強く感じた。
「何か、方法は。融資のあては、まだないのですか?」
結衣の絞り出すような問いに、父は重い頭を振った。
「全て試した。だが、どの銀行も首を縦に振らない。この規模の負債、うちのような老舗を助けるメリットがないと……」
結衣の喉の奥が、ぎゅっと締め付けられた。このままでは、父の代で全てが終わってしまう。社員たちの生活も、長年築き上げられてきた会社の歴史も、全てが灰になってしまう。
その夜、結衣は一睡もできなかった。窓の外の暗闇のように、彼女の心も未来も、真っ暗に閉ざされてしまったように感じられた。
二日後。
重苦しい空気の中、結衣は父に連れられて、都心の一等地にそびえ立つ、ガラス張りの超高層ビルを訪れていた。
『東條グループ本社』。日本の経済界を牛耳る、巨大な財閥の本拠地である。
案内された最上階の応接室は、息を飲むほど豪華で、窓からは東京の街並みが遥か眼下に見下ろせた。その空間に、たった一人、結衣たちのために待っている人物がいた。
東條 蓮。
東條グループの若き社長。わずか二十代後半でこの巨大グループのトップに立ち、その冷徹な経営手腕と、驚異的な決断力で業界を震撼させてきた人物だ。
彼は、黒のストライプが入ったスーツを完璧に着こなし、ソファに静かに座っていた。無駄のない、研ぎ澄まされた美しさを持つ顔立ちは、雑誌で見るよりも遥かに冷ややかで、一切の感情を読み取らせない。
「東條様、この度はお時間をいただき、誠にありがとうございます」
父が深々と頭を下げる。蓮は、書類から目を上げることなく、静かに言った。
「高瀬社長。本題に入らせていただきます。貴社への資金援助についてですが、東條グループとして、独断で判断させていただきます」
その言葉に、父は一瞬息を呑み、そして僅かに光を見出した。
「よ、よろしいのですか……!?」
蓮は、ようやく手元の書類を閉じ、結衣に向かって視線を移した。その瞳は、凍てつく湖面のように、深く、感情の色がない。
「融資は可能です。高瀬アパレルが抱える負債の全てを肩代わりし、東條グループの傘下に入れる。経営権はこちらにありますが、高瀬社長の役職はそのまま維持し、ブランドの存続もお約束しましょう」
父の顔に安堵の色が広がった、次の瞬間。蓮は、一つの条件を付け加えた。
「ただし、条件があります。結衣さん」
蓮の視線が、結衣の動きを封じる。
「貴女と、私の結婚です」
結衣は、心臓が脈打つのを忘れたかのように、息を止めた。
「……結婚?」
「ええ。これは、単なる資金援助ではありません。東條グループと高瀬家の関係強化、そして、私個人の事業戦略の一環です」
蓮の言葉は、まるで商談の一部を切り取ったかのように淡々としている。そこに、恋愛感情のかけらもないことは、結衣にも明らかだった。
「どういう……ことです、東條様」
結衣は、震える声で尋ねた。
蓮は、一瞬だけ、結衣の目を見つめた。その瞳の奥に、何か隠された光が宿ったように見えたが、それはすぐに冷たい仮面の下に隠された。
「そのままの意味です。私は貴女との政略結婚を望む。貴女の家を助けるため、そして、東條グループの利益のためです」
蓮は、そう言い切った。
「結婚を受け入れていただければ、明日にも資金は振り込まれます。断れば……高瀬アパレルの命運は尽きるでしょう」
それは、選択肢のない、冷酷な契約だった。
父は、苦悩に顔を歪ませていたが、社員たちの顔と、会社の未来が脳裏をよぎったのだろう。彼が口を開くよりも早く、結衣は、深く息を吸い込んだ。
「……わかりました」
結衣は、震えを押し殺し、蓮の冷たい瞳を真正面から見つめ返した。
「東條様。私、高瀬結衣が、貴方との結婚をお受けします」
蓮の口元が、ほんのわずか、微かに歪んだように見えた。それは、勝利の笑みなのか、それとも、別の感情なのか。結衣には判別できなかった。
「賢明なご判断です、結衣さん」
蓮はそう言い、立ち上がって結衣の前に進み出た。
そして、その氷のような指先が、結衣の冷え切った手に触れたとき、結衣は、これから始まる「偽りの婚約」が、どれほど冷たく、切ないものになるのかを、直感的に悟ったのだった。

