夜の庭園はしんと静まり返り、秋の冷たい風が木々を揺らしていた。
 遠野家の奥にある温室。その扉の向こうには、雨に濡れた紫陽花と、ガラス越しの月光が待っている。

 皐月はゆっくりと扉を押し開けた。
 そこに、既に玲臣が立っていた。
 背筋を伸ばし、かつて幼い二人が並んだ場所に。

「……皐月」
 低く、真っ直ぐな声。

 皐月は胸に手を置き、震える呼吸を整えた。

「どうして……ここに」
「終わらせたくなかった。全部の誤解を、この場所で」



 玲臣はポケットから一枚の便箋を取り出した。
 祖母の手紙だった。
 皐月が以前に読んだその文字を、再び目にする。

「祖母は、俺の気持ちを知っていた。俺は子どもの頃から、お前だけを見ていた」

 皐月の瞳が揺れる。
 信じたい——けれど、これまでのすれ違いと玲奈の言葉が胸を刺す。

「でも……私は、ずっと“玲臣さんには好きな人がいる”って聞かされて……」
「それが玲奈の嘘だ」
「……」

 玲臣は一歩近づき、彼女の手をそっと取った。

「皐月。俺の好きな人は最初から一人だけ。お前だ」



 皐月の胸に熱いものが込み上げた。
 雨の夜、嘘を信じて遠ざけ続けた日々。
 玲奈の涙に揺さぶられ、信じられなくなった自分。

 ——でも今、この温室で向けられる瞳は、嘘じゃない。

「……信じてもいいの?」
「信じろ。俺は何度でも言う。お前が必要だ」

 玲臣の声は強く、そして優しかった。

 皐月は堪えきれず、涙を零した。
 その涙を玲臣が指で拭い取る。

「泣かせたのは、全部俺のせいだ。……すまない」
「違う……私が勝手に信じられなくて……」

 言葉は涙に途切れ、やがて彼の胸に飛び込んだ。



 抱きしめられた瞬間、長い時間が溶けていく。
 冷えきった心に、やっと温もりが戻った。

「皐月。もう二度と離さない」
「……はい」

 幼い日に結んだ小さな指切りが、今ようやく果たされる。
 皐月は玲臣の胸に顔を埋め、静かに頷いた。



 外の夜空には雲間から星がのぞいていた。
 長い雨がようやく止み、空はゆっくりと晴れていく。

 温室の中で結ばれた二人の想いは、雨上がりの光のように清らかで、揺るぎないものになっていた。