柚月が蓮の孤独な愛を理解し、初めて献身的な優しさを見せてから、蓮の冷徹な仮面は、柚月の前では頻繁に揺らぐようになった。彼はまだ、「愛している」とは言わない。しかし、彼の行動は、柚月の安全と幸福を最優先にする守護者のものへと変わっていった。

ある日の午後。柚月は、蓮の執務室で、海外研修で必要となる書類の準備をしていた。デスクの引き出しの隅に、蓮が以前、庭のゴミ箱に捨てたはずの、小さなテディベアのキーホルダーが、きれいに収まっているのを見つけた。
柚月の心臓が、大きく跳ねた。

(蓮さまは、あのキーホルダーを……捨てていなかった?)
彼は、柚月の最後の抵抗の象徴を、乱暴にもぎ取った。それは柚月の目には、「支配」の行為に見えた。しかし、実際は、柚月の「愛する人」の存在が嘘だと知る前の、嫉妬と葛藤の末の行動だったのだろう。そして、彼は、誰にも見つからないように、それを大切にしまっていた。

柚月は、キーホルダーを手に取り、その小さな温もりに、蓮の孤独で不器用な愛の全てが凝縮されているのを感じた。
その時、蓮が執務室に入ってきた。柚月は、慌ててキーホルダーを隠そうとしたが、蓮は既にそれに気づいていた。

蓮の表情は、一瞬にして凍り付いた。それは、秘密を暴かれた羞恥心と、弱みを握られた恐怖が入り混じった顔だった。
「柚月……それは、どうした」
蓮の声は、低く、警戒を帯びていた。
「蓮さま。あなたは、これを捨てていなかったのですね」

柚月は、キーホルダーを蓮に見せつけた。
「これは、君が私への反抗の証としていたものだ。私は、それを確認するために……」
蓮は、必死で合理的な理由をつけようとしたが、言葉に詰まった。

柚月は、蓮の不器用な嘘をさえぎった。
「違います。蓮さまは、わたくしへの想いを、捨てられなかった。わたくしが、あなたを愛していないと知っていても、わたくしの全てを、捨てられなかったのですね」

柚月の目には、優しく、切ない光が宿っていた。

蓮は、観念したように、深く息を吐いた。彼の冷徹な仮面は、この瞬間、完全に剥がれ落ちた。
「……そうだ。私は、それを憎悪の対象として、捨てることができなかった。君があの男の愛を望んでいると知っていても、君の手から離れたくないと、私の心が願っていた」

蓮は、初めて「願い」という個人的な感情を吐露した。
「それは、愛です、蓮さま」
「愛……?私に、そんな弱い感情があるものか」
蓮は、未だに愛という過去の呪縛から逃れられない。
柚月は、キーホルダーをそっとデスクに置き、蓮の冷たい手を両手で包み込んだ。

「愛は、弱点ではありません。わたくしの嘘のせいで、蓮さまは孤独でい続けた。もう、強がらないでください」
柚月は、蓮の手を導き、自分の薬指に触れさせた。そこには、蓮が贈った巨大な婚約指輪が輝いている。
「この指輪は、わたくしにとって、かつては呪いの鎖でした。でも、今は違います」

柚月は、その指輪を見つめた。
「このダイヤの輝きは、蓮さまが築き上げた力の象徴です。そして、その力は、わたくしの安全と未来を、誰よりも完璧に守ってくれる。わたくしは、もう愛のない支配だとは思いません」

柚月は、蓮の目をまっすぐに見つめ、決意に満ちた声で言った。
「わたくしは、蓮さまの不器用な愛を、全て受け止めます。そして、わたくしが、蓮さまの孤独な世界を温める。あなたが、愛は弱点ではないと知るまで、わたくしが愛を与えます」

それは、柚月からの逆プロポーズであり、「新しい誓い」だった。

蓮は、柚月の真摯な誓いに、全身の力が抜けていくのを感じた。彼は、憎まれる覚悟で手に入れた婚約者から、愛と理解を与えられようとしている。
「柚月……」

蓮は、柚月の顔に手を添え、初めて、支配でも、衝動でもない、純粋な愛の眼差しを向けた。
「私は、君に愛を返す資格がない」
「違います。蓮さまは、既にわたくしに、誰よりも大きな愛を与えてくださいました。安全と、絶対的な居場所を。わたくしが欲しいのは、完璧な御曹司ではなく、孤独で、不器用な、あなた自身です」

柚月は、蓮の冷たい頬に、そっと温かいキスを落とした。それは、二人の間に交わされた、初めての、純粋な愛の触れ合いだった。
蓮は、そのキスに、過去の全ての孤独が溶けていくのを感じた。彼は、もう冷たい仮面を被る必要がないことを悟った。

蓮は、柚月を強く抱きしめた。その腕は、支配者の力ではなく、守護者の切実な温もりに満ちていた。
「柚月……」

蓮は、彼女の耳元で、初めて、素直な感情を囁いた。
「ありがとう。そして……手放したくない。一生、私の隣から、離れないでくれ」
それは、愛しているという言葉ではないが、蓮にとって、最も重く、最も純粋な愛の告白だった。

柚月は、蓮の腕の中で、静かに涙を流した。彼女の涙は、絶望でも後悔でもなく、新たな愛を見つけた喜びと、蓮の孤独を解き放てた安堵の涙だった。

二人の切ないすれ違いは、真実のキーホルダーと、愛を理解した婚約指輪によって終わりを告げた。そして、彼らは、不器用で、歪んでいるけれど、確かな愛によって、新しい夫婦としての道を歩み始めたのだった。