朝の光は眩しいほど柔らかく、窓辺のアネモネの花弁を透かしていた。
私は食堂の長いテーブルに腰を下ろし、置かれたカップの湯気を見つめていた。
白磁のカップから立ち上る香りは確かに上等なものなのに、胸の奥は重く沈んでいる。
「おはようございます、翔さん」
勇気を振り絞って声をかけた。
けれど彼は新聞から視線を外さず、ただ低く返した。
「ああ」
短い返事。
広すぎるテーブルに、ふたりきり。距離が遠すぎて、言葉まで届かないようだった。
「今日は……お仕事、早いんですか?」
問いかけてみる。
新聞をめくる音が、無機質に響いた。
「午前中に会議がある。午後は出張だ」
「そう、なんですね……」
沈黙。
私はフォークを手にしたけれど、ナイフの刃先に映る自分の顔が心細く見えて、思わず視線を落とした。
(どうして……こんなにも距離があるの)
午前八時。
彼は黒いスーツに着替え、玄関へ向かっていた。
私は慌てて追いかける。
「翔さん!」
振り返った彼の瞳は冷静そのもので、期待した温度はなかった。
「なにか」
「……いってらっしゃいませ」
言った瞬間、自分でも馬鹿みたいだと思った。
夫にかける、ごく当たり前の言葉なのに。
その当たり前さえ、彼にとっては煩わしいのだろうか。
翔は小さく頷いただけで、長い足取りで外へ出て行った。
扉の閉まる音が、やけに重く響く。
(どうして私たち、夫婦なのに——)
唇を噛む。喉の奥が熱くなった。
昼下がり。
私は一人きりで屋敷の広い庭を歩いていた。
季節の花々が丁寧に手入れされて咲き誇っているのに、心は晴れなかった。
庭師が会釈して通り過ぎる。
笑顔で返すけれど、胸の奥は空っぽだ。
(もし、私がいなくなっても……この家は何も変わらないのかもしれない)
そんな思いが胸をよぎり、足元の芝生が急に遠く感じた。
夜。
ようやく戻ってきた翔を、私は食堂で待っていた。
時計の針は十時を指している。
テーブルの上には、私が用意した料理が並んでいた。
「翔さん。お帰りなさいませ」
少しでも温かな空気を作ろうと、私は努めて明るく笑った。
だが彼は視線を落とし、ネクタイを緩めただけだった。
「……食事は済ませた」
「え……」
声がかすれる。
料理はすっかり冷めていたけれど、それでも彼に食べてほしかった。
私が妻である証を、ほんの少しでも欲しかった。
「なら……せめて、一緒にお茶だけでも」
必死にすがるような声になってしまう。
彼の眉がかすかに動いた。
「杏里。……お前は無理をするな」
「無理なんてしてません。ただ——」
「いい加減にしろ」
低い声が鋭く響いた。
息が止まりそうになる。
翔は苦しげに目を伏せ、しばし沈黙した。
「……お前に情をかければ、甘えさせるだけになる」
「甘え……?」
私は震える声で繰り返す。
どうしてこんなにも突き放すのだろう。
「俺は西園寺家を背負っている。感情に流されれば、すべてが崩れる」
理屈はわかる。彼がどれほどの責任を抱えているのかも知っている。
けれど、それでも。
「翔さん……私は、ただ、夫婦らしく——」
言葉が途中で途切れた。
彼の冷たい瞳が、私を射抜いていたから。
「……寝ろ」
短くそれだけ言い残し、彼は再び背を向けて歩き出した。
背中が遠ざかっていく。
扉が閉まり、また広い食堂にひとりきり。
テーブルの上の皿が、悲しくも虚しく光っていた。
寝室に戻った私は、シーツの端に腰を下ろし、両手を強く握りしめた。
涙をこらえても、胸の奥の痛みは隠せない。
(どうして、私の声は届かないの? どうして、翔さんは私を見てくれないの?)
答えのない問いが、夜の闇に溶けていった。
すれ違いは、この日を境に、少しずつ深まっていった。

