その夜、アパートの部屋は妙に静まり返っていた。
 窓の外では街灯が揺れ、遠くで犬の鳴き声が響いている。
 私はカーテンの隙間から夜空を見上げながら、胸の奥を締めつける不安を抱えていた。

(麻衣さんの言葉……。あの笑み……どうして忘れられないの)

 翔の「信じろ」という声を思い出すたびに、麻衣の挑発が心を蝕んでいく。



 ノックの音が静寂を破った。
 心臓が跳ねる。
 恐る恐る扉を開けると、そこに立っていたのは翔だった。

「……こんな夜に、どうして」

「話がしたい」

 低い声。その瞳には強い光が宿っている。
 私は戸惑いながらも部屋に招き入れた。

 狭い空間に翔の存在感が満ちると、息が苦しくなる。



「麻衣のことで動揺しているな」

 唐突に切り出された言葉に、胸が跳ねた。

「……だって、彼女は“特別”だって……。翔さんが本当に私を選んだのか、わからなくなる」

 声が震える。
 翔は深く息を吐き、私の肩を掴んだ。

「俺が選んだのはお前だ。何度でも言う。麻衣ではない。杏里、お前だ」

 力強い声に、心が揺れる。
 けれど同時に、どうしても疑念は消えなかった。

「じゃあ……どうしてあのとき、私に優しくしてくれなかったの?」

「……」

 沈黙。
 翔の瞳に苦悩が宿る。

「俺は……お前を失いたくなくて、逆に遠ざけてしまった。愚かだった」

「翔さん……」

 涙が滲む。
 けれど、胸の奥にある恐怖は消えない。



「杏里。お前が他の男と笑っているのを見たとき……俺は耐えられなかった」

 低い声が落ちる。
 その言葉に、心臓が大きく跳ねた。

「……悠真君のこと?」

「ああ。お前が彼と話すだけで、胸が焼けるようだった。理性なんて吹き飛びそうになった」

 翔の瞳は嫉妬で濁り、強い光を帯びていた。

「俺は……お前が誰かに取られるくらいなら、壊してでも側に置いておきたい」

 吐き出された言葉に、息が詰まる。
 恐怖と同時に、心の奥に甘い疼きが広がっていく。

「翔さん……そんなの、愛じゃなくて——」

「愛だ」

 強い声が遮る。
 翔の手が私の頬を掴み、熱を伝えてくる。

「お前を失った四年間で、思い知らされた。俺にとって生きる意味はお前だけだ」

 瞳の奥の熱に、胸が震える。



「でも……私は怖いの。また同じように突き放されるんじゃないかって」

「突き放さない。二度と」

 翔の声は低く、決意に満ちていた。
 私は涙をこぼしながらも、彼を押し返そうとした。

「……信じたい。でも、簡単には信じられない」

「なら、行動で証明する」

 翔の手が強く私を抱き寄せた。
 体温が伝わり、心臓が早鐘を打つ。

「杏里……俺を信じなくてもいい。けど、俺から逃げるな」

「翔さん……」

 涙が止まらなかった。
 拒絶したいのに、抱きしめられると心が揺れる。



 長い沈黙。
 彼の腕の中で、私は必死に呼吸を整えた。

 嫉妬に燃える翔の瞳は怖い。
 でも、その奥にある熱は、私が求め続けたものでもあった。

(私は……どうしたいの……?)

 揺れる心は、まだ答えを出せなかった。