翌朝、窓から差し込む光で目を覚ました。
 小さなアパートの天井は、いつもよりやけに近く感じる。
 昨夜の言葉が、まだ胸の奥でくすぶっていた。

——「俺はずっと……お前を愛していた」

 翔の低い声が蘇り、心臓が早鐘を打つ。
 信じたい。
 でも信じれば、また同じ痛みに晒されるのではないかという恐怖が襲ってくる。

(どうして……今になって)

 枕元のカーテンを握りしめながら、私は自分の心が揺れるのを止められなかった。



 昼下がりのカフェ。
 いつものように店に立っていても、思考はまとまらなかった。
 カップに注いだラテの模様は歪み、笑顔を作ろうとしてもぎこちない。

「杏里さん、大丈夫?」

 悠真の声に、私ははっとした。
 彼の瞳が真剣に私を見ている。

「……ごめんなさい。少し考え事をしていて」

「最近さ、なんか悩んでるよね。……もし相談したいなら、俺でよければ聞くよ?」

 その優しさに、胸がじんと温かくなる。
 けれど同時に、翔の嫉妬に満ちた瞳が頭をよぎった。

(……あの人が見たら、また怒る)

 怖さと、どこか甘美な切なさが交錯する。
 私は曖昧に微笑んで、「ありがとう」とだけ返した。



 閉店後。
 アパートに戻ると、玄関の前に人影があった。
 黒いスーツ。鋭い輪郭。
 ——翔。

「……来ないでって言ったのに」

「来るなと言われて来なくなるくらいなら、四年前に諦めていた」

 低い声に、鼓動が乱れる。
 私は鍵を開け、中へと入る。
 翔も当然のように後ろについてきた。

 狭い部屋に彼の存在感が入り込み、空気が一気に熱を帯びる。

「出て行って」

 震える声で告げると、翔は首を振った。

「嫌だ」

「またそれ……。翔さんは、いつも自分の思い通りにしようとする」

「そうだ。……お前に関してだけは、どうしても譲れない」

 真剣な眼差しに、胸がざわつく。



「杏里」

 翔が一歩近づき、私の肩に触れる。
 その温度に、心臓が大きく跳ねた。

「四年前、お前を守るつもりで距離を置いた。……だが、それでお前を傷つけた。今度は違う。俺はお前を守りながら、手放さない」

「……信じられない」

 涙が滲む。
 彼の言葉が真実でも、また裏切られるかもしれない恐怖が私を縛っていた。

「信じなくてもいい。……ただ傍にいろ。それだけでいい」

 囁きが耳をかすめ、身体が震える。
 嫌だと言いながら、心はわずかに揺れ始めている。



 翔が帰ったあと、静まり返った部屋で私は膝を抱えた。
 窓の外には街灯が滲み、遠くで電車の音が響いている。

(翔さんの言葉を信じたい……でも、怖い)

 涙が頬を伝う。
 愛されていたという言葉に救われたいのに、それを受け入れたらまた同じ孤独に沈むのではないかという恐怖が離れなかった。

「……どうすればいいの」

 声にならない呟きが、夜の静寂に溶けていった。

 ——心は揺れ続けていた。
 翔への愛と、過去の痛みの狭間で。