夜の泡は弾け、灯りはいつの間にか遠ざかっていた。
目を開けると、カーテンの縁が乳白に濡れている。
冬の朝の光は冷たく、ベッドサイドの雪の結晶チャームが細く鳴った。
携帯の通知が積もり、画面は静かな騒音で満ちている。
「……また、記事」
指先でスワイプすると、昨夜のボールルームの写真が粗い影のまま並んだ。
〈バルコニーで見つめ合う二人〉〈群青の女は誰〉。
どれもピントは甘いのに、言葉だけが正確に心へ到達する。
額に手を当てると、熱はない。
ただ、胸の奥のどこかだけが少し赤く腫れているみたいだった。
ゆっくり起き上がり、髪をまとめ、ガウンを羽織ってリビングへ出る。
大きな窓が空の色を連れて部屋いっぱいに広がっていた。
灰青の雲間から差す細い光が、クリスタルの花器を静かに照らす。
キッチンへ向かい、カップへお湯を落とす。
カモミール。昨夜のあたたかさが、まだ棚の奥に眠っている。
「起きたか」
背後で低い声。振り返ると、黒のシャツにジャケットを肩掛けした柊真が、ソファの背にもたれていた。
結ばれないタイが喉元でゆるく揺れ、銀糸の髪はいつもより少しだけ乱れている。
「おはようございます。……すみません、起こしてしまいました?」
「眠っていなかった」
短く答え、彼は手首の時計に視線を落とす。
「準備はいいか。九時に会議、その後に広報対策。昼は軽くで済む。——午後はオフにする」
「オフ……?」
「無駄に消耗するな。昨夜の余波が出る」
言われて初めて、脚の奥が微かに重いと気づく。
頷くと、彼はまるで書類を片づけるみたいに淡々と続けた。
「午前は同席しろ。俺の隣から、離れるな」
「……はい」
返事をした瞬間、スマートフォンが震えた。
〈速報:二年前の慈善ガラで並ぶ二人——城之内アリアと後継者〉
過去写真まで引っ張り出されている。
記事のスクロールを止めると、彼の影が私の前に落ちた。
「見るな」
「でも、仕事の関係者も見てしまうから……」
「神城が潰す。——お前は立っていればいい」
言い方は乱暴なのに、そこに甘さが混じるのを私は知っている。
守られるために立っているのか、並ぶために立っているのか。
曖昧な答えのまま、熱いカモミールの湯気を吸い込んだ。
「朝食は?」
「少しだけ……」
言い終える前に、彼はインターホンへ指示を飛ばす。
ほどなく届いたプレートには、白粥と温野菜、蜂蜜を落としたヨーグルト。
私は匙を取り、ひと口すくう。
驚くほどやさしい温度が、喉の奥の緊張を解いていく。
「無理をするな」
「はい」
「顔色は悪くない。——目が少し赤い」
「寝不足だと思います」
「なら、今日の午後は眠れ」
命令形なのに、まるで“おやすみ”と言われたみたいで、胸が温かくなる。
彼はジャケットを羽織り、玄関へ向かいながら振り返った。
「行くぞ。笑え。……八では足りない。今日は九を取れ」
「欲張りです」
「知っている」
軽い応酬が、心の芯に一本の線を引いた。
私は群青ではなく、午前用の柔らかなクリーム色のセットアップに袖を通す。
鏡の中で、翡翠色の瞳が少しだけ凛として見えた。
会議室の空気は、紙とインクの匂いが支配していた。
長机の上で、タブレットと資料の角がぴたりとそろう。
幹部たちの視線は礼儀正しく、しかし各々の電卓が見えないところで忙しくはじかれているのが、空気の圧でわかる。
「昨夜の件は法務・広報で対応済みです」
神城が手短に告げる。
「アカウントの発信源は分散。写真は解析で否定可能。——ただし“曖昧な影”のほうがよく拡散します」
曖昧な影。
私は自分の手を膝の上で重ねた。
柊真は一度だけ視線を流し、必要な修正案を的確に指示していく。
「スポンサー各社に説明を入れろ。礼子にも一報。……彩音は午後、動線を最小化する」
「承知しました」
会議が終わり、廊下に出ると、窓の外は薄い陽光で満ちていた。
私はふっと息を吐き、腰にかかる緊張を撫で下ろす。
そのとき、少し離れた柱の影で、二人の若い社員が囁き合うのが見えた。
「ねえ、あの記事——」
「ダメだよ、ここで。……でも、奥さん、綺麗だったよね」
綺麗。
昨日、彼が耳元で落とした言葉が、静かに重なった。
“綺麗だ”。
その一語のためだけに、私は今日も笑える気がした。
「彩音」
呼ばれて振り向くと、柊真が手を差し出していた。
いつものように、掌は温度を持たないふりをしながら、脈だけが確かに打っている。
「昼を軽く済ませる。——外気に当たるぞ」
彼の提案で、屋上庭園へ出た。
冬の陽がガラスの縁で細く砕け、植え込みのローズマリーが風に揺れている。
白い息がふたつ、並んで立ちのぼる。
「寒くないか」
「平気です。……いい匂い。ローズマリー、すきです」
「覚えておく」
短い返事。
それだけで、名もない贈り物を受け取ったみたいに胸が温かくなる。
ベンチへ腰かけると、彼はポケットから薄い袋を取り出し、私の膝の上に置いた。
「何ですか?」
「カイロだ。神城が渡してきた」
「神城さん、万能ですね」
「万能ではない。俺がいないと動かない」
「それは……ご自分でおっしゃいます?」
「事実だ」
不意に笑ってしまい、彼も気配だけで口元をわずかに緩めた。
風が少し強くなり、髪が頬にかかる。
彼の手が反射のように伸び、さらりと髪を払った。
触れたのはほんの一瞬。けれど、そこに指の温度が残る。
「——午後は休め」
「でも、あなたは」
「俺は構わない。お前が倒れると困る」
契約の文法。
それでも、言葉の影には別の意味がいつも潜んでいる。
私は頷き、屋上庭園を後にした。
午後、スイートに戻ると、静けさが耳に丸い輪を残した。
ベッドの端に腰を下ろし、靴を脱ぐ。
体が少しずつ重力へ沈むように、芯の疲れが遅れてやってくる。
温かいシャワーを浴び、髪をまとめ、ハーブティーを淹れる。
湯気が頬に触れた瞬間、ふっと目の奥の緊張が緩んだ。
ベッドへ横になるつもりが、いつの間にか深く息を吸って、吐いて——。
少しだけ眠ったのだと思う。
夢の縁で、扉の開く音がした。
目を開けると、淡い影が近づいてきて、視界がゆっくり焦点を結ぶ。
「熱があるな」
額に触れた指は冷たく、やさしかった。
自分の額から彼の手が離れる時、名残惜しい熱が皮膚に残る。
「……だいじょうぶ、です」
「だいじょうぶではない。頬が赤い」
彼は躊躇のない動きで内線を取り、医師の往診と氷枕、スポーツドリンクを手際よく手配した。
「人は緊張が解けた直後に体調を崩す。——“余波”だ」
余波。
章題みたいに、彼の言葉が胸に落ちる。
私は苦笑し、ベッドの上で体を丸めた。
「ごめんなさい。せっかく午後を……」
「謝るな。俺が決めた」
すぐに氷枕が届き、彼はそれをタオルで包み直す。
髪が濡れないように、手際よく位置を調整してくれる。
横顔は無表情に近いのに、指先だけがやさしい。
蜂蜜を溶かしたぬるい白湯が、唇へ触れた。
「少しずつ飲め」
「……はい」
喉を通る甘さは、子どものころの救済の味だった。
コップを受け取る彼の指が私の指に触れ、反射的に目が合う。
視線が絡み、ほどける。
彼は何も言わなかった。
けれど沈黙は、言葉よりあたたかい。
「医師が十五分で来る。——それまで、眠れ」
「眠れない気がします」
「なら、目を閉じて俺の声だけ聞け」
命令と、子守歌のあいだ。
私は素直に目を閉じた。
彼の声が、少し離れたところから淡く落ちてくる。
「神城、広報は指針どおりに。……ああ、母には俺から言う。——会場の写真流出源は見つけろ。現場の責任を問うつもりはない。構造を塞げ」
低い声は、よく研がれた刃のように迷いがない。
それでも、合間にときどき、私の名前がやわらかい音で混ざる。
「……彩音は休ませろ。ドア前の人員、増やせ。……ああ、静かにだ」
彩音、と呼ばれるたび、胸の中の鼓動が静かに整った。
眠気がゆっくり降りてきて、私は彼の音の底で半分だけ眠った。
どのくらい時間が経ったのか、頬にやわらかな温度を感じて目を開ける。
氷枕が少しぬるくなり、彼は新しいものへ交換していた。
シャツの袖を肘まで折り、ネクタイを外した彼は、まるで別の人みたいに若く見える。
「……忙しいのに」
「俺の忙しさは俺が決める」
それは傲慢なセリフのはずなのに、不思議と胸が痛くならない。
私は唇を湿らせ、迷いながら口を開いた。
「昨夜……“綺麗だ”って言ってくれて、ありがとうございます」
彼はわずかに固まり、それから視線を逸らした。
「覚えていない」
「嘘です」
「……契約だ。褒めるくらい、誰にでもできる」
「あなたは“誰にでも”はしない」
言い切ると、彼は短く息を呑み、そして小さく笑った。
笑うと、目元の形が少しだけ幼くなる。
私はその変化が好きだと思ってしまい、慌ててまぶたを伏せた。
やがて医師が来て、喉を診て、軽い発熱と過労だと言い、薬を置いて去った。
部屋は再び静かになる。
窓の向こうで、午後の光が薄く傾き始めていた。
「眠れ」
「眠ります。……隣にいますか?」
「いる」
短い答えが、布団の上に落ちる。
私は片手をそっと伸ばし、シーツの上を探る。
彼の指先が、ためらいのあとでそれに触れた。
軽く、確かに。
「——離れません」
小声で言うと、彼の指が一度だけ強く握り返した。
「わかっている」
まどろみが戻り、柔らかな闇が視界を満たしていく。
その縁で、彼のスマートフォンが低く震えた。
彼は指先で素早く操作し、声を落とす。
「……俺だ。——やはり来るのか。記者だけでなく、城之内も? ……笑わせるな。入れない」
短い沈黙のあと、彼は「明朝は動線を完全に切る」と低く告げた。
言葉の刃は容赦がないのに、私の手を握る力だけがやさしい。
眠りへ沈む前、私は彼の名前を呼んでしまった。
「……柊真、さん」
気づかれたくない本音みたいに、囁きは枕へ吸い込まれる。
彼は答えなかった。
代わりに、指先がそっと私の髪の端をすくい、落とす。
「——いい子だ」
それが本当に聞こえたのか、夢の底の幻だったのかは分からない。
ただ、胸の奥に静かな波紋が広がり、私はようやく深く眠った。
夕暮れの手前で目を覚ますと、遠い赤が窓辺で燃えていた。
体のだるさはまだ残っているが、熱は幾分、引いている。
枕元の水は新しく、ベッド脇のスツールには蜂蜜のスティックと小さなメモ。
——「起きたら飲め。柊」
短い字。
私は笑いそうになって、堪えた。
グラスに水を足し、蜂蜜を溶かす。
甘さがのどを通ると、体の芯がゆっくり元の場所へ戻っていく。
リビングから、低い話し声がした。
ドアを少し開けると、神城が資料を抱えて立っていて、彼と短くやりとりをしている。
「——明朝、玄関の報道エリアはロープで仕切ります。裏口はクローズ。エレベーターホールは要員二名追加。奥様の動線はスイートから直通、車寄せに短距離」
「城之内は?」
「フロア出入り口で止めます。名目は安全管理」
「止まらなければ」
「止めます」
神城が去ると、彼はゆっくりとソファに腰を下ろした。
白いシャツの第一ボタンを外し、額に手を当てる。
疲労の影が、ほんの少しだけ見える。
私は思わず一歩踏み出してしまい、慌てて声を掛ける。
「……ごめんなさい。起きてしまいました」
彼は立ち上がり、すぐに距離を詰める。
「熱は?」
「下がったみたいです。……ご迷惑を」
「迷惑ではない。契約だ」
「契約で、ここまでしてもらえるものなんですね」
軽く笑って言うと、彼は目を細める。
「俺の契約は、条文に書かれていないことのほうが多い」
条文にないこと。
たとえば、デザートに蜂蜜を足すみたいな、小さな甘さ。
私は頷き、ベッドの端に戻った。
「今夜は?」
「お前は休む。——俺は少しだけ出る」
「危ないのに」
「危なくない。……十時には戻る」
時計の針が静かに進む音が聞こえる。
私は雪の結晶チャームを指先で弾き、小さく鳴らした。
「行ってらっしゃい」
彼は扉の前で立ち止まると、振り返り、わずかに口角を上げた。
それは、練習で覚えた“笑ってみせる”の反対——不器用な“笑わせてくれる”だった。
「——行ってくる」
静かに扉が閉まる。
残された部屋に、穏やかな温度の余韻が落ちる。
私は毛布を肩まで引き上げ、目を閉じた。
噂は、きっと今日もどこかで泡立っている。
けれど、泡が弾ける前に、私の中で固まっていくものがひとつある。
離れない、という意思。
彼の隣に立ちたい、という願い。
九を目指す笑顔は、たぶんまだ拙い。
それでも、夜明けの余波を越えた朝には、十に届くかもしれない。
そう信じて、私は静かに眠りへ戻った。
目を開けると、カーテンの縁が乳白に濡れている。
冬の朝の光は冷たく、ベッドサイドの雪の結晶チャームが細く鳴った。
携帯の通知が積もり、画面は静かな騒音で満ちている。
「……また、記事」
指先でスワイプすると、昨夜のボールルームの写真が粗い影のまま並んだ。
〈バルコニーで見つめ合う二人〉〈群青の女は誰〉。
どれもピントは甘いのに、言葉だけが正確に心へ到達する。
額に手を当てると、熱はない。
ただ、胸の奥のどこかだけが少し赤く腫れているみたいだった。
ゆっくり起き上がり、髪をまとめ、ガウンを羽織ってリビングへ出る。
大きな窓が空の色を連れて部屋いっぱいに広がっていた。
灰青の雲間から差す細い光が、クリスタルの花器を静かに照らす。
キッチンへ向かい、カップへお湯を落とす。
カモミール。昨夜のあたたかさが、まだ棚の奥に眠っている。
「起きたか」
背後で低い声。振り返ると、黒のシャツにジャケットを肩掛けした柊真が、ソファの背にもたれていた。
結ばれないタイが喉元でゆるく揺れ、銀糸の髪はいつもより少しだけ乱れている。
「おはようございます。……すみません、起こしてしまいました?」
「眠っていなかった」
短く答え、彼は手首の時計に視線を落とす。
「準備はいいか。九時に会議、その後に広報対策。昼は軽くで済む。——午後はオフにする」
「オフ……?」
「無駄に消耗するな。昨夜の余波が出る」
言われて初めて、脚の奥が微かに重いと気づく。
頷くと、彼はまるで書類を片づけるみたいに淡々と続けた。
「午前は同席しろ。俺の隣から、離れるな」
「……はい」
返事をした瞬間、スマートフォンが震えた。
〈速報:二年前の慈善ガラで並ぶ二人——城之内アリアと後継者〉
過去写真まで引っ張り出されている。
記事のスクロールを止めると、彼の影が私の前に落ちた。
「見るな」
「でも、仕事の関係者も見てしまうから……」
「神城が潰す。——お前は立っていればいい」
言い方は乱暴なのに、そこに甘さが混じるのを私は知っている。
守られるために立っているのか、並ぶために立っているのか。
曖昧な答えのまま、熱いカモミールの湯気を吸い込んだ。
「朝食は?」
「少しだけ……」
言い終える前に、彼はインターホンへ指示を飛ばす。
ほどなく届いたプレートには、白粥と温野菜、蜂蜜を落としたヨーグルト。
私は匙を取り、ひと口すくう。
驚くほどやさしい温度が、喉の奥の緊張を解いていく。
「無理をするな」
「はい」
「顔色は悪くない。——目が少し赤い」
「寝不足だと思います」
「なら、今日の午後は眠れ」
命令形なのに、まるで“おやすみ”と言われたみたいで、胸が温かくなる。
彼はジャケットを羽織り、玄関へ向かいながら振り返った。
「行くぞ。笑え。……八では足りない。今日は九を取れ」
「欲張りです」
「知っている」
軽い応酬が、心の芯に一本の線を引いた。
私は群青ではなく、午前用の柔らかなクリーム色のセットアップに袖を通す。
鏡の中で、翡翠色の瞳が少しだけ凛として見えた。
会議室の空気は、紙とインクの匂いが支配していた。
長机の上で、タブレットと資料の角がぴたりとそろう。
幹部たちの視線は礼儀正しく、しかし各々の電卓が見えないところで忙しくはじかれているのが、空気の圧でわかる。
「昨夜の件は法務・広報で対応済みです」
神城が手短に告げる。
「アカウントの発信源は分散。写真は解析で否定可能。——ただし“曖昧な影”のほうがよく拡散します」
曖昧な影。
私は自分の手を膝の上で重ねた。
柊真は一度だけ視線を流し、必要な修正案を的確に指示していく。
「スポンサー各社に説明を入れろ。礼子にも一報。……彩音は午後、動線を最小化する」
「承知しました」
会議が終わり、廊下に出ると、窓の外は薄い陽光で満ちていた。
私はふっと息を吐き、腰にかかる緊張を撫で下ろす。
そのとき、少し離れた柱の影で、二人の若い社員が囁き合うのが見えた。
「ねえ、あの記事——」
「ダメだよ、ここで。……でも、奥さん、綺麗だったよね」
綺麗。
昨日、彼が耳元で落とした言葉が、静かに重なった。
“綺麗だ”。
その一語のためだけに、私は今日も笑える気がした。
「彩音」
呼ばれて振り向くと、柊真が手を差し出していた。
いつものように、掌は温度を持たないふりをしながら、脈だけが確かに打っている。
「昼を軽く済ませる。——外気に当たるぞ」
彼の提案で、屋上庭園へ出た。
冬の陽がガラスの縁で細く砕け、植え込みのローズマリーが風に揺れている。
白い息がふたつ、並んで立ちのぼる。
「寒くないか」
「平気です。……いい匂い。ローズマリー、すきです」
「覚えておく」
短い返事。
それだけで、名もない贈り物を受け取ったみたいに胸が温かくなる。
ベンチへ腰かけると、彼はポケットから薄い袋を取り出し、私の膝の上に置いた。
「何ですか?」
「カイロだ。神城が渡してきた」
「神城さん、万能ですね」
「万能ではない。俺がいないと動かない」
「それは……ご自分でおっしゃいます?」
「事実だ」
不意に笑ってしまい、彼も気配だけで口元をわずかに緩めた。
風が少し強くなり、髪が頬にかかる。
彼の手が反射のように伸び、さらりと髪を払った。
触れたのはほんの一瞬。けれど、そこに指の温度が残る。
「——午後は休め」
「でも、あなたは」
「俺は構わない。お前が倒れると困る」
契約の文法。
それでも、言葉の影には別の意味がいつも潜んでいる。
私は頷き、屋上庭園を後にした。
午後、スイートに戻ると、静けさが耳に丸い輪を残した。
ベッドの端に腰を下ろし、靴を脱ぐ。
体が少しずつ重力へ沈むように、芯の疲れが遅れてやってくる。
温かいシャワーを浴び、髪をまとめ、ハーブティーを淹れる。
湯気が頬に触れた瞬間、ふっと目の奥の緊張が緩んだ。
ベッドへ横になるつもりが、いつの間にか深く息を吸って、吐いて——。
少しだけ眠ったのだと思う。
夢の縁で、扉の開く音がした。
目を開けると、淡い影が近づいてきて、視界がゆっくり焦点を結ぶ。
「熱があるな」
額に触れた指は冷たく、やさしかった。
自分の額から彼の手が離れる時、名残惜しい熱が皮膚に残る。
「……だいじょうぶ、です」
「だいじょうぶではない。頬が赤い」
彼は躊躇のない動きで内線を取り、医師の往診と氷枕、スポーツドリンクを手際よく手配した。
「人は緊張が解けた直後に体調を崩す。——“余波”だ」
余波。
章題みたいに、彼の言葉が胸に落ちる。
私は苦笑し、ベッドの上で体を丸めた。
「ごめんなさい。せっかく午後を……」
「謝るな。俺が決めた」
すぐに氷枕が届き、彼はそれをタオルで包み直す。
髪が濡れないように、手際よく位置を調整してくれる。
横顔は無表情に近いのに、指先だけがやさしい。
蜂蜜を溶かしたぬるい白湯が、唇へ触れた。
「少しずつ飲め」
「……はい」
喉を通る甘さは、子どものころの救済の味だった。
コップを受け取る彼の指が私の指に触れ、反射的に目が合う。
視線が絡み、ほどける。
彼は何も言わなかった。
けれど沈黙は、言葉よりあたたかい。
「医師が十五分で来る。——それまで、眠れ」
「眠れない気がします」
「なら、目を閉じて俺の声だけ聞け」
命令と、子守歌のあいだ。
私は素直に目を閉じた。
彼の声が、少し離れたところから淡く落ちてくる。
「神城、広報は指針どおりに。……ああ、母には俺から言う。——会場の写真流出源は見つけろ。現場の責任を問うつもりはない。構造を塞げ」
低い声は、よく研がれた刃のように迷いがない。
それでも、合間にときどき、私の名前がやわらかい音で混ざる。
「……彩音は休ませろ。ドア前の人員、増やせ。……ああ、静かにだ」
彩音、と呼ばれるたび、胸の中の鼓動が静かに整った。
眠気がゆっくり降りてきて、私は彼の音の底で半分だけ眠った。
どのくらい時間が経ったのか、頬にやわらかな温度を感じて目を開ける。
氷枕が少しぬるくなり、彼は新しいものへ交換していた。
シャツの袖を肘まで折り、ネクタイを外した彼は、まるで別の人みたいに若く見える。
「……忙しいのに」
「俺の忙しさは俺が決める」
それは傲慢なセリフのはずなのに、不思議と胸が痛くならない。
私は唇を湿らせ、迷いながら口を開いた。
「昨夜……“綺麗だ”って言ってくれて、ありがとうございます」
彼はわずかに固まり、それから視線を逸らした。
「覚えていない」
「嘘です」
「……契約だ。褒めるくらい、誰にでもできる」
「あなたは“誰にでも”はしない」
言い切ると、彼は短く息を呑み、そして小さく笑った。
笑うと、目元の形が少しだけ幼くなる。
私はその変化が好きだと思ってしまい、慌ててまぶたを伏せた。
やがて医師が来て、喉を診て、軽い発熱と過労だと言い、薬を置いて去った。
部屋は再び静かになる。
窓の向こうで、午後の光が薄く傾き始めていた。
「眠れ」
「眠ります。……隣にいますか?」
「いる」
短い答えが、布団の上に落ちる。
私は片手をそっと伸ばし、シーツの上を探る。
彼の指先が、ためらいのあとでそれに触れた。
軽く、確かに。
「——離れません」
小声で言うと、彼の指が一度だけ強く握り返した。
「わかっている」
まどろみが戻り、柔らかな闇が視界を満たしていく。
その縁で、彼のスマートフォンが低く震えた。
彼は指先で素早く操作し、声を落とす。
「……俺だ。——やはり来るのか。記者だけでなく、城之内も? ……笑わせるな。入れない」
短い沈黙のあと、彼は「明朝は動線を完全に切る」と低く告げた。
言葉の刃は容赦がないのに、私の手を握る力だけがやさしい。
眠りへ沈む前、私は彼の名前を呼んでしまった。
「……柊真、さん」
気づかれたくない本音みたいに、囁きは枕へ吸い込まれる。
彼は答えなかった。
代わりに、指先がそっと私の髪の端をすくい、落とす。
「——いい子だ」
それが本当に聞こえたのか、夢の底の幻だったのかは分からない。
ただ、胸の奥に静かな波紋が広がり、私はようやく深く眠った。
夕暮れの手前で目を覚ますと、遠い赤が窓辺で燃えていた。
体のだるさはまだ残っているが、熱は幾分、引いている。
枕元の水は新しく、ベッド脇のスツールには蜂蜜のスティックと小さなメモ。
——「起きたら飲め。柊」
短い字。
私は笑いそうになって、堪えた。
グラスに水を足し、蜂蜜を溶かす。
甘さがのどを通ると、体の芯がゆっくり元の場所へ戻っていく。
リビングから、低い話し声がした。
ドアを少し開けると、神城が資料を抱えて立っていて、彼と短くやりとりをしている。
「——明朝、玄関の報道エリアはロープで仕切ります。裏口はクローズ。エレベーターホールは要員二名追加。奥様の動線はスイートから直通、車寄せに短距離」
「城之内は?」
「フロア出入り口で止めます。名目は安全管理」
「止まらなければ」
「止めます」
神城が去ると、彼はゆっくりとソファに腰を下ろした。
白いシャツの第一ボタンを外し、額に手を当てる。
疲労の影が、ほんの少しだけ見える。
私は思わず一歩踏み出してしまい、慌てて声を掛ける。
「……ごめんなさい。起きてしまいました」
彼は立ち上がり、すぐに距離を詰める。
「熱は?」
「下がったみたいです。……ご迷惑を」
「迷惑ではない。契約だ」
「契約で、ここまでしてもらえるものなんですね」
軽く笑って言うと、彼は目を細める。
「俺の契約は、条文に書かれていないことのほうが多い」
条文にないこと。
たとえば、デザートに蜂蜜を足すみたいな、小さな甘さ。
私は頷き、ベッドの端に戻った。
「今夜は?」
「お前は休む。——俺は少しだけ出る」
「危ないのに」
「危なくない。……十時には戻る」
時計の針が静かに進む音が聞こえる。
私は雪の結晶チャームを指先で弾き、小さく鳴らした。
「行ってらっしゃい」
彼は扉の前で立ち止まると、振り返り、わずかに口角を上げた。
それは、練習で覚えた“笑ってみせる”の反対——不器用な“笑わせてくれる”だった。
「——行ってくる」
静かに扉が閉まる。
残された部屋に、穏やかな温度の余韻が落ちる。
私は毛布を肩まで引き上げ、目を閉じた。
噂は、きっと今日もどこかで泡立っている。
けれど、泡が弾ける前に、私の中で固まっていくものがひとつある。
離れない、という意思。
彼の隣に立ちたい、という願い。
九を目指す笑顔は、たぶんまだ拙い。
それでも、夜明けの余波を越えた朝には、十に届くかもしれない。
そう信じて、私は静かに眠りへ戻った。

