父に告げられた見合い話から三日が経った。一条家の重厚な空気は、まるで梅雨時のように淀んでいる。
柚月は、自分の部屋で机に向かっていたが、目の前の教科書もノートも、まるで意味をなさなかった。頭の中は、一週間後に迫った二階堂家での顔合わせでいっぱいだ。
(どうすれば、蓮さまに納得してもらえるだろう)
説得は不可能だ。父の「決定事項」という言葉の重みは、一条家と二階堂家の間にある、数百年続く「家」のしがらみを象徴していた。社長令嬢である柚月には、それを覆すだけの力はない。
唯一、残された道。それは、蓮が柚月との結婚を「得策ではない」と判断させることだ。
だが、蓮は感情論では動かない。常に合理的で、一条家の娘として完璧であることを求める彼に対し、柚月がただ「苦手」だと言っても、それは「子供のわがまま」として一蹴されるだけだろう。
「わがまま……」
柚月は、小さな声で呟いた。そして、デスクの引き出しの奥から、一枚の写真を取り出した。
それは、高校のテニス部OB・OG会で撮られた集合写真だ。柚月が、ひっそりと想いを寄せる 結城 篤先輩は、写真の真ん中で、人懐っこい笑顔を浮かべている。
結城先輩は、優しくて穏やかだ。蓮のような有無を言わせぬ威圧感も、説教じみた正論もない。ただ、柚月の話に耳を傾け、「柚月ちゃんらしいね」と、ありのままを肯定してくれる。
柚月が蓮の「説教」で積み重ねた自己否定の欠片を、結城先輩の優しい眼差しが静かに包み込んでくれた。彼との距離は、まだ挨拶と軽い会話程度だが、柚月にとって、結城先輩は「自由」の象徴だった。
(蓮さまは、きっと、私が他の誰かに夢中になっていること、家柄や将来ではなく、「恋」という非合理的な理由で彼を拒んでいることを知れば、不快になるはずだ)
蓮は、完璧な妻、完璧な後継者を求めている。高校生の恋愛など、彼の目には「くだらない遊び」に映るだろう。そして、一条家の娘として、そんな「遊び」に現を抜かす柚月を、「不適合」だと見なすに違いない。
「そうよ。この見合いを壊すには、私が蓮さまの理想から最も遠い存在になるしかない」
柚月は、写真の結城先輩の笑顔をじっと見つめた。その笑顔が、柚月の見合いを断るための盾となる。
翌日、柚月は卒業を控えた登校日にも関わらず、心臓が跳ね上がるのを感じた。
昇降口の近くのテニスコートを、見慣れたスーツ姿の男性が横切ろうとしていたからだ。
二階堂 蓮。
なぜ彼がここに? 蓮は、柚月の母校のOBではない。
彼は、その完璧な姿勢でスマートフォンを耳に当て、低い声で流暢なビジネス用語を話している。周囲の生徒たちは、その圧倒的な存在感に気づき、ざわめきながらも近づこうとしない。
柚月は、瞬時にロッカーの陰に身を隠した。
(まさか、父に言われて私の様子を見に来たの……? 蓮さまは、本当に私の監視役だわ!)
蓮の視線が、ふと柚月が隠れている方向に向けられたような気がした。柚月は息を殺し、心臓の音を抑えるのに必死だった。彼の鋭い視線が、全てを見透かすように感じられる。
しばらくして、蓮は通話を終え、柚月の学校の理事長らしき人物と合流し、そのまま校舎の奥へと消えていった。
「良かった……」
安堵の息を吐きながら、柚月は改めて、蓮の存在が自分にとってどれほど重圧であるかを痛感した。彼は、優しさの裏に、徹底的な支配欲を持っているように思える。
しかし、この蓮の訪問は、柚月の決意をさらに固めるものとなった。
蓮は、柚月がどこにいようと、いつだって「一条家の娘」として振る舞うことを求めている。その期待を、真っ向から裏切る必要がある。
放課後。柚月は、意を決して、三年生が使う旧校舎の廊下を歩いた。
目的は、結城先輩の教室だ。先輩は部活を引退しているが、今日は卒業アルバムの編集で学校に来ているはずだ。
教室の扉をノックする直前、柚月は一度、深呼吸をした。
「柚月ちゃん、どうしたの?」
教室から顔を出したのは、結城先輩の親友の男子生徒だった。
「あの、結城先輩は、いらっしゃいますか?」
柚月が尋ねると、男子生徒はニヤリと笑った。
「おう、結城ならいるぞ。相変わらずモテモテでな、後輩たちからチョコの残党をもらって頬を緩ませてる」
教室の奥を覗くと、確かに結城先輩は、数人の女子生徒に囲まれて楽しそうに笑っていた。彼の周りだけ、春の光が増しているようだ。
柚月は勇気を振り絞り、結城先輩に近づいた。
「あの、結城先輩。少し、お話ししたいことがあります」
柚月が精一杯の声を出すと、結城先輩は驚いたように振り返った。
「お、柚月ちゃんじゃないか。珍しいね、僕に用事?」
彼の柔らかな声を聞くだけで、柚月の心は安らぐ。蓮の冷たい声とは全く違う、暖かな温度だ。
柚月は、一瞬、周りの女子生徒たちの視線を感じたが、気にせず続けた。
「はい。わたくしの個人的なことなのですが……お話、聞いていただけますか」
柚月が「個人的な」という言葉を強調したのは、これが、蓮との見合いを断るための布石になるかもしれないと考えたからだ。
結城先輩は、少し目を丸くした後、すぐにいつもの優しい笑顔に戻った。
「もちろん、いいよ。じゃあ、ちょっと場所を変えようか」
彼は、周囲の女子生徒たちに「またな」と手を振ると、柚月を促した。
二人は、夕焼けに染まり始めた中庭のベンチに座った。空気は冷たいが、どこか希望に満ちた春の匂いがする。
「それで、個人的な話って?」
結城先輩が優しく問いかける。
柚月は、結城先輩の顔を見つめ、一気に、心の中の切実な願いを吐き出した。
「実は、わたくし、どうしても断りたい縁談があるんです。相手は、家の事情で、とても権力のある方で……正直に言えば、私の気持ちなど、全く無視される状況で」
結城先輩の目が、真剣な色を帯びる。
「そんな大変な話だったのか……」
「はい。だから、わたくしは……好きな人がいるということを、嘘偽りなく、その方に伝えたい。そして、その好きな人が、わたくしにとってどれほど大切な存在であるか、知っていただきたいんです」
柚月は、言葉を選びながら、自分の心の中にある結城先輩への想いと、見合いを断るという強い意志を織り交ぜて伝えた。
「その……好きな人というのが、結城先輩なんです」
柚月は、頬が熱くなるのを感じながら、俯いた。結城先輩の反応が恐ろしい。しかし、この言葉は、ただの告白ではない。これは、蓮への、そして父への、戦いの狼煙なのだ。
数秒の沈黙の後、結城先輩は、困ったような、しかし、どこか戸惑ったような声で言った。
「柚月ちゃん……ありがとう。正直、驚いたけど……」
彼は、静かに柚月の方を向いた。
「君が、その縁談を断るための理由として、僕の名前を使いたいなら、僕は構わないよ」
その言葉は、柚月にとって予想外のものだった。
(理由として……?)
彼の言葉は、「君の気持ちを受け入れる」ではなく、「君の道具になる」という響きだった。
「でも、柚月ちゃん。僕で本当にいいの? もし、その見合い相手と僕が、『敵対関係』になるようなことがあっても?」
結城先輩の瞳は、優しさの中に、何かを決意した強さを宿していた。
柚月は、彼の戸惑いと、その奥にある友情にも似た優しさを感じ取りながら、深く頭を下げた。
「はい。お願いします。わたくしにとって、結城先輩は、自由で、温かい気持ちを与えてくれる、かけがえのない存在です。どうか、わたくしの『好きな人』でいてください」
それは、切ないすれ違いの、始まりの言葉だった。柚月の気持ちは真実だが、結城先輩はそれを「縁談を断るための策略」として受け止めた。
そしてこの「誤解」が、蓮との間に、更なる大きな「拗れ」を生むことになる。
柚月は、自分の部屋で机に向かっていたが、目の前の教科書もノートも、まるで意味をなさなかった。頭の中は、一週間後に迫った二階堂家での顔合わせでいっぱいだ。
(どうすれば、蓮さまに納得してもらえるだろう)
説得は不可能だ。父の「決定事項」という言葉の重みは、一条家と二階堂家の間にある、数百年続く「家」のしがらみを象徴していた。社長令嬢である柚月には、それを覆すだけの力はない。
唯一、残された道。それは、蓮が柚月との結婚を「得策ではない」と判断させることだ。
だが、蓮は感情論では動かない。常に合理的で、一条家の娘として完璧であることを求める彼に対し、柚月がただ「苦手」だと言っても、それは「子供のわがまま」として一蹴されるだけだろう。
「わがまま……」
柚月は、小さな声で呟いた。そして、デスクの引き出しの奥から、一枚の写真を取り出した。
それは、高校のテニス部OB・OG会で撮られた集合写真だ。柚月が、ひっそりと想いを寄せる 結城 篤先輩は、写真の真ん中で、人懐っこい笑顔を浮かべている。
結城先輩は、優しくて穏やかだ。蓮のような有無を言わせぬ威圧感も、説教じみた正論もない。ただ、柚月の話に耳を傾け、「柚月ちゃんらしいね」と、ありのままを肯定してくれる。
柚月が蓮の「説教」で積み重ねた自己否定の欠片を、結城先輩の優しい眼差しが静かに包み込んでくれた。彼との距離は、まだ挨拶と軽い会話程度だが、柚月にとって、結城先輩は「自由」の象徴だった。
(蓮さまは、きっと、私が他の誰かに夢中になっていること、家柄や将来ではなく、「恋」という非合理的な理由で彼を拒んでいることを知れば、不快になるはずだ)
蓮は、完璧な妻、完璧な後継者を求めている。高校生の恋愛など、彼の目には「くだらない遊び」に映るだろう。そして、一条家の娘として、そんな「遊び」に現を抜かす柚月を、「不適合」だと見なすに違いない。
「そうよ。この見合いを壊すには、私が蓮さまの理想から最も遠い存在になるしかない」
柚月は、写真の結城先輩の笑顔をじっと見つめた。その笑顔が、柚月の見合いを断るための盾となる。
翌日、柚月は卒業を控えた登校日にも関わらず、心臓が跳ね上がるのを感じた。
昇降口の近くのテニスコートを、見慣れたスーツ姿の男性が横切ろうとしていたからだ。
二階堂 蓮。
なぜ彼がここに? 蓮は、柚月の母校のOBではない。
彼は、その完璧な姿勢でスマートフォンを耳に当て、低い声で流暢なビジネス用語を話している。周囲の生徒たちは、その圧倒的な存在感に気づき、ざわめきながらも近づこうとしない。
柚月は、瞬時にロッカーの陰に身を隠した。
(まさか、父に言われて私の様子を見に来たの……? 蓮さまは、本当に私の監視役だわ!)
蓮の視線が、ふと柚月が隠れている方向に向けられたような気がした。柚月は息を殺し、心臓の音を抑えるのに必死だった。彼の鋭い視線が、全てを見透かすように感じられる。
しばらくして、蓮は通話を終え、柚月の学校の理事長らしき人物と合流し、そのまま校舎の奥へと消えていった。
「良かった……」
安堵の息を吐きながら、柚月は改めて、蓮の存在が自分にとってどれほど重圧であるかを痛感した。彼は、優しさの裏に、徹底的な支配欲を持っているように思える。
しかし、この蓮の訪問は、柚月の決意をさらに固めるものとなった。
蓮は、柚月がどこにいようと、いつだって「一条家の娘」として振る舞うことを求めている。その期待を、真っ向から裏切る必要がある。
放課後。柚月は、意を決して、三年生が使う旧校舎の廊下を歩いた。
目的は、結城先輩の教室だ。先輩は部活を引退しているが、今日は卒業アルバムの編集で学校に来ているはずだ。
教室の扉をノックする直前、柚月は一度、深呼吸をした。
「柚月ちゃん、どうしたの?」
教室から顔を出したのは、結城先輩の親友の男子生徒だった。
「あの、結城先輩は、いらっしゃいますか?」
柚月が尋ねると、男子生徒はニヤリと笑った。
「おう、結城ならいるぞ。相変わらずモテモテでな、後輩たちからチョコの残党をもらって頬を緩ませてる」
教室の奥を覗くと、確かに結城先輩は、数人の女子生徒に囲まれて楽しそうに笑っていた。彼の周りだけ、春の光が増しているようだ。
柚月は勇気を振り絞り、結城先輩に近づいた。
「あの、結城先輩。少し、お話ししたいことがあります」
柚月が精一杯の声を出すと、結城先輩は驚いたように振り返った。
「お、柚月ちゃんじゃないか。珍しいね、僕に用事?」
彼の柔らかな声を聞くだけで、柚月の心は安らぐ。蓮の冷たい声とは全く違う、暖かな温度だ。
柚月は、一瞬、周りの女子生徒たちの視線を感じたが、気にせず続けた。
「はい。わたくしの個人的なことなのですが……お話、聞いていただけますか」
柚月が「個人的な」という言葉を強調したのは、これが、蓮との見合いを断るための布石になるかもしれないと考えたからだ。
結城先輩は、少し目を丸くした後、すぐにいつもの優しい笑顔に戻った。
「もちろん、いいよ。じゃあ、ちょっと場所を変えようか」
彼は、周囲の女子生徒たちに「またな」と手を振ると、柚月を促した。
二人は、夕焼けに染まり始めた中庭のベンチに座った。空気は冷たいが、どこか希望に満ちた春の匂いがする。
「それで、個人的な話って?」
結城先輩が優しく問いかける。
柚月は、結城先輩の顔を見つめ、一気に、心の中の切実な願いを吐き出した。
「実は、わたくし、どうしても断りたい縁談があるんです。相手は、家の事情で、とても権力のある方で……正直に言えば、私の気持ちなど、全く無視される状況で」
結城先輩の目が、真剣な色を帯びる。
「そんな大変な話だったのか……」
「はい。だから、わたくしは……好きな人がいるということを、嘘偽りなく、その方に伝えたい。そして、その好きな人が、わたくしにとってどれほど大切な存在であるか、知っていただきたいんです」
柚月は、言葉を選びながら、自分の心の中にある結城先輩への想いと、見合いを断るという強い意志を織り交ぜて伝えた。
「その……好きな人というのが、結城先輩なんです」
柚月は、頬が熱くなるのを感じながら、俯いた。結城先輩の反応が恐ろしい。しかし、この言葉は、ただの告白ではない。これは、蓮への、そして父への、戦いの狼煙なのだ。
数秒の沈黙の後、結城先輩は、困ったような、しかし、どこか戸惑ったような声で言った。
「柚月ちゃん……ありがとう。正直、驚いたけど……」
彼は、静かに柚月の方を向いた。
「君が、その縁談を断るための理由として、僕の名前を使いたいなら、僕は構わないよ」
その言葉は、柚月にとって予想外のものだった。
(理由として……?)
彼の言葉は、「君の気持ちを受け入れる」ではなく、「君の道具になる」という響きだった。
「でも、柚月ちゃん。僕で本当にいいの? もし、その見合い相手と僕が、『敵対関係』になるようなことがあっても?」
結城先輩の瞳は、優しさの中に、何かを決意した強さを宿していた。
柚月は、彼の戸惑いと、その奥にある友情にも似た優しさを感じ取りながら、深く頭を下げた。
「はい。お願いします。わたくしにとって、結城先輩は、自由で、温かい気持ちを与えてくれる、かけがえのない存在です。どうか、わたくしの『好きな人』でいてください」
それは、切ないすれ違いの、始まりの言葉だった。柚月の気持ちは真実だが、結城先輩はそれを「縁談を断るための策略」として受け止めた。
そしてこの「誤解」が、蓮との間に、更なる大きな「拗れ」を生むことになる。

