初夏の風が商店街を吹き抜ける。
 看板の揺れる音、パン屋から漂う甘い香り、子どもたちのはしゃぐ声。
 そのざわめきの中で、私はカフェの前に立っていた。

「杏里ちゃん、お客さん来てるよ」

 店長が顔を出し、私を手招きした。
 振り返ると、スーツ姿の男性がカウンター席に座っている。
 冷たい眼鏡の奥から、鋭い光を放つ瞳。どこか見覚えがある。

 胸がざわつく。
(……西園寺家の人間?)

 鼓動が早まる中、私は意を決して近づいた。



「水瀬杏里様でいらっしゃいますね」

 男性は淡々とした声で切り出した。
 背筋の通ったその姿勢に、私は小さく頷く。

「西園寺家の法務を担当しております、榊原と申します」

 心臓がぎゅっと縮む。
 やはり……。
 ここまで追ってきたのかと、恐怖と緊張が入り混じる。

「——離婚が、正式に成立いたしました」

 静かな言葉が、耳に落ちる。
 一瞬、周囲のざわめきが遠のいた気がした。
 頭の中が真っ白になる。

「……成立?」

「はい。本日をもって、あなたと西園寺翔様の婚姻関係は解消されました。これが証書でございます」

 差し出された封筒。
 震える手で受け取る。中には、見慣れた文字で記された判決文のような書面。
 正式な印が押されている。

「……これで、自由になれるんですね」

 声が震えていた。
 榊原は無表情のまま頷く。

「今後、西園寺家とは一切関わりを持つ必要はございません。ただし、契約上の機密事項については——」

「もう、わかりました。……十分です」

 遮るように答えた。
 これ以上、何も聞きたくなかった。



 榊原が去ったあと、私は小さな裏口から外へ出た。
 夕暮れの風が頬を撫でる。
 けれどその風は、自由の匂いではなく、どこか切なさを運んでいた。

(これで本当に、終わったんだ……)

 西園寺杏里ではなく、ただの「水瀬杏里」に戻った。
 望んでいたはずの解放。
 それなのに、胸の奥は痛みでいっぱいだった。



 夜。
 アパートに戻った私は、テーブルに書類を広げた。
 赤い判子の跡が、やけに重たく目に映る。

「……自由、ね」

 呟いた声が、狭い部屋に響く。
 涙はもう出なかった。泣き疲れてしまったのかもしれない。

 携帯電話の電源はずっと切ったまま。
 翔から連絡が来ることはないだろう。
 ——いや、きっと最初から彼は、私に何の感情も持っていなかった。

「私のことなんて、最初から……」

 ぽつりとこぼれた声が、静寂に溶けていく。

 けれど。
 窓辺に座って夜空を見上げると、どうしても思い出してしまう。
 結婚式のとき、白いヴェールを上げる彼の手。
 冷たいのに、確かに触れた温度。

(あれは……全部、幻だったの?)

 胸が締めつけられる。
 自由になったはずなのに、心はまだ翔の影から逃れられなかった。



 翌日。
 カフェに出勤すると、悠真がいつも通りの笑顔で迎えてくれた。

「おはよう、杏里さん。昨日、なんか疲れた顔してたけど……大丈夫?」

「ええ……大丈夫よ」

 笑顔を作る。
 誰にも知られたくない過去。
 けれど、こうして「普通の生活」に溶け込むことができるなら、それでいい。

「よかった。今日も頑張ろうな!」

 無邪気な笑顔に、ほんの少し救われる。
 翔の影を消すことはできなくても、新しい光がここにある。

(私は、もう振り返らない。——そう、決めたんだから)

 強く心に言い聞かせ、私はカウンターに立った。
 温かなコーヒーの香りに包まれながら。