夕暮れのカフェ。
窓から差し込む光が赤くテーブルを染める中、私は注文票を整理していた。
静かな時間——のはずだった。
カラン、と扉のベルが鳴る。
顔を上げた瞬間、背筋が冷たくなった。
漆黒のドレスに身を包んだ女性。
艶やかな黒髪を肩に流し、真紅の唇に挑発的な笑み。
——麻衣。
「まあ。やっぱりここにいたのね、杏里さん」
その声に、胸がぎゅっと縮む。
彼女の視線には、静かに人を見下ろすような棘が含まれていた。
「どうして……ここに」
私がかろうじて声を絞り出すと、麻衣はカウンターに腰をかけ、余裕たっぷりに笑った。
「翔さんを追ってきたの。最近、この街に足繁く通ってるでしょう? 理由を知りたくて」
その言葉に心臓が跳ねる。
翔——。
彼がこの街に来ていることを、麻衣も知っている。
「あなた……まだ翔さんと繋がっているの?」
「“まだ”? ふふ。私と翔さんは昔から特別な関係よ。……あなたも知っているでしょう?」
挑発的な瞳が私を射抜く。
胸が痛くなり、手元の伝票が揺れた。
「翔さんが、あなたを愛していたなんて……信じられる?」
麻衣はわざとらしく声を潜め、囁くように言った。
「だって、あの人が私に微笑む時と、あなたを見る時……全然違うんだもの」
「……!」
鼓動が乱れる。
翔の言葉を思い出す——「俺はずっとお前を愛していた」。
けれど麻衣の笑みが、その記憶を揺さぶっていく。
「あなたは四年前、翔さんに捨てられた。それが事実でしょう?」
「……違う」
震える声で否定する。
けれど自信はなく、視線が揺れる。
麻衣は満足げに笑った。
「なら、聞いてみればいいじゃない。翔さんが誰を見ていたのか。……ねえ、杏里さん。あなた、本当に彼を信じられる?」
その言葉は鋭い刃のように胸に突き刺さった。
その夜。
帰り道、街灯の下で翔が待っていた。
「遅かったな」
低い声。
いつものように私を見つめる瞳に、なぜか痛みを感じる。
「……翔さん。今日、麻衣さんが来たわ」
告げると、翔の眉がわずかに動いた。
「……そうか」
「どういう関係なの?」
震える声で問い詰める。
翔は短く息を吐き、苦しげに目を伏せた。
「昔、婚約話が持ち上がったことはあった。だが、俺は断った」
「でも、周りはそうは思ってない。麻衣さんは今でも、あなたが特別だと言っていた」
涙がにじむ。
翔は私の肩を掴み、真剣な眼差しで見つめた。
「信じてほしい。俺が選んだのはお前だけだ」
「……でも」
麻衣の赤い唇が頭をよぎる。
彼の言葉を信じたいのに、不安が膨らんでいく。
「翔さん……私、また間違ってるのかな。あなたを信じたら、また同じことを繰り返すんじゃないかって……怖いの」
嗚咽混じりに吐き出す。
翔の瞳が痛みを宿し、強く私を抱き寄せた。
「もう二度と繰り返させない。……俺を信じろ」
その言葉は熱を帯びていた。
けれど、胸の奥で麻衣の笑みが消えなかった。
(翔さんの言葉を信じたい……でも……)
心は揺れ続けていた。
麻衣の影が、二人の間に濃く落ちていた。

