朝のガラスは、薄い霜を指先で拭ったみたいに透きとおっていた。

 ロビー直通のエレベーターに乗り込む直前、私は手首の雪の結晶チャームを軽く弾いた。小さく鳴る音が、胸の奥の鼓動と重なる。

「彩音」

「はい」

「今日も——俺の隣から離れるな」

 黒のジャケットを肩で受け止める所作はいつも通り冷静で、切れ長の瞳は、目に見えない線を正しく引く。私は深くうなずき、鏡に映る自分へ短く笑いを練習してみせた。

「九を目指します」

「十を取れ」

 扉が開いた。

 車寄せの空気は、早朝の金属の匂いがした。報道用のロープは遠くへ下げられ、スタッフが柔らかく人の流れを折り返させている。フラッシュは抑えられているが、視線はやはり刺すように鋭い。

 私は柊真の腕に手を添え、足並みを合わせる。

「柊様、昨夜の——」
「この件は法務と広報が回答します」

 短い言葉、短い呼吸。彼は視線をやや下へ置き、唇の端をほんのわずか上げた。

 ——冷たい微笑み。

 氷の薄片のように繊細で、触れれば指の体温を奪う笑い方。世間が「無表情」と呼ぶその隙間にだけ、彼は言葉を置く。

 私は横顔を盗み見て、喉の奥で息を整えた。
 (大丈夫。これは壁。わたしを遠ざけるための壁じゃなく、余計なものを寄せつけないための壁)

 玄関を抜けると、ガラスの自動扉に朝の光が砕けた。廊下には紙とインクの匂い。神城がすでに待機していて、私たちの前を迷いのない速度で歩く。

「本日の流れは先ほど送付の通りです。——十一時から社内ブリーフィング、午後、短い取材枠。彩音様の動線は直通のみ。途中で控室を一室確保しています」

「ご配慮、ありがとうございます」

「当然です」

 神城が一礼したとき、曲がり角の陰から二人の若手社員が顔を引っ込めた。囁きの欠片が、壁に跳ねてこちらへ届く。

「本物だった、奥様……」「写真より綺麗……でも“契約”って本当?」

 言葉の輪郭が一瞬だけ胸をひっかいた。私は立ち止まらず、八割の笑顔で歩を進める。

 エレベーターの中、鏡に並んだ二人の距離はぴたりと揃っていた。
 ふいに、柊真が視線だけで問う。

「——痛むか」

「大丈夫です」

「“大丈夫”の定義が広すぎる」

 苦笑しかけた唇に、彼は小さく「よし」とだけ落とした。
 声は低いのに、体の中心に届く。



 社内ブリーフィングは、要点だけを積み木のように積み上げていく。法務、広報、危機管理。柊真は必要な場所へ短く刃を入れ、無駄を削ぐ。

「根拠なき憶測に価値を与えるな。公式の一次情報だけを配れ。——“影の写真”は影のうちに消す」

 拍子木みたいに乾いた沈黙が続き、やがて「了解です」の合唱が起こる。
 私は端の椅子で資料をめくり、呼吸を合わせる。

 会議室を出ると、廊下の向こうから礼子が現れた。ラベンダー色のジャケットに、真珠のピアスがかすかに揺れる。

「まあ、彩音さん。お顔色が戻って安心したわ」

「昨日はありがとうございました」

「いいえ。息子が役に立てた?」

「はい」

 礼子は、目尻にやさしい皺を寄せて微笑むと、視線を柊真へ向けた。
「——あの子、今朝も“あの顔”をしていたでしょう?」

「“あの顔”?」

「冷たい微笑み」

 私は小さく息を呑む。礼子は続けた。

「あれは、昔からの癖。自分より大きな波が来たとき、まず笑って相手に“届かない壁”を見せるの。交渉ではよく効くけれど、家では嫌われる」

「嫌いではありません」と、思わず言っていた。礼子がふわりと目を細めた。

「じゃあ大丈夫。——あの子、家の中では“壁の向こう”を見せるのが苦手だから。あなたが、内側から鍵を外してあげて」

 内側から、鍵を。
 心に、やわらかい音が落ちた。

「母さん、もう行け」
「わかっているわ。彩音さん、無理はだめよ」

 礼子が去ると、静けさが戻る。
 私はそっと息を吐いた。

「……わたしが、内側から」

「何の話だ」

「いえ。——十を取る話です」

 彼の眉がわずかに動き、次の瞬間、口元だけがほんの少し上がった。
 それは“公用の笑い”ではない。
 (内側の、合図)



 午後の取材枠。会議室を簡易のスチールとライトで組み替え、記者の席には会社ロゴが控えめに映る。ルールは事前に共有済み——業務に関係のない私的質問は禁止。

 けれど、境界線はいつだって試される。

「御社の社会貢献の新施策について——」

 いくつかの素直な質問のあと、ひとりが手を挙げた。
「奥様のご同席は“イメージ戦略”ですか? 一部では“広報上の契約”との声も——」

 空気が薄く軋む。
 私は表情を動かさない。
 柊真は、ほんの一拍だけ視線を私へ落とした。

「——妻は一人、彩音だ」

 静かな声が、部屋の隅までよく届いた。

「イメージは結果であって目的ではない。私たちは“守るべきものを守る”ために立っている。——次」

 記者の質問は切り替わり、会は淡々と進んでいく。
 私は指先を、膝の上の布にそっと押し当てていた。
 (言葉は印章。私は、その印を受け取った)

 控室へ下がると、神城が簡単な軽食を用意していた。
「血糖が下がります。召し上がってください」

「ありがとうございます」

 小さなバゲットに蜂蜜の香りが紙袋の内側でひそやかに漂う。
 昨日の白湯の甘さを思い出して胸が緩みかけたとき、スマートフォンが震えた。

〈——“妻は一人、彩音だ”。名言。けれど笑ってない、こわ〉
〈冷たい。愛はあるの?〉
〈契約妻って噂、消えないね〉

 流れてきたのは無記名のコメントの断片。
 “冷たい微笑み”の切り抜きと一緒に拡散されている。

 私は画面を閉じた。
 (愛はあるの?——知らない人に、聞かれて答えるものじゃない)

「彩音」

 背中から、名前を呼ばれた。
 振り返ると、扉のところに彼が立っている。

「顔」

「え?」

「十じゃない」

 思わず口元に手を当てると、彼は室内を一瞥し、私の前に立った。
 視線の高さが合う距離。

「目を見ろ」

 従うと、低い声が落ちる。

「“冷たい微笑み”は、外に向けている。——内側にいる君は、間違えなくていい」

 喉の奥が、熱くほどけた。

「……はい」

「今夜は動かない。部屋で夕食だ」

「了解しました、社長」

「“柊真”でいい」

 名前を呼ぼうとして、息が止まる。
 代わりに、笑った。
 十に届く音を自分の胸の奥で聴きながら。



 夕暮れ、窓の端に淡い朱が残る頃、私はハーブのポットへ湯を落とした。ローズマリーと少しのカモミール。澄む香りと甘い香りを半分ずつ。

 リビングに入ってきた彼は、上着を脱ぎながら鼻先で香りを嗅ぎ、目を細める。
「——覚えた」

「え?」

「君がこれを“好き”だと。朝、屋上で言った」

 胸の奥の小さな灯りが、ぱちと音を立てる。
 (覚えている。私が言った些細なこと)

「ありがとう」

「礼は——」

「言わせてください」

 くすり、と彼の喉が鳴った。
 テーブルへ料理が運ばれる。白い皿に、オーブンで焼いた魚とレモンの輪、薄く火の通った野菜。

「今日は控えめに」

「助かります」

 向かい合って食べながら、他愛のない会話をした。
 神城の高校時代の話、礼子の最近の趣味、社内カフェの新メニュー。
 笑いが二、三度、自然にこぼれる。

 食後、彼はグラスの水を片手で揺らし、ふと視線を落とした。

「——噂はまた形を変える」

「はい」

「でも、明日も“妻は一人”と言う。何度でも」

 やわらかい刃だ、と思った。守るための刃。

「わたしも言います。何度でも。……“離れません”って」

 彼の黒が、静かに揺れた。

「彩音」

「はい」

「笑え」

「十、取りに行きます」

 私は立ち上がり、彼の前に一歩進んだ。
 光の角度で、彼の銀糸の髪が淡く縁取られる。
 手首の結晶が小さく鳴った瞬間、彼の指がとても自然にそれを包む。

「——今日のは、九・五」

「厳しい」

「伸び代がある」

「どこを直せば十ですか」

「ここ」

 そう言って、彼は私の眉間の少し上を、指先で軽く押した。
 力はほとんどない。けれど、そこだけがじんわり緩む。

「考えすぎだ」

「はい」

「俺を見ろ」

 視線が絡み、ほどけず、そのまま落ち合う。
 近づきすぎず、離れすぎない距離。
 ——影のキスの距離。

 彼は触れない。
 触れないのに、触れたみたいに、皮膚がゆっくり熱を持つ。

「いい」

 短い合図。
 私は息をつぎ、まぶたをゆっくり開ける。

「十、ですか」

「……十だ」

 許しの印みたいに、低い声が落ちた。

 夜はまだ浅い。
 窓の向こうで、街の灯りが幾何学の星座を描きはじめている。
 噂はまた泡立つだろう。
 でも、泡の上で私たちの足は、もう沈まない。

 冷たい微笑みは外のために。
 あたたかい笑いは、内側の合図に。

 私は雪の結晶チャームを指でなぞり、手首の脈に合わせて小さく鳴らした。

 ——明日も、彼の隣で。
 離れず、揺れず、十を取りに行く。