結城先輩の結婚を知って以来、柚月は「二階堂蓮の婚約者」という役割に徹していた。彼女の心は空っぽになり、蓮の要求する完璧な令嬢を演じることが、生きる上での唯一の行動指針となっていた。
蓮との距離は以前と変わらず冷たいままだったが、柚月はもう蓮を憎むことさえできなくなっていた。憎しみの対象である蓮に、自分が嘘をつき、叶わない恋を**「真実の愛」として突きつけたという罪悪感**が、彼女の心を支配していた。
そんなある日の午後。柚月は、大学の必修講義を終え、迎えに来た黒塗りの車に乗り込もうとしていた。運転席には、蓮の秘書である神崎が待っている。
「神崎さん、今日もありがとうございます」
柚月は、冷たい笑顔で挨拶した。神崎は、柚月が蓮の支配に完全に屈したことを理解しており、複雑な表情を浮かべていた。
「一条様。実は、本日、二階堂様は海外出張のため、急遽、私が運転を代わっております」
「そうでしたか」
蓮がそばにいないという事実に、柚月の心はわずかに安堵した。
車が走り出して間もなく、神崎は、バックミラー越しに柚月をまっすぐ見た。そして、意を決したように口を開いた。
「一条様。わたくし、二階堂様の側近として、このままではいけないと思い、お話しさせていただきたいことがございます」
「お話、ですか?」柚月は、怪訝に思った。
「柚月様が、二階堂様のことを冷酷な支配者だとお思いなのは存じております。ですが、二階堂様の『説教』や『支配』の根源は、柚月様への特別な想いから来ているのです」
柚月は、その言葉に、思わず声を荒げた。「特別な想い?あれは、品格を強要する監視です!わたくしへの愛など、蓮さまにはありません!」
神崎は、静かに首を横に振った。
「二階堂様は、ご自身が幼少期から『個人の感情は弱点だ』と厳しい教育を受け、孤独に耐えてこられた方です。ご自身の『自由』や『趣味』を全て奪われ、完璧な御曹司を演じ続けてきました」
神崎は、さらに続けた。それは、柚月が知ることのなかった、蓮の過去だった。
「二階堂様は、幼い頃、柚月様が『品がない』とご両親に怒られる姿を見て、ご自身と同じ孤独と苦痛を味わっていると誤解されました」
「その日から、二階堂様は、柚月様が二度と誰にも『品がない』と責められないように、先回りして指導することを決めたのです」
柚月の瞳が、大きく見開かれた。
「『高校生が化粧をするな』という説教も、『若い女性が悪意ある輩に目をつけられること』への恐れからでした。スカート丈の指摘も、『世間から指をさされ、傷つくこと』**を未然に防ぎたかったからです」
神崎は、車を安全な路肩に停め、柚月に振り返った。
「二階堂様にとっての『説教』は、ご自身が愛を表現する唯一の方法だったのです。ご自身が、愛を表現する方法を知らなかったのですから」
柚月の頭の中で、過去の蓮の冷たい言葉と、神崎の真実が、激しくぶつかり合った。
蓮の「説教」は、支配ではなく、「君を守る」という不器用で歪んだ愛だった?
そういえば、あのバーでの事件の時、蓮は「君の身の安全は、二階堂グループにとっても重要だ」と言った後、柚月を助けるために自ら乗り込んできて、右手を怪我していた。あの行動は、「家のため」という冷徹な論理だけでは説明がつかない、切迫した感情に満ちていた。
そして、柚月が結城先輩との「嘘の愛」を盾に婚約を拒否した時、蓮は「愛のない支配者」を演じ続けた。
「なぜ、蓮さまは……それを正直に言ってくださらなかったのですか」柚月は、震える声で尋ねた。
「二階堂様は、ご自身の感情を弱点だと信じておられます。そして、柚月様が『愛』という感情で婚約を拒否した際、二階堂様は、『愛の言葉』ではなく、『ビジネスの論理』という、ご自身が最も得意とする冷徹な武器でしか、柚月様を繋ぎ止めることができなかったのです」
神崎は、悲しそうに言った。
「全ては、柚月様を守りたいという、ただ一点の、歪んだ愛情から始まったのです」
柚月は、自分がこれまで蓮に抱いていた**「冷酷な支配者」というイメージが、音を立てて崩壊していく**のを感じた。
蓮の冷徹な態度は、憎しみではなく、不器用な愛の裏返しだった。そして、柚月は、その真意を全く理解せず、彼を愛のない男だと罵り、最後には嘘の愛を突きつけ、彼の唯一の弱点(愛)を攻撃したのだ。
柚月は、自分が蓮をどれほど深く誤解し、傷つけてきたかを悟り、激しい後悔の念に襲われた。
(私が憎んでいたのは、愛を隠した蓮さまの不器用さだった。そして、蓮さまは、私が愛する人を奪われた苦痛に耐えていると、ずっと誤解されていた……)
彼女の「愛する人がいない絶望」は、蓮にとっては「自分の論理で愛を打ち砕いた結果」だという、最悪のすれ違いが、そこにあった。
柚月は、顔を両手で覆い、静かに泣き始めた。彼女の涙は、結城先輩への失恋の涙ではなく、蓮への深い誤解と、罪悪感の涙だった。
「わたくしは……間違っていました。蓮さまは、わたくしのことを……」
神崎は、柚月の涙を見て、静かに車を発進させた。
「二階堂様は、愛を語るのが苦手な、孤独な守護者なのです。ただ、それだけなのです」
柚月の心に、新しい感情が芽生え始めていた。それは、これまでの憎しみでも恐怖でもなく、蓮の孤独に対する切ない理解と、彼に真実の愛を伝えられなかった自分への後悔だった。
柚月の誤解の氷は、今、完全に解け始めたのだった。
蓮との距離は以前と変わらず冷たいままだったが、柚月はもう蓮を憎むことさえできなくなっていた。憎しみの対象である蓮に、自分が嘘をつき、叶わない恋を**「真実の愛」として突きつけたという罪悪感**が、彼女の心を支配していた。
そんなある日の午後。柚月は、大学の必修講義を終え、迎えに来た黒塗りの車に乗り込もうとしていた。運転席には、蓮の秘書である神崎が待っている。
「神崎さん、今日もありがとうございます」
柚月は、冷たい笑顔で挨拶した。神崎は、柚月が蓮の支配に完全に屈したことを理解しており、複雑な表情を浮かべていた。
「一条様。実は、本日、二階堂様は海外出張のため、急遽、私が運転を代わっております」
「そうでしたか」
蓮がそばにいないという事実に、柚月の心はわずかに安堵した。
車が走り出して間もなく、神崎は、バックミラー越しに柚月をまっすぐ見た。そして、意を決したように口を開いた。
「一条様。わたくし、二階堂様の側近として、このままではいけないと思い、お話しさせていただきたいことがございます」
「お話、ですか?」柚月は、怪訝に思った。
「柚月様が、二階堂様のことを冷酷な支配者だとお思いなのは存じております。ですが、二階堂様の『説教』や『支配』の根源は、柚月様への特別な想いから来ているのです」
柚月は、その言葉に、思わず声を荒げた。「特別な想い?あれは、品格を強要する監視です!わたくしへの愛など、蓮さまにはありません!」
神崎は、静かに首を横に振った。
「二階堂様は、ご自身が幼少期から『個人の感情は弱点だ』と厳しい教育を受け、孤独に耐えてこられた方です。ご自身の『自由』や『趣味』を全て奪われ、完璧な御曹司を演じ続けてきました」
神崎は、さらに続けた。それは、柚月が知ることのなかった、蓮の過去だった。
「二階堂様は、幼い頃、柚月様が『品がない』とご両親に怒られる姿を見て、ご自身と同じ孤独と苦痛を味わっていると誤解されました」
「その日から、二階堂様は、柚月様が二度と誰にも『品がない』と責められないように、先回りして指導することを決めたのです」
柚月の瞳が、大きく見開かれた。
「『高校生が化粧をするな』という説教も、『若い女性が悪意ある輩に目をつけられること』への恐れからでした。スカート丈の指摘も、『世間から指をさされ、傷つくこと』**を未然に防ぎたかったからです」
神崎は、車を安全な路肩に停め、柚月に振り返った。
「二階堂様にとっての『説教』は、ご自身が愛を表現する唯一の方法だったのです。ご自身が、愛を表現する方法を知らなかったのですから」
柚月の頭の中で、過去の蓮の冷たい言葉と、神崎の真実が、激しくぶつかり合った。
蓮の「説教」は、支配ではなく、「君を守る」という不器用で歪んだ愛だった?
そういえば、あのバーでの事件の時、蓮は「君の身の安全は、二階堂グループにとっても重要だ」と言った後、柚月を助けるために自ら乗り込んできて、右手を怪我していた。あの行動は、「家のため」という冷徹な論理だけでは説明がつかない、切迫した感情に満ちていた。
そして、柚月が結城先輩との「嘘の愛」を盾に婚約を拒否した時、蓮は「愛のない支配者」を演じ続けた。
「なぜ、蓮さまは……それを正直に言ってくださらなかったのですか」柚月は、震える声で尋ねた。
「二階堂様は、ご自身の感情を弱点だと信じておられます。そして、柚月様が『愛』という感情で婚約を拒否した際、二階堂様は、『愛の言葉』ではなく、『ビジネスの論理』という、ご自身が最も得意とする冷徹な武器でしか、柚月様を繋ぎ止めることができなかったのです」
神崎は、悲しそうに言った。
「全ては、柚月様を守りたいという、ただ一点の、歪んだ愛情から始まったのです」
柚月は、自分がこれまで蓮に抱いていた**「冷酷な支配者」というイメージが、音を立てて崩壊していく**のを感じた。
蓮の冷徹な態度は、憎しみではなく、不器用な愛の裏返しだった。そして、柚月は、その真意を全く理解せず、彼を愛のない男だと罵り、最後には嘘の愛を突きつけ、彼の唯一の弱点(愛)を攻撃したのだ。
柚月は、自分が蓮をどれほど深く誤解し、傷つけてきたかを悟り、激しい後悔の念に襲われた。
(私が憎んでいたのは、愛を隠した蓮さまの不器用さだった。そして、蓮さまは、私が愛する人を奪われた苦痛に耐えていると、ずっと誤解されていた……)
彼女の「愛する人がいない絶望」は、蓮にとっては「自分の論理で愛を打ち砕いた結果」だという、最悪のすれ違いが、そこにあった。
柚月は、顔を両手で覆い、静かに泣き始めた。彼女の涙は、結城先輩への失恋の涙ではなく、蓮への深い誤解と、罪悪感の涙だった。
「わたくしは……間違っていました。蓮さまは、わたくしのことを……」
神崎は、柚月の涙を見て、静かに車を発進させた。
「二階堂様は、愛を語るのが苦手な、孤独な守護者なのです。ただ、それだけなのです」
柚月の心に、新しい感情が芽生え始めていた。それは、これまでの憎しみでも恐怖でもなく、蓮の孤独に対する切ない理解と、彼に真実の愛を伝えられなかった自分への後悔だった。
柚月の誤解の氷は、今、完全に解け始めたのだった。

