都心の高級料亭。
 静かな個室に、重厚な卓が据えられていた。
 漆塗りのテーブルには季節の花が飾られ、障子越しの灯りが柔らかく部屋を照らしている。

 その場に集まっているのは、遠野家と久世家。
 双方の父母、そして当事者である皐月と玲臣。

 ——空気は重かった。

 噂が社交界を駆け巡り、「破談か」という声が高まっている。
 皐月は正座に近い姿勢で膝を揃え、俯いたまま動けなかった。



 口火を切ったのは、皐月の父だった。
 落ち着いた声に鋭さがにじむ。

「玲臣くん。最近の噂、どう説明する?」

 玲臣は背筋を伸ばし、正面から答えた。

「根拠のない憶測にすぎません」

 その声音は冷静だが、奥に熱を孕んでいた。
 だが遠野会長は続ける。

「だが、事実として写真が出回っている。高瀬玲奈さんと親しくしているのも事実では?」

 皐月の母が心配そうに娘を見た。
 皐月はうつむいたまま、小さな声で囁く。

「……お父様。私……この婚約を続けてよいのか分かりません」

 玲臣の心臓が鋭く跳ねた。
 隣に座る彼女の震えを感じながら、強い声を放つ。

「俺が好きなのは皐月だけだ」

 部屋の空気が一瞬、凍りついた。



 沈黙のあと、久世家当主が低く息を吐いた。

「玲臣。軽々しく言葉にするものではない。証拠もなく、ただ感情を口にしても通用しないぞ」

「証拠なら、いくらでも示します」
 玲臣の瞳は真っ直ぐだった。
「俺は皐月以外を見たことがない。写真に映った仕草は誤解にすぎない。……だが、俺の心は誤解ではない」

 皐月は震える唇を噛んだ。
 “信じたい”と心が叫ぶのに、玲奈の言葉がそれを押し潰す。

「彼には、ずっと好きな人がいる」
「それは、あなたの親友よ」

 頭の中で響き続ける声。
 胸の奥にしみ込んだ疑念は簡単に消えなかった。



 遠野会長が娘を見つめる。

「皐月。お前の意志はどうだ」

 問われ、皐月は顔を上げた。
 視線の先には、真っ直ぐに自分を見つめる玲臣の瞳。
 その熱に心が揺れる。

「……私は……」

 声が震え、言葉が続かない。

「皐月!」
 玲臣の声が重なる。
「俺を信じろ。たとえ誰が何を言おうと、俺が愛しているのはお前だけだ」

 皐月の瞳に涙が滲んだ。
 けれど、その涙は“嬉しさ”ではなく“苦しさ”の色を帯びていた。

「……信じたいのに、信じられないの」

 そう呟いた声が、障子越しに響く雨音に混じって消えた。