昼下がりのカフェは、柔らかな陽射しに包まれていた。
 常連客が新聞をめくり、学生たちがノートを広げる。
 いつもと変わらぬ日常のはずだった。

 けれど私は、妙に落ち着かなかった。
 カウンターの向こうで悠真が楽しげに話しかけてくる。

「杏里さん、最近少し顔色いいね。前よりよく笑うようになった」

「……そうかしら」

「うん。だからさ、良かったよ。ここに来てくれて」

 屈託のない笑み。
 優しい言葉に胸が温かくなると同時に、どこかざわめいた。

(翔さんが聞いたら、きっと……)

 その予感は、すぐに現実となった。



 午後、店の扉が開く音がした。
 振り向いた瞬間、鼓動が跳ね上がる。

 ——翔。

 黒いスーツに身を包み、冷ややかな眼差しをこちらに向けていた。
 店内の空気が一瞬で凍りつく。

「いらっしゃいませ……」

 震える声で挨拶をすると、翔は無言のままカウンターに歩み寄る。
 悠真が驚いたように目を丸くした。

「杏里さん、この人……?」

 その言葉に、翔の瞳が鋭く光った。

「誰だ。お前と親しげに話していた男は」

 低く落ちる声に、全身が凍りつく。
 翔の眼差しは悠真に突き刺さり、威圧感で店内が張り詰めた。

「ちょ、ちょっと待ってください。彼は同僚で——」

「答えろ、杏里」

 遮るように言葉が落ちる。
 私は唇を噛み、必死に声を絞り出した。

「……同じ店で働いているだけ。何もありません」

 翔は悠真を睨んだまま、ゆっくりと吐き捨てる。

「……近づくな」

 その声音に、悠真が怯んで一歩下がった。
 私は慌てて翔の腕を掴む。

「やめて! ここは翔さんの世界じゃないの。勝手なこと言わないで!」

「勝手……? 俺の女が他の男と笑っているのを黙って見ていろと言うのか」

 その一言に、胸が大きく震える。



 店長が気まずそうに「少し外で話したら?」と促した。
 私は翔に腕を引かれ、半ば強引にカフェの外へ連れ出された。

 夕陽が街を赤く染めている。
 人気の少ない路地に押し込まれ、翔の瞳と正面から向き合わされた。

「杏里。……あの男と、どこまでの関係だ」

「だから、何もないって言ってる!」

「笑っていた」

「同僚だからよ! お客様を前にして笑うのは当たり前でしょう!」

「俺には見せなかった」

 短く吐き出された言葉に、心臓が痛んだ。
 翔の声には、怒りだけでなく、深い寂しさが混じっていた。

「俺の前では、そんな笑顔を見せなかった……」

「だって、翔さんは——私を見てくれなかったじゃない!」

 涙があふれた。
 四年前の孤独と痛みが蘇る。

「私がどれだけあなたに笑いかけても、あなたは一度も返してくれなかった。隣にいても、まるで透明みたいに……!」

 翔の瞳が苦しげに揺れる。

「……すまない」

 低く、掠れた声。
 その一言に、胸が揺さぶられる。

「けれど、今は違う。俺はもう二度と……お前を他の誰にも奪わせない」

 翔の手が伸び、私の頬を強く掴んだ。
 熱い視線が突き刺さる。

「杏里。お前は俺のものだ」

「……そんな言葉、信じられない」

 必死に振りほどこうとする。
 けれど、彼の掌の熱に心が乱れる。

「信じさせる。何度でも」

 囁きが耳に触れ、背筋が震えた。



 夜の風が吹き抜ける。
 翔の影が、かつてよりも大きく濃く、私を覆い尽くしていた。

(翔さん……あなたは、どうしてこんなに私を縛ろうとするの……?)

 涙が零れ落ちても、彼は手を離さなかった。
 嫉妬と独占に燃える瞳が、私を逃がさないように見つめ続けていた。