その夜、久世ホールディングスの本社ビルは不意の停電に見舞われた。
 非常灯だけが点滅する廊下は、闇に沈んだ舞台のようにひっそりとしている。
 雨のせいか、窓ガラスには無数の水滴が走り、遠くの街灯が滲んで揺れていた。

 皐月はコピー資料を抱え、非常階段へと急いだ。
 蛍光灯が消えたオフィスは不気味に広く、足音がやけに大きく響く。
 心臓が速く脈打ち、喉が乾く。

 ——早く帰らなきゃ。

 そう思った瞬間、背後で足音が重なった。

「皐月」

 低い声に、身体が強張る。
 振り返ると、暗がりの中で玲臣が立っていた。
 非常灯の青白い光に照らされたその姿は、影をまとったように鋭い。

「副社長……」
「こんなときに、ひとりで歩くな」

 言いながら、彼は早足で近づく。
 皐月は数歩あとずさり、背中が壁に当たった。
 逃げ場はない。

「……どうして避ける」
「避けてなんて……」
「嘘だ」

 玲臣の腕が伸び、肩を掴む。
 熱が伝わってきて、皐月の心臓が跳ね上がった。

「俺は、何をした? 理由を言え」
「……言えません」
「なぜ」
「あなたを……守りたいから」

 かすれた声。
 玲臣の眉が寄る。

「守る? それで距離を置くのか」
「ええ……そうです」

 強がるように答えた瞬間、玲臣は彼女をぐっと引き寄せた。

 胸板に押しつけられるように抱きしめられ、息が詰まる。
 雨の匂いとスーツの香りが混じり合い、全身が熱に包まれる。

「俺は守られる立場じゃない。——お前を守る側だ」

 囁きは低く、耳の奥まで響いた。
 皐月の手から資料が滑り落ち、床に散らばった。

「……だめです」
「なぜだ」
「私では、あなたを幸せにできないから」

 震える声に、玲臣の瞳が怒りとも悲しみともつかない色を宿す。
 抱き締める腕の力が強くなった。

「勝手に決めるな。俺の幸せは、俺が決める」

 暗い廊下に響いた言葉に、皐月の胸が大きく揺れた。
 けれど同時に、玲奈の声が脳裏で蘇る。

「彼には、ずっと好きな人がいるの」

 涙が込み上げ、皐月は必死に首を振った。

「……ごめんなさい」

 玲臣の胸を押して、一歩後ずさる。
 彼の腕が空を切り、非常灯の下で影が揺れた。

「皐月……!」
「行かなくては」

 駆け出したヒールの音が廊下に響く。
 残された玲臣は拳を固く握り、暗闇の中で息を荒げた。

 雨音が窓を叩き続けていた。
 二人の距離を隔てるように。