ドアが静かに閉まる音で、微睡みがほどけた。
天井はやわらかい暗さで、カーテンの隙間から夜の街の光が細く縫い込まれている。
枕元のメモ——「起きたら飲め。柊」——の隣で、蜂蜜のスティックがまだ温度を残していた。
時計は、約束の十時をすこし回っている。
胸の奥が、ひと拍ぶんだけ不規則に跳ねた。
——戻る、と言ったのに。
私は上体を起こし、窓辺へ歩く。
ガラスのこちら側に映るのは、乳白の肌と翡翠色の瞳、眠りの名残を含んだ黒髪。
街の灯りが頬の輪郭をかすめるたび、さっきまでの安堵が薄く擦り取られていく。
ドアのロックが回る音がして、私は振り返った。
黒いコートの襟に夜の気配を吸い込ませた柊真が、静かに入ってくる。
銀糸の髪が少し乱れて、喉元のタイは外されていた。
「起きたのか」
低い声に、胸の糸が緩む。
「……はい。遅かったので」
「予定が伸びた。すまない」
彼はコートをソファに置き、手を洗い、タオルで指を拭いながら近づいてくる。
微かな香りが、空気に残った。
シダーの奥に、知らない花の甘さが一滴。
——誰かの香水。
考える前に、胸の奥で言葉が形になる。
「……大丈夫です。戻ってきてくれて、よかった」
「喉は」
「薬で落ち着きました」
彼は頷いて、小さな紙袋を差し出した。
「喉飴。医師が勧めたやつだ」
「ありがとうございます」
「礼は——」
「言わせてください」
遮ると、彼の目元に、ほとんど見えない笑い皺がよぎった。
「明日は動線を切る。朝食は部屋で。……眠れ」
「柊真さんは?」
「まだ片づけることがある。だが、今夜はここにいる」
“ここ”。
そのひと言に、背中の力が抜ける。
ベッドに入る前、私はふと、彼のコートに視線を落とした。
ローズのような、甘い残り香。
喉の奥で、名前のない小石が転がる。
朝は、硝子のふちを洗ったみたいに冴えていた。
神城とスタッフの動線は迷いがなく、ロビーからは報道用のロープが消えている。
室内に届く気配は驚くほど少なかった。
用意された朝食の席へ座ると、蒸気の立つ白粥と卵、刻んだ薬味。
柊真は黒のニットにジャケットで、切れ長の瞳は相変わらず温度を秘めている。
「食べられるか」
「はい。少しなら」
匙を口に運ぶと、ほどよい塩と湯気が喉の壁を撫でた。
視線を上げるたび、彼の黒に出会う。
胸が、ひらりと裏返る。
「……昨夜は、どこへ」
言ってから、言葉の軽さに気づく。
詮索ではない、と言い足したくなる。
彼は少しだけ視線を落として答えた。
「写真の出所を潰した。あとは警備の手直しだ」
「おひとりで?」
「神城と、弁護士と、二、三人」
“二、三人”。
誰かの輪郭がその言葉の隙間に入ってくる。
ローズの香り。
私は匙を皿に置いて、笑ってみせた。
「……大丈夫です。すみません、変なことを」
「変ではない」
彼は短く言って、私のカップへ湯を注ぐ。
「今日は、笑え。九を取れ」
「頑張ってみます」
頑張る、という言い方が、やけに頼りない音を立てる。
私は、指先で雪の結晶のチャームを弾いた。
小さな鈴のような音が、白い朝にかすかに這う。
午前の短い打合せを終えて、私は廊下の角で足を止めた。
喉飴を買うため、神城がフロアの端にある売店を案内してくれている。
そこへ、清掃スタッフと若いボーイの囁きが、壁の反射で届いた。
「昨日の夜さ、地下に車が横付けされて、女性が一人……」
「え、誰?」
「見えなかったけど香りがした。いい匂い。ローズみたいな」
「まさかの“記事の人”じゃ」
「しっ。声、落として」
私は立ち止まったまま、喉の奥を押さえる。
ローズ。
彼のコートに残っていた甘さ。
神城が振り向いた。
「体調が?」
「……いえ。飴だけ、お願いできますか」
神城は一瞬だけ目を細め、それ以上は何も聞かなかった。
「少しお待ちください」
彼が視界の外へ消えると、私は壁にもたれ、深く息を吐いた。
契約。
“離れるな”。
“俺がいる”。
胸の中で、言葉たちが支え合っていた足場が、音を立てずに軋む。
——わたし、何をしているのだろう。
詮索ではない、と自分に言い訳しながら、詮索に似た形で心を切っている。
戻ってきた神城が手のひらへ飴を三つ乗せ、静かに言った。
「奥様」
「……はい」
「“見えるもの”と“本当”は、いつも別です」
唐突な言葉に、私は瞬きをした。
「きのうの地下駐車場へ入った女性は、医師です。柊様の指示で——奥様の薬を受け取るために」
胸の奥で、さっきの小石が音を立てて崩れた。
「ローズの香りは、その方のコートでしょう。……お伝えする予定はありませんでしたが」
「どうして、教えてくださったんですか」
「奥様が“誤解に優しい顔”をなさっていたので」
誤解に優しい顔。
私は笑って、笑い損ねた。
「ありがとうございます」
神城は小さく会釈し、私の一歩後ろを歩く位置へ戻った。
私は飴を口に含み、蜂蜜の甘さとは違う薄荷の凉しさを喉に落とす。
——たぶん、私は“誤解に優しい”。
噂に傷つく準備が、いつもできている。
それはきっと、長いあいだ“期待を折って生きる練習”をしてきたからだ。
午後は部屋で過ごすことになった。
少しの書類に目を通し、短い昼寝を挟み、窓辺でローズマリーを指先で撫でて香りを吸い込む。
脳の奥が澄む香り。
——覚えておく、と彼は言った。
夕方、テーブルに小さな箱が置かれているのに気づいた。
蓋を開けると、細いシルバーのピンが一本。
控えめな星のモチーフ。
付箋に短く、「前髪用」とだけある。
鏡の前で、黒髪をすっと留めてみる。
視界が広くなり、翡翠色の輪郭が少し凛と見えた。
「……ありがとうございます」
言葉が空へ溶けていく。
そのとき、スマートフォンが震えた。
見知らぬ番号からのメッセージ。
〈昨夜は楽しかったわ。彼からもきちんと“聞いた”——あなたは、どこまで知ってるの?〉
指先が一瞬、凍る。
送り主の名前はない。
けれど、語尾の柔らかさと、括弧の使い方だけで、誰かの影が浮かび上がる。
——城之内アリア。
まるで噂が、私の部屋の内側まで来たみたいに。
次の瞬間、ドアロックが回る音がした。
反射的に画面を伏せ、呼吸を整える。
入ってきた柊真は、黒のスーツに戻っていた。
銀の髪は整えられ、切れ長の瞳がこちらを射抜く。
「熱は」
「もう大丈夫です」
「よく眠れたか」
「ええ。……ピン、ありがとうございます」
髪を指し示すと、彼は一瞬だけ目を細めた。
「似合う」
その一言が、胸の内側をやわらかく撫でる。
「明朝は、車で本社に入る。報道は切る。——君は俺の隣に」
「離れません」
口に出した瞬間、さっきのメッセージが、舌の裏側で痛む。
私は視線を落とし、声の温度を平らにした。
「……契約のあいだは」
彼のまつげが、わずかに動いた。
「“あいだ”だけか」
びくりとして、顔を上げる。
黒い瞳が、わたしの翡翠をまっすぐ掴んでいた。
呼吸が乱れかけたとき、彼は視線を外し、ソファに腰を下ろした。
「夕食は軽く。——一緒に食べる」
「はい」
テーブルにコトリと置かれる白い皿、蒸した野菜と鶏のスープ。
匙をすくい、口へ運ぶ。
ひと口ごとに、胸に張り付いた棘がゆっくりほどけていく。
言うべきか、黙るべきか。
メッセージを見せることは、彼を信じること? それとも、試すこと?
匙の音が静かな部屋に触れる。
やがて彼が、私の手首へ視線を落とした。
「脈が速い」
「……緊張してるのかもしれません」
「何かあったか」
私は短く迷い、息を整えた。
「メッセージが来ました。見知らぬ番号から」
「見せろ」
伏せていたスマートフォンをそっと渡す。
彼は一読し、視線をスッと細くした。
黒曜石みたいな冷たさ。
「——消せ。番号は神城に回せ。出所は追う」
「でも、内容が」
「内容はゴミだ」
即答。
「彩音。俺の言葉を借りるな。俺の言葉を聞け」
胸が、熱で膨張するみたいに痛んだ。
「……聞きたいです。あなたの言葉を」
彼は一拍置き、テーブル越しにわずかに身を乗り出した。
「昨夜、俺はお前の薬を受け取らせ、写真の出所を潰し、ホテルの動線を変えた。女は会っていない。——会う必要がない」
語尾が刃にならず、印章みたいに正確に押される。
私は唇を噛み、頷いた。
「信じ……ます」
「信じろ」
同意ではなく、命令。
なのに、なぜだろう。
その命令は、私の弱い場所を責めない。
弱い場所を“補強”するように、そこへ板を渡していく。
しばらく沈黙があり、彼はふっと息を抜いた。
「——明日、笑え。十を取れ」
「はい」
私は深く、ゆっくり頷いた。
目指す数字は、いつの間にか、彼に言われたからではなく“自分がそうしたいから”になっている。
夜更け、窓の外で細かな霧が降り始めた。
グラスの水面が、街の灯りを小さな万華鏡に変える。
私は眠る前に、雪の結晶のチャームを手首に絡めてみた。
脈の上で、金の輪が小さく脈打つ。
ドアのほうから気配がして、彼が近づいてくる。
黒い影がベッドサイドの灯りの外側にとどまり、少し低くなる。
「彩音」
「はい」
「誤解は、俺が潰す」
短い言葉。
けれど、これ以上の長文より、よほど確かに胸へ届いた。
「——離れるな」
「……離れません」
静かな夜の、静かな誓い。
彼の影が離れていく足音を数えて、私は目を閉じた。
噂はきっとまた形を変える。
けれど、形を変えるたびに、私は“自分の言葉”で組み直すと決めた。
“信じる”。
“隣に立つ”。
——それは契約の条文にはないけれど、私の胸に最初に刻むべき条項だった。
眠りの底で、誰かが「いい子だ」と囁いた気がした。
朝になったら、九では足りない。
十を、取りに行く。
天井はやわらかい暗さで、カーテンの隙間から夜の街の光が細く縫い込まれている。
枕元のメモ——「起きたら飲め。柊」——の隣で、蜂蜜のスティックがまだ温度を残していた。
時計は、約束の十時をすこし回っている。
胸の奥が、ひと拍ぶんだけ不規則に跳ねた。
——戻る、と言ったのに。
私は上体を起こし、窓辺へ歩く。
ガラスのこちら側に映るのは、乳白の肌と翡翠色の瞳、眠りの名残を含んだ黒髪。
街の灯りが頬の輪郭をかすめるたび、さっきまでの安堵が薄く擦り取られていく。
ドアのロックが回る音がして、私は振り返った。
黒いコートの襟に夜の気配を吸い込ませた柊真が、静かに入ってくる。
銀糸の髪が少し乱れて、喉元のタイは外されていた。
「起きたのか」
低い声に、胸の糸が緩む。
「……はい。遅かったので」
「予定が伸びた。すまない」
彼はコートをソファに置き、手を洗い、タオルで指を拭いながら近づいてくる。
微かな香りが、空気に残った。
シダーの奥に、知らない花の甘さが一滴。
——誰かの香水。
考える前に、胸の奥で言葉が形になる。
「……大丈夫です。戻ってきてくれて、よかった」
「喉は」
「薬で落ち着きました」
彼は頷いて、小さな紙袋を差し出した。
「喉飴。医師が勧めたやつだ」
「ありがとうございます」
「礼は——」
「言わせてください」
遮ると、彼の目元に、ほとんど見えない笑い皺がよぎった。
「明日は動線を切る。朝食は部屋で。……眠れ」
「柊真さんは?」
「まだ片づけることがある。だが、今夜はここにいる」
“ここ”。
そのひと言に、背中の力が抜ける。
ベッドに入る前、私はふと、彼のコートに視線を落とした。
ローズのような、甘い残り香。
喉の奥で、名前のない小石が転がる。
朝は、硝子のふちを洗ったみたいに冴えていた。
神城とスタッフの動線は迷いがなく、ロビーからは報道用のロープが消えている。
室内に届く気配は驚くほど少なかった。
用意された朝食の席へ座ると、蒸気の立つ白粥と卵、刻んだ薬味。
柊真は黒のニットにジャケットで、切れ長の瞳は相変わらず温度を秘めている。
「食べられるか」
「はい。少しなら」
匙を口に運ぶと、ほどよい塩と湯気が喉の壁を撫でた。
視線を上げるたび、彼の黒に出会う。
胸が、ひらりと裏返る。
「……昨夜は、どこへ」
言ってから、言葉の軽さに気づく。
詮索ではない、と言い足したくなる。
彼は少しだけ視線を落として答えた。
「写真の出所を潰した。あとは警備の手直しだ」
「おひとりで?」
「神城と、弁護士と、二、三人」
“二、三人”。
誰かの輪郭がその言葉の隙間に入ってくる。
ローズの香り。
私は匙を皿に置いて、笑ってみせた。
「……大丈夫です。すみません、変なことを」
「変ではない」
彼は短く言って、私のカップへ湯を注ぐ。
「今日は、笑え。九を取れ」
「頑張ってみます」
頑張る、という言い方が、やけに頼りない音を立てる。
私は、指先で雪の結晶のチャームを弾いた。
小さな鈴のような音が、白い朝にかすかに這う。
午前の短い打合せを終えて、私は廊下の角で足を止めた。
喉飴を買うため、神城がフロアの端にある売店を案内してくれている。
そこへ、清掃スタッフと若いボーイの囁きが、壁の反射で届いた。
「昨日の夜さ、地下に車が横付けされて、女性が一人……」
「え、誰?」
「見えなかったけど香りがした。いい匂い。ローズみたいな」
「まさかの“記事の人”じゃ」
「しっ。声、落として」
私は立ち止まったまま、喉の奥を押さえる。
ローズ。
彼のコートに残っていた甘さ。
神城が振り向いた。
「体調が?」
「……いえ。飴だけ、お願いできますか」
神城は一瞬だけ目を細め、それ以上は何も聞かなかった。
「少しお待ちください」
彼が視界の外へ消えると、私は壁にもたれ、深く息を吐いた。
契約。
“離れるな”。
“俺がいる”。
胸の中で、言葉たちが支え合っていた足場が、音を立てずに軋む。
——わたし、何をしているのだろう。
詮索ではない、と自分に言い訳しながら、詮索に似た形で心を切っている。
戻ってきた神城が手のひらへ飴を三つ乗せ、静かに言った。
「奥様」
「……はい」
「“見えるもの”と“本当”は、いつも別です」
唐突な言葉に、私は瞬きをした。
「きのうの地下駐車場へ入った女性は、医師です。柊様の指示で——奥様の薬を受け取るために」
胸の奥で、さっきの小石が音を立てて崩れた。
「ローズの香りは、その方のコートでしょう。……お伝えする予定はありませんでしたが」
「どうして、教えてくださったんですか」
「奥様が“誤解に優しい顔”をなさっていたので」
誤解に優しい顔。
私は笑って、笑い損ねた。
「ありがとうございます」
神城は小さく会釈し、私の一歩後ろを歩く位置へ戻った。
私は飴を口に含み、蜂蜜の甘さとは違う薄荷の凉しさを喉に落とす。
——たぶん、私は“誤解に優しい”。
噂に傷つく準備が、いつもできている。
それはきっと、長いあいだ“期待を折って生きる練習”をしてきたからだ。
午後は部屋で過ごすことになった。
少しの書類に目を通し、短い昼寝を挟み、窓辺でローズマリーを指先で撫でて香りを吸い込む。
脳の奥が澄む香り。
——覚えておく、と彼は言った。
夕方、テーブルに小さな箱が置かれているのに気づいた。
蓋を開けると、細いシルバーのピンが一本。
控えめな星のモチーフ。
付箋に短く、「前髪用」とだけある。
鏡の前で、黒髪をすっと留めてみる。
視界が広くなり、翡翠色の輪郭が少し凛と見えた。
「……ありがとうございます」
言葉が空へ溶けていく。
そのとき、スマートフォンが震えた。
見知らぬ番号からのメッセージ。
〈昨夜は楽しかったわ。彼からもきちんと“聞いた”——あなたは、どこまで知ってるの?〉
指先が一瞬、凍る。
送り主の名前はない。
けれど、語尾の柔らかさと、括弧の使い方だけで、誰かの影が浮かび上がる。
——城之内アリア。
まるで噂が、私の部屋の内側まで来たみたいに。
次の瞬間、ドアロックが回る音がした。
反射的に画面を伏せ、呼吸を整える。
入ってきた柊真は、黒のスーツに戻っていた。
銀の髪は整えられ、切れ長の瞳がこちらを射抜く。
「熱は」
「もう大丈夫です」
「よく眠れたか」
「ええ。……ピン、ありがとうございます」
髪を指し示すと、彼は一瞬だけ目を細めた。
「似合う」
その一言が、胸の内側をやわらかく撫でる。
「明朝は、車で本社に入る。報道は切る。——君は俺の隣に」
「離れません」
口に出した瞬間、さっきのメッセージが、舌の裏側で痛む。
私は視線を落とし、声の温度を平らにした。
「……契約のあいだは」
彼のまつげが、わずかに動いた。
「“あいだ”だけか」
びくりとして、顔を上げる。
黒い瞳が、わたしの翡翠をまっすぐ掴んでいた。
呼吸が乱れかけたとき、彼は視線を外し、ソファに腰を下ろした。
「夕食は軽く。——一緒に食べる」
「はい」
テーブルにコトリと置かれる白い皿、蒸した野菜と鶏のスープ。
匙をすくい、口へ運ぶ。
ひと口ごとに、胸に張り付いた棘がゆっくりほどけていく。
言うべきか、黙るべきか。
メッセージを見せることは、彼を信じること? それとも、試すこと?
匙の音が静かな部屋に触れる。
やがて彼が、私の手首へ視線を落とした。
「脈が速い」
「……緊張してるのかもしれません」
「何かあったか」
私は短く迷い、息を整えた。
「メッセージが来ました。見知らぬ番号から」
「見せろ」
伏せていたスマートフォンをそっと渡す。
彼は一読し、視線をスッと細くした。
黒曜石みたいな冷たさ。
「——消せ。番号は神城に回せ。出所は追う」
「でも、内容が」
「内容はゴミだ」
即答。
「彩音。俺の言葉を借りるな。俺の言葉を聞け」
胸が、熱で膨張するみたいに痛んだ。
「……聞きたいです。あなたの言葉を」
彼は一拍置き、テーブル越しにわずかに身を乗り出した。
「昨夜、俺はお前の薬を受け取らせ、写真の出所を潰し、ホテルの動線を変えた。女は会っていない。——会う必要がない」
語尾が刃にならず、印章みたいに正確に押される。
私は唇を噛み、頷いた。
「信じ……ます」
「信じろ」
同意ではなく、命令。
なのに、なぜだろう。
その命令は、私の弱い場所を責めない。
弱い場所を“補強”するように、そこへ板を渡していく。
しばらく沈黙があり、彼はふっと息を抜いた。
「——明日、笑え。十を取れ」
「はい」
私は深く、ゆっくり頷いた。
目指す数字は、いつの間にか、彼に言われたからではなく“自分がそうしたいから”になっている。
夜更け、窓の外で細かな霧が降り始めた。
グラスの水面が、街の灯りを小さな万華鏡に変える。
私は眠る前に、雪の結晶のチャームを手首に絡めてみた。
脈の上で、金の輪が小さく脈打つ。
ドアのほうから気配がして、彼が近づいてくる。
黒い影がベッドサイドの灯りの外側にとどまり、少し低くなる。
「彩音」
「はい」
「誤解は、俺が潰す」
短い言葉。
けれど、これ以上の長文より、よほど確かに胸へ届いた。
「——離れるな」
「……離れません」
静かな夜の、静かな誓い。
彼の影が離れていく足音を数えて、私は目を閉じた。
噂はきっとまた形を変える。
けれど、形を変えるたびに、私は“自分の言葉”で組み直すと決めた。
“信じる”。
“隣に立つ”。
——それは契約の条文にはないけれど、私の胸に最初に刻むべき条項だった。
眠りの底で、誰かが「いい子だ」と囁いた気がした。
朝になったら、九では足りない。
十を、取りに行く。

