翌朝。
 高層ビルのエントランスは、出勤する社員たちで慌ただしく賑わっていた。
 ガラス張りの大理石の床を、パンプスの音がリズムのように刻む。

 遠野皐月は、人波に紛れるように小走りで入館ゲートを通り抜けた。
 視線はまっすぐ足元へ。わざと、彼がよく使うエレベーターとは別の方角へ歩く。

 ——これが、私にできる精一杯の“思いやり”。

 胸の奥でそう言い聞かせる。



 その頃。
 玲臣はちょうどエレベーターのドアが閉まる瞬間に、廊下を振り返った。
 人の波の中で、皐月の後ろ姿が遠ざかっていく。

「……また避けたな」

 低く呟き、拳をポケットの中で握りしめる。
 数日前までは当たり前に隣にいたのに。
 理由を尋ねても、彼女は笑顔のまま「忙しい」としか言わない。

 冷めたのか。それとも——。



 午前の会議室。
 長いテーブルを挟んで、皐月はメモを取っていた。
 玲臣の席からは斜め向かい。真正面に座らないよう、自然を装って場所を選んだ。

 ペン先の音に紛れて、視線が刺さる。
 顔を上げられない。
 書き続ける手が震えて、字が乱れる。

「皐月」
 会議の合間、玲臣が名を呼んだ。

「はい」
「その資料、あとで俺の部屋に持って来い」
「承知しました」

 冷ややかに聞こえる声。けれどその奥に滲む苛立ちを、皐月は痛いほど感じた。



 昼休み。
 社員食堂の一角で、玲臣がふいに近づいてきた。
 トレイを置き、真正面に座る。

「……避けてるだろ、お前」
「そんなこと……」
「なら、目を見ろ」

 皐月は息を呑み、俯いたままスープに口をつける。
 返事をしない沈黙が、かえって答えになってしまう。

 玲臣の指先が机をとんとんと叩いた。
「何があった?」
「……本当に、何も」

 精一杯の笑顔を作り、強引に席を立つ。
「失礼します。午後の準備がありますので」

 玲臣はその背中を見送りながら、心の奥で熱を抱え込んでいた。



 夕方。
 廊下で、偶然すれ違った。
 廊下の片側には大きな窓が並び、ビル街の夕焼けを反射している。

「皐月」
 また呼び止められる。
 逃げ場のない一本道。

 彼の影が差し、心臓が早鐘を打った。

「最近のお前、変だ」
「変なんて……」
「昔から俺を誤魔化すのは下手だ」

 低い声に、胸が痛む。
 けれど言えない。
 本当は——彼には好きな人がいるから。

「……副社長。お先に失礼します」

 機械的な敬語。
 玲臣の眉が深く寄り、言葉を失う。

 そのまま背を向けた皐月の視界に、窓の外の夕陽が滲んで揺れた。



 その夜。
 玲臣は自室でジャケットを脱ぎ捨て、机に手をついた。

「……何を隠してるんだ、皐月」

 答えはない。
 ただ雨上がりの夜風が、窓を揺らしていた。