雨は翌日も降り続いていた。
 ガラス越しに滴る水筋が、まるで見えない線を描くように滑り落ちていく。

 皐月はデスクに向かい、無理に集中しようとキーボードを叩いていた。
 しかし頭の中には、あの夜の記憶がこびりついて離れない。

 ——玲臣さんの腕に、抱きしめられた。
 ——あんなにも強く、熱く。

 思い出すたび、胸が波立ち、呼吸が乱れる。
 けれど同時に恐怖に似た感情もあった。

 ——これ以上、近づいてはいけない。
 ——私たちは“越えてはいけない境界線”の上に立っている。



 昼過ぎ。
 廊下で玲臣と鉢合わせた。
 彼はまっすぐに歩み寄り、逃げる間もなく声を落とす。

「昨日のこと、なかったことにする気か」
「……副社長、私は——」
「俺は、もう誤魔化されない。お前の気持ちを聞かせろ」

 皐月は必死に目を逸らした。
 非常灯の下で抱き寄せられた記憶が、肌に残る熱となって蘇る。

「……副社長。私は、これ以上あなたを惑わせたくありません」
「惑わせる?」
「ええ。私といることで、あなたが噂や責任に縛られるのなら——」

 声が震える。
 玲臣の瞳が深く揺れた。

「……皐月。俺にとって境界なんて関係ない」
「でも、私にはあります」

 強い言葉に、玲臣は一瞬だけ息を呑んだ。
 皐月はその隙に、頭を下げてその場を去った。



 同じ頃。
 ホテルのラウンジ。

 玲奈はワインを傾けながら、スマートフォンの画面を見つめていた。
 そこには玲臣と皐月のツーショットを狙った構図のメモ。
 同席する記者に“噂”を広める算段を耳打ちしている。

「真実なんて、どうにでもなるのよ」

 グラスの中で赤い液体が揺れる。
 玲奈の笑顔には、冷たい影が宿っていた。



 夜。
 皐月は自室の窓辺に立ち、雨を眺めていた。
 指先に触れるガラスが冷たい。

 その冷たさでしか、熱を鎮められなかった。

「……私は、これ以上、踏み込めない」

 自分に言い聞かせるように呟く。
 その背後で、スマートフォンが震えた。

 画面に浮かぶ名前を見た瞬間、心臓が跳ね上がる。
 ——玲臣。

 けれど、皐月は震える手で通知を消した。
 境界線を越えないために。

 窓の外では、雨脚がさらに強まっていた。
 まるで、この先に待つ嵐を告げるかのように