自分でもどうしようもない葛藤が、心の中でうごめいている。

 これまでの僕なら、今すぐ家に帰ってシャワーを浴びて着替えていただろう。

 でも、今この腕の中にいる大切な人を失いたくなかった。

 絶対に離してはいけないと、僕の全身が叫んでいる。

「幸村さんが僕といると苦しいと言った気持ち、わかる。そんな思いさせてごめん。でも、それ以上つらいんだ。一緒にいられないことが」

 僕も同じだった。

 幸村さんに無理をさせてしまっていること。
 自分が不甲斐なくて、申し訳なくて、でも離してあげることなんてできなくて、ひどいことを言ってしまったりもした。

 つらい思いをさせていること、わかっている。

 それでも僕は、一緒にいたい。
 
「私も、一緒にいたいです」

 声を震わせる幸村さんはとても愛おしくて、僕には彼女しかいないと思った。

「うん。じゃあ、一緒にいようよ」

 安心して、抱きしめる腕に力が入る。

 追いかけてきてよかった。

「先輩、そろそろ離してもらっても……」
「嫌だった?」
「嫌じゃ、ないんですけど、やっぱりお風呂入っていなくて汚いので……」

 幸村さんの肩をそっと掴むとこちらに向かせる。
 僕を映す瞳には、涙が浮かんでいた。

 何かを考えるようにじっと固まって、瞳を揺らす。

 お風呂に入っていないこと、そんなに気にしているんだろうか。
 距離を取ろうかどうしようか悩んでいるのかも。

 不謹慎かもしれないけれど、僕は幸村さんのこの表情が好きだ。

 一生懸命に何かを考えているこの表情が。

 大学のころ、幸村さんを意識するきっかけもこの表情だった――


 ◇ ◇ ◇


「こっちが彼女の咲子で、この子は咲子の友達の芽衣ちゃん」

 三年生になって少ししたころ、凌から彼女とその友達を紹介された。
 二人をサークルに誘ったらしい。
 凌だって別に天文に興味があったわけじゃなくて、僕について入っただけのサークルなのにいいのか? と思ったけれど、彼女たちは今までサークルに所属したことがないらしく、期待の眼差しを向けていた。

 天文というより、サークルというコミュニティに期待しているんだろうな。
 サークルなんてどこも同じ。
 飲み会や楽しいことをするときは人が集まって、真面目なことをするときはまばらになる。

 まあ、ここも緩い活動しかしていないし、適当にやっていくだろう。
 
 そんなことを思っていると、凌の彼女の友達と目があった。
 
「幸村芽衣です。これからよろしくお願いします」
 
 透き通るような声で、丁寧にお辞儀をされた。
 サークルという場では珍しくかしこまった挨拶につい見惚れてしまう。

「うん。よろしく」

 僕の返事を聞き、ふわりと微笑む幸村さん。
 小柄で、柔らかい雰囲気が可愛らしい。
 そんな第一印象だった。

 二人がサークルに入ってしばらくしたころ飲み会があった。

 大勢の飲み会はあまり好きではないけど、凌に無理やり連れて行かれた。
 隣には凌、その前に咲子ちゃんが座り、僕の目の前には幸村さんが座っていた。

 彼女たちはまだ未成年なのでお酒は飲んでいないけど、周りの奴らはいつも通りお酒の席にはしゃいでいる。

「なあ松永~、今度合コン行かね? お前を連れて来いって言われてるんだよ」

 凌の反対隣に座る同じ学部の奴が絡んできた。
 お酒を飲むといつも合コンに誘ってくる。

「行かない」
「えー、お前が来ないと女の子が集まんないんだよお」

 懇願するように腕に絡みつかれる。

 何度も頼むよと言い、纏わりついてくる。

 だから嫌だったんだよね。

「気持ち悪い」

 僕は腕を離し、距離を取る。
 いつものことだと思っていたけれど、前を見ると驚いた表情をする幸村さんがいた。

 気持ち悪い、なんて言葉聞いたらびっくりするか。

 まあ、どう思われても仕方ない、そう思っていると凌がいきなり肩を組んできた。

「こいつ、潔癖なんだよ」

 凌の言葉に何か納得したように頷く幸村さん。
 僕はまたいつものように腕を振り払ったけれど、彼女は何かを考えている様子だった。

 すると幸村さんは、運ばれてきた唐揚げをサッと取り分け差し出してくる。

 さっきまでみんな飲みながら適当に食べていたし、そんなことしていなかったのに。
 もしかして僕が潔癖だから気を遣って?
 たしかにあまり食べていないけど、いつものことだから気にしていなかった。

 幸村さんはじっと僕の方を見て、なぜか固まっている。
 不安そうに瞳を揺らしているのは気のせいだろうか。

 唐揚げのお皿を持ったまま、じっと見つめてくる。
 そんなに見つめて、何を考えているんだろう。

「いりません……でした?」

 ああ、僕がなかなか受け取らないからか。
 ちょっと悪いことしたな。

「いや、ありがとう」

 お皿を受け取ると、安心したようにふわりと表情を緩ませた。
 
 なにそれ、可愛い……。

 それから、幸村さんのことが気になるようになった。

 ただ誘われて入っただけなのに、天文について一生懸命勉強している姿が健気だと思う。
 僕のなんでもない話を楽しそうに聞いてくれる。

 一緒に過ごす時間は穏やかで、居心地が良かった。

 そして幸村さんはいつもじっと考えたあと、僕に声をかける。
 他の人と話す時よりも一歩下がって、付かず離れずの距離で話をする。
 きっと、僕が不快にならないように一度考えて、それから接してくれているんだ。

 彼女なりの思いやりが嬉しかった。
 気を張らなくても、僕が嫌だと思うようなことはしない。そんな安心感があった。

 明るくてしっかり者な咲子ちゃんと、大人しくて口数の少ない幸村さん。
 自然と凌と四人でいることも多くなっていた。

 四人でご飯に行ったときは、凌と咲子ちゃんが隣に座るため、自然と僕と幸村さんが隣になる。
 彼女はいつも端に寄って座っていた。
 いつの間にか、もう少しこっちに寄ってもいいのに、なんて思うようになっていた。

 白くて、柔らかそうなその手に触れたらどうなるのだろう。
 自分でも驚くようなことを考えていた。

 そしてふと気づく。
 今まで誰かに触れたいだなんて思ったことがあるだろうか。

 記憶の中では一度もない。

 隣に座る幸村さんの顔を見る。
 ふわりと笑うその表情に心がざわついた。

 彼女を、誰にも触れさせたくない。

 そうか。僕、幸村さんが好きなんだ――。