夜の温室。
雨は止んでいたが、葉に残る雫が月明かりに光っている。
幼い頃に指切りを交わした場所で、皐月と玲臣は再び向かい合っていた。
「……皐月」
玲臣の声は低く、けれど真剣だった。
「覚えているか。あの日、ここで約束したことを」
皐月の心臓が跳ねる。
——忘れられるはずがない。
「大きくなったら迎えに行く」
幼い日のその言葉は、胸の奥に今も残っている。
けれど、皐月はゆっくりと首を振った。
「……もう、約束はいりません」
「どうしてだ」
玲臣の瞳が揺れる。
「俺はずっとお前だけを想ってきた。その証拠は祖母の手紙にも残っていた」
「でも……私が信じきれなかった。信じられなかった。だから……もう繰り返したくないの」
皐月の声は震えていた。
信じたい気持ちと、また裏切られるかもしれないという恐れがせめぎ合っている。
「皐月」
玲臣が一歩近づく。
「俺は、必ず迎えに行く。今度こそ絶対に」
その力強い声に、皐月の胸は熱く震えた。
けれど、同時に涙が溢れる。
「……やめて。そんなふうに言わないで」
玲臣の眉が寄る。
「なぜだ。俺の言葉が信じられないのか」
「違う……違うの。信じたいのに、信じれば信じるほど怖くなるの」
皐月は両手を握りしめ、視線を逸らした。
「玲奈のことも……噂も……全部、私の心を乱す。あなたを信じたいのに、親友を疑う自分が嫌で……」
声が途切れ、嗚咽に変わる。
玲臣は唇を結び、拳を震わせた。
「……お前を苦しめたのは、俺か」
「私自身です」
そう告げる皐月の瞳は、決意と悲しみを宿していた。
「……だから、もう約束はいらないの」
その言葉が、夜気の中で重く響く。
玲臣は一瞬、何も言えなかった。
やがて低く呟く。
「……分かった」
彼は背を向けた。
その広い背中が遠ざかっていく光景に、皐月の胸が張り裂けそうになった。
けれど、足は動かなかった。
ガラスを伝う雫がぽたりと落ちる。
まるで幼い日の約束が、雨とともに溶けていくようだった。
皐月はひとり温室に残され、握った手のひらに爪が食い込むほど力を込めていた。
「……これでいいの。これでいいんだ」
繰り返す言葉は、冷たい夜風に消えていった

