朝のカフェは、豆を挽く心地よい音と、カップが重なる小さな音で満ちていた。
窓から射し込む光が木のテーブルを照らし、柔らかい香ばしさが空気いっぱいに広がっている。
私はカウンターに立ちながら、ふと胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
(ここは、私の居場所だ……)
西園寺の豪奢な邸宅にはなかったもの。
ここには、人と人との自然なやりとりと、小さな笑顔がある。
「杏里さん、ラテお願い!」
店長の声に、私は「はい」と答えてカップを手にした。
スチームミルクを注ぎ、ハート模様を描く。
昔なら完璧にできなくて落ち込んだだろうけれど、今は少し崩れても、笑ってやり直せる。
「すごいなぁ。杏里さん、器用だよね」
隣で皿を拭いていた悠真が、感心したように覗き込む。
彼の明るい笑みが、胸にほんの小さな勇気を与えてくれる。
「そんなことないわ。まだ練習中よ」
「いやいや、俺がやると絶対に泡がぐしゃって潰れるんだ。やっぱりセンスだよ」
軽口を叩く彼に、思わず笑ってしまう。
笑うなんて、どれくらいぶりだろう。
翔と暮らしていたときには、一度も素直に笑えなかった気がする。
昼下がり、常連の老夫婦が入ってきた。
夫婦で向かい合ってゆっくりお茶を楽しむ姿は、穏やかな時間そのものだった。
私は二人のテーブルに紅茶を置きながら、心の奥でふと願ってしまう。
(私も……こんな風に寄り添える相手が欲しかった)
けれど、もう過去は変えられない。
翔への思いは心の奥にしまい込み、私は「ここ」で新しい日々を積み重ねるしかない。
閉店後。
店長が帳簿を閉じながら、私を見て微笑んだ。
「杏里ちゃん、もうすっかり店の顔になってきたわね」
「……そんな、まだ全然です」
照れながら否定する私に、店長は首を振った。
「ううん。本当に助かってるの。お客さんも、あなたの笑顔に癒されるって言ってるのよ」
「……笑顔、ですか」
その言葉が胸に沁みた。
かつて翔に向けた笑顔は、届かないまま消えていった。
でも今、私の笑顔を必要としてくれる人がいる。
それだけで心が少し救われる気がした。
帰り道、夜風が頬を撫でる。
商店街の灯りが柔らかく揺れて、都会の冷たいネオンとは違う温もりを感じさせた。
アパートに戻ると、小さな部屋が迎えてくれる。
狭いけれど、自分の選んだ空間。
テーブルの上には、常連のお客さんからいただいた焼き菓子が置かれていた。
「ありがとう……」
誰にともなく呟いた。
人の優しさが、今の私を支えている。
ベッドに腰を下ろすと、思いがけず翔の顔が浮かんだ。
冷たい瞳、突き放す言葉。
でもその奥に、一瞬だけ揺れた表情も忘れられない。
(——ダメよ。思い出しちゃ)
首を振り、涙を飲み込む。
翔を想うたび、心は引き裂かれる。
だから私は、ここで新しい私を作らなければならない。
翌朝。
カフェに出勤すると、悠真がドアを開けて待っていた。
「おはよう、杏里さん。今日もよろしく」
彼の笑顔に、胸の奥で小さな灯がともる。
翔の冷たい世界では手に入らなかった、ささやかな温もり。
それを大切にしようと、私は深く息を吸った。
(ここから……私は、もう一度始める)
静かな誓いを胸に抱き、私は店のカウンターに立った。

