夜の泡は弾け、灯りはいつの間にか遠ざかっていた。

 目を開けると、カーテンの縁が乳白に濡れている。
 冬の朝の光は冷たく、ベッドサイドの雪の結晶チャームが細く鳴った。
 携帯の通知が積もり、画面は静かな騒音で満ちている。

「……また、記事」

 指先でスワイプすると、昨夜のボールルームの写真が粗い影のまま並んだ。
 〈バルコニーで見つめ合う二人〉〈群青の女は誰〉。
 どれもピントは甘いのに、言葉だけが正確に心へ到達する。

 額に手を当てると、熱はない。
 ただ、胸の奥のどこかだけが少し赤く腫れているみたいだった。
 ゆっくり起き上がり、髪をまとめ、ガウンを羽織ってリビングへ出る。

 大きな窓が空の色を連れて部屋いっぱいに広がっていた。
 灰青の雲間から差す細い光が、クリスタルの花器を静かに照らす。
 キッチンへ向かい、カップへお湯を落とす。
 カモミール。昨夜のあたたかさが、まだ棚の奥に眠っている。

「起きたか」

 背後で低い声。振り返ると、黒のシャツにジャケットを肩掛けした柊真が、ソファの背にもたれていた。
 結ばれないタイが喉元でゆるく揺れ、銀糸の髪はいつもより少しだけ乱れている。

「おはようございます。……すみません、起こしてしまいました?」

「眠っていなかった」
 短く答え、彼は手首の時計に視線を落とす。
「準備はいいか。九時に会議、その後に広報対策。昼は軽くで済む。——午後はオフにする」

「オフ……?」

「無駄に消耗するな。昨夜の余波が出る」

 言われて初めて、脚の奥が微かに重いと気づく。
 頷くと、彼はまるで書類を片づけるみたいに淡々と続けた。

「午前は同席しろ。俺の隣から、離れるな」
「……はい」

 返事をした瞬間、スマートフォンが震えた。
 〈速報:二年前の慈善ガラで並ぶ二人——城之内アリアと後継者〉
 過去写真まで引っ張り出されている。
 記事のスクロールを止めると、彼の影が私の前に落ちた。

「見るな」
「でも、仕事の関係者も見てしまうから……」

「神城が潰す。——お前は立っていればいい」

 言い方は乱暴なのに、そこに甘さが混じるのを私は知っている。
 守られるために立っているのか、並ぶために立っているのか。
 曖昧な答えのまま、熱いカモミールの湯気を吸い込んだ。

「朝食は?」

「少しだけ……」

 言い終える前に、彼はインターホンへ指示を飛ばす。
 ほどなく届いたプレートには、白粥と温野菜、蜂蜜を落としたヨーグルト。
 私は匙を取り、ひと口すくう。
 驚くほどやさしい温度が、喉の奥の緊張を解いていく。

「無理をするな」
「はい」

「顔色は悪くない。——目が少し赤い」

「寝不足だと思います」

「なら、今日の午後は眠れ」

 命令形なのに、まるで“おやすみ”と言われたみたいで、胸が温かくなる。
 彼はジャケットを羽織り、玄関へ向かいながら振り返った。

「行くぞ。笑え。……八では足りない。今日は九を取れ」

「欲張りです」

「知っている」

 軽い応酬が、心の芯に一本の線を引いた。
 私は群青ではなく、午前用の柔らかなクリーム色のセットアップに袖を通す。
 鏡の中で、翡翠色の瞳が少しだけ凛として見えた。



 会議室の空気は、紙とインクの匂いが支配していた。
 長机の上で、タブレットと資料の角がぴたりとそろう。
 幹部たちの視線は礼儀正しく、しかし各々の電卓が見えないところで忙しくはじかれているのが、空気の圧でわかる。

「昨夜の件は法務・広報で対応済みです」
 神城が手短に告げる。
「アカウントの発信源は分散。写真は解析で否定可能。——ただし“曖昧な影”のほうがよく拡散します」

 曖昧な影。
 私は自分の手を膝の上で重ねた。
 柊真は一度だけ視線を流し、必要な修正案を的確に指示していく。

「スポンサー各社に説明を入れろ。礼子にも一報。……彩音は午後、動線を最小化する」
「承知しました」

 会議が終わり、廊下に出ると、窓の外は薄い陽光で満ちていた。
 私はふっと息を吐き、腰にかかる緊張を撫で下ろす。
 そのとき、少し離れた柱の影で、二人の若い社員が囁き合うのが見えた。

「ねえ、あの記事——」
「ダメだよ、ここで。……でも、奥さん、綺麗だったよね」

 綺麗。
 昨日、彼が耳元で落とした言葉が、静かに重なった。
 “綺麗だ”。
 その一語のためだけに、私は今日も笑える気がした。

「彩音」

 呼ばれて振り向くと、柊真が手を差し出していた。
 いつものように、掌は温度を持たないふりをしながら、脈だけが確かに打っている。

「昼を軽く済ませる。——外気に当たるぞ」

 彼の提案で、屋上庭園へ出た。
 冬の陽がガラスの縁で細く砕け、植え込みのローズマリーが風に揺れている。
 白い息がふたつ、並んで立ちのぼる。

「寒くないか」

「平気です。……いい匂い。ローズマリー、すきです」

「覚えておく」

 短い返事。
 それだけで、名もない贈り物を受け取ったみたいに胸が温かくなる。
 ベンチへ腰かけると、彼はポケットから薄い袋を取り出し、私の膝の上に置いた。

「何ですか?」

「カイロだ。神城が渡してきた」

「神城さん、万能ですね」

「万能ではない。俺がいないと動かない」

「それは……ご自分でおっしゃいます?」

「事実だ」

 不意に笑ってしまい、彼も気配だけで口元をわずかに緩めた。
 風が少し強くなり、髪が頬にかかる。
 彼の手が反射のように伸び、さらりと髪を払った。
 触れたのはほんの一瞬。けれど、そこに指の温度が残る。

「——午後は休め」

「でも、あなたは」

「俺は構わない。お前が倒れると困る」

 契約の文法。
 それでも、言葉の影には別の意味がいつも潜んでいる。
 私は頷き、屋上庭園を後にした。



 午後、スイートに戻ると、静けさが耳に丸い輪を残した。
 ベッドの端に腰を下ろし、靴を脱ぐ。
 体が少しずつ重力へ沈むように、芯の疲れが遅れてやってくる。

 温かいシャワーを浴び、髪をまとめ、ハーブティーを淹れる。
 湯気が頬に触れた瞬間、ふっと目の奥の緊張が緩んだ。
 ベッドへ横になるつもりが、いつの間にか深く息を吸って、吐いて——。
 少しだけ眠ったのだと思う。

 夢の縁で、扉の開く音がした。
 目を開けると、淡い影が近づいてきて、視界がゆっくり焦点を結ぶ。

「熱があるな」

 額に触れた指は冷たく、やさしかった。
 自分の額から彼の手が離れる時、名残惜しい熱が皮膚に残る。

「……だいじょうぶ、です」

「だいじょうぶではない。頬が赤い」
 彼は躊躇のない動きで内線を取り、医師の往診と氷枕、スポーツドリンクを手際よく手配した。
「人は緊張が解けた直後に体調を崩す。——“余波”だ」

 余波。
 章題みたいに、彼の言葉が胸に落ちる。
 私は苦笑し、ベッドの上で体を丸めた。

「ごめんなさい。せっかく午後を……」

「謝るな。俺が決めた」

 すぐに氷枕が届き、彼はそれをタオルで包み直す。
 髪が濡れないように、手際よく位置を調整してくれる。
 横顔は無表情に近いのに、指先だけがやさしい。
 蜂蜜を溶かしたぬるい白湯が、唇へ触れた。

「少しずつ飲め」

「……はい」

 喉を通る甘さは、子どものころの救済の味だった。
 コップを受け取る彼の指が私の指に触れ、反射的に目が合う。
 視線が絡み、ほどける。
 彼は何も言わなかった。
 けれど沈黙は、言葉よりあたたかい。

「医師が十五分で来る。——それまで、眠れ」

「眠れない気がします」

「なら、目を閉じて俺の声だけ聞け」

 命令と、子守歌のあいだ。
 私は素直に目を閉じた。
 彼の声が、少し離れたところから淡く落ちてくる。

「神城、広報は指針どおりに。……ああ、母には俺から言う。——会場の写真流出源は見つけろ。現場の責任を問うつもりはない。構造を塞げ」

 低い声は、よく研がれた刃のように迷いがない。
 それでも、合間にときどき、私の名前がやわらかい音で混ざる。

「……彩音は休ませろ。ドア前の人員、増やせ。……ああ、静かにだ」

 彩音、と呼ばれるたび、胸の中の鼓動が静かに整った。
 眠気がゆっくり降りてきて、私は彼の音の底で半分だけ眠った。

 どのくらい時間が経ったのか、頬にやわらかな温度を感じて目を開ける。
 氷枕が少しぬるくなり、彼は新しいものへ交換していた。
 シャツの袖を肘まで折り、ネクタイを外した彼は、まるで別の人みたいに若く見える。

「……忙しいのに」

「俺の忙しさは俺が決める」

 それは傲慢なセリフのはずなのに、不思議と胸が痛くならない。
 私は唇を湿らせ、迷いながら口を開いた。

「昨夜……“綺麗だ”って言ってくれて、ありがとうございます」

 彼はわずかに固まり、それから視線を逸らした。
「覚えていない」

「嘘です」

「……契約だ。褒めるくらい、誰にでもできる」

「あなたは“誰にでも”はしない」

 言い切ると、彼は短く息を呑み、そして小さく笑った。
 笑うと、目元の形が少しだけ幼くなる。
 私はその変化が好きだと思ってしまい、慌ててまぶたを伏せた。

 やがて医師が来て、喉を診て、軽い発熱と過労だと言い、薬を置いて去った。
 部屋は再び静かになる。
 窓の向こうで、午後の光が薄く傾き始めていた。

「眠れ」

「眠ります。……隣にいますか?」

「いる」

 短い答えが、布団の上に落ちる。
 私は片手をそっと伸ばし、シーツの上を探る。
 彼の指先が、ためらいのあとでそれに触れた。
 軽く、確かに。

「——離れません」

 小声で言うと、彼の指が一度だけ強く握り返した。
「わかっている」

 まどろみが戻り、柔らかな闇が視界を満たしていく。
 その縁で、彼のスマートフォンが低く震えた。
 彼は指先で素早く操作し、声を落とす。

「……俺だ。——やはり来るのか。記者だけでなく、城之内も? ……笑わせるな。入れない」

 短い沈黙のあと、彼は「明朝は動線を完全に切る」と低く告げた。
 言葉の刃は容赦がないのに、私の手を握る力だけがやさしい。

 眠りへ沈む前、私は彼の名前を呼んでしまった。

「……柊真、さん」

 気づかれたくない本音みたいに、囁きは枕へ吸い込まれる。
 彼は答えなかった。
 代わりに、指先がそっと私の髪の端をすくい、落とす。

「——いい子だ」

 それが本当に聞こえたのか、夢の底の幻だったのかは分からない。
 ただ、胸の奥に静かな波紋が広がり、私はようやく深く眠った。



 夕暮れの手前で目を覚ますと、遠い赤が窓辺で燃えていた。
 体のだるさはまだ残っているが、熱は幾分、引いている。
 枕元の水は新しく、ベッド脇のスツールには蜂蜜のスティックと小さなメモ。

 ——「起きたら飲め。柊」

 短い字。
 私は笑いそうになって、堪えた。
 グラスに水を足し、蜂蜜を溶かす。
 甘さがのどを通ると、体の芯がゆっくり元の場所へ戻っていく。

 リビングから、低い話し声がした。
 ドアを少し開けると、神城が資料を抱えて立っていて、彼と短くやりとりをしている。

「——明朝、玄関の報道エリアはロープで仕切ります。裏口はクローズ。エレベーターホールは要員二名追加。奥様の動線はスイートから直通、車寄せに短距離」

「城之内は?」

「フロア出入り口で止めます。名目は安全管理」

「止まらなければ」

「止めます」

 神城が去ると、彼はゆっくりとソファに腰を下ろした。
 白いシャツの第一ボタンを外し、額に手を当てる。
 疲労の影が、ほんの少しだけ見える。
 私は思わず一歩踏み出してしまい、慌てて声を掛ける。

「……ごめんなさい。起きてしまいました」

 彼は立ち上がり、すぐに距離を詰める。
「熱は?」

「下がったみたいです。……ご迷惑を」

「迷惑ではない。契約だ」

「契約で、ここまでしてもらえるものなんですね」

 軽く笑って言うと、彼は目を細める。
「俺の契約は、条文に書かれていないことのほうが多い」

 条文にないこと。
 たとえば、デザートに蜂蜜を足すみたいな、小さな甘さ。
 私は頷き、ベッドの端に戻った。

「今夜は?」

「お前は休む。——俺は少しだけ出る」

「危ないのに」

「危なくない。……十時には戻る」

 時計の針が静かに進む音が聞こえる。
 私は雪の結晶チャームを指先で弾き、小さく鳴らした。

「行ってらっしゃい」

 彼は扉の前で立ち止まると、振り返り、わずかに口角を上げた。
 それは、練習で覚えた“笑ってみせる”の反対——不器用な“笑わせてくれる”だった。

「——行ってくる」

 静かに扉が閉まる。
 残された部屋に、穏やかな温度の余韻が落ちる。
 私は毛布を肩まで引き上げ、目を閉じた。

 噂は、きっと今日もどこかで泡立っている。
 けれど、泡が弾ける前に、私の中で固まっていくものがひとつある。
 離れない、という意思。
 彼の隣に立ちたい、という願い。

 九を目指す笑顔は、たぶんまだ拙い。
 それでも、夜明けの余波を越えた朝には、十に届くかもしれない。
 そう信じて、私は静かに眠りへ戻った。