会場の車寄せには、冬の星を溶かしたみたいなライトが降りていた。
群青のドレスの裾を指でつまみ、私は深呼吸をひとつ。
隣で柊真が、黒のジャケットの袖口を整え、袖ボタンに艶のあるカフリンクスを留める。銀糸の髪がライトを受けて、夜の欠片みたいにきらりと光った。
「——行くぞ」
差し出された手は、冷たくも熱くもないのに、触れれば脈が分かる温度だった。
「離れないで」
「言われなくても、そのつもりだ」
長いコートの内側で、彼の指が私の指をからめ取る。
雪の結晶のチャームが小さく鳴り、胸の奥でそれに呼応するように鼓動が高鳴った。
大理石の床を踏むと、音が澄んで響く。
ホテルのロビーは重厚な花の香りで満ち、シャンデリアが幾重にも光を落としていた。
フラッシュの気配が遠くでまたたく。誰かの視線が、肉眼よりも鋭い。
「笑え。——八点を狙え」
「……了解です」
口角を上げると、彼はほんの少し目を細める。
視線だけで「いい」と告げるその仕草が、いつの間にか私の背骨を支える柱になっていた。
ボールルームの扉が開く。
白い花弁を幾重にも重ねたようなシャンデリア、琥珀色の光。
弦楽四重奏がゆっくりと空気を撫で、男女の笑い声が泡のように弾ける。
私は彼の腕にそっと手を添え、約束どおり——離れない。
「柊様、ようこそ。奥様もご一緒とは、光栄の極みです」
スポンサー企業の重役が笑顔で近づく。
私は群青の裾を揺らし、微笑で答える。
挨拶の言葉を重ねる間にも、遠くのテーブルで何人もの視線がこちらを測っていた。
“噂の二人”。——見出しはいつだって、真実より先に歩く。
「彩音」
彼が、耳元で低く囁く。
「大丈夫だ。俺がいる」
それだけで呼吸が整う。
グラスに注がれたシャンパンの泡が、緊張をすり抜けて舌先で弾けた。
「奥様のドレス、お星さまみたい」
「本当に。群青がお似合いですわ」
女性たちの声が混ざる。
そこにひそやかな別の声も紛れる——見えないところで噂は手を結び、姿を変える。
「写真、見た?」「ええ、昨夜の……」「でも、彼女は今夜も奥様の隣にいるわね」
「“今夜は入れない”って噂よ」「まあ、怖い」
怖いのは、噂そのものではない。
噂が「わたし」を他人の言葉で形作っていく、その過程だ。
私は笑顔を保ち、琥珀の光の層に紛れながら、指先の温度で現実を確かめる。
——柊真の手は、ここにある。
ふいに、彼のポケットの中でスマートフォンが短く震えた。
彼は人波の陰へ歩を寄せ、短い言葉で指示を飛ばす。
「……俺だ。正面は抑えろ。裏導線に人を増やせ。“彼女”は通すな。——いい、徹底しろ」
通話が切れる。
私は、息を呑んだまま笑っていた。
“彼女”。その二文字が、報道の見出しと重なって胸の内側を擦る。
尋ねない。尋ねられない。
私は“妻”の顔を守る。契約の顔。——それでも、心は勝手に揺れる。
「大丈夫か」
戻ってきた彼が、誰にも見えない角度で私の指を一度だけ握った。
頷いた瞬間、弦の音が一段階上がる。司会者の声が響き、ダンスフロアへ人が流れた。
「踊れるか」
「習ったことは、あります。忘れていなければ」
「忘れていても俺が導く」
彼は私の手を取って、中央へ。
群青の裾が光の海にほどけ、彼の黒が夜の輪郭を引く。
手と手、肩と腰。擬音では言い表せないほど正確な距離で、音楽に溶ける。
「一、二、三——」
囁きに合わせて足を運ぶ。
つま先が、彼の靴の先にほんの少し触れた。
「ごめんなさい」
「謝るな。——俺の足は丈夫だ」
口調は冷たいのに、声の温度はやさしい。
視線が合う。
彼の黒い瞳に、私の群青が小さく映って揺れた。
目を逸らせない。逸らせたくない。
世界が音と光だけになって、噂の文字が遠のいていく。
曲が終わると、拍手が波のように寄せては返した。
彼と私の間に残る空気だけが直線的で、触れれば音が鳴りそうだった。
「——よくやった」
それは小さな合図。
私は八点の笑顔で応える。
そのとき、ボールルームの奥側——バルコニーへ続くアーチで、小さなざわめきが起きた。
「入場者の確認をお願いします」「失礼ですが、パスが——」
スタッフの声。
私がそちらへ視線を向けたのと、柊真が同じ方向へ目を向けたのは、ほぼ同時だった。
人影。金茶の髪。ローズのコート。
城之内アリア——記事の女。
彼女は笑っていた。ガラスに映る笑みは、薄い刃みたいに鋭い。
「ここで待て」
彼が、低く短く言った。
“離れるな”と言い続けた彼が、初めて私に距離を命じる。
喉の奥で言葉が絡まり、私は小さくうなずくしかない。
彼が人波を割って進む。
黒の背中が、光の海へ呑まれていく。
私はバルコニー寄りの柱陰に身を寄せ、息を整えた。
近くのテーブルで、二人の女性がメッセージを見比べている。
「ほら、さっきの速報、更新された」「“会場で再会。意味深な視線”だって」
「写真、粗いわね」「粗いから想像できるのよ。便利でしょ?」
便利。
噂にとっても、想像にとっても、粗さはいつも味方だ。
私は胸の中心を押さえる。
冷たい何かが、そこへ固く結び目を作っていく。
「——あなた、相変わらずひどいわ」
アリアの声が、ガラス越しに滑ってくる。
距離があるから、言葉は完全ではない。それでも、意味は十分に届く。
「わたしを拒むなんて。昔はあんなに優しかったのに」
「優しさの中身を、誤解するな」
柊真の声は低く、淡々としていた。
「出ていけ、アリア。ここは君の舞台ではない」
「誰の舞台かしら。——新しい奥様? ねえ、あの子、本当にあなたの隣に“似合う”?」
「似合う」
一拍の間。
彼の言葉は、刃物ではなく印章のように正確で、乾いた空気に刻まれた。
私は思わず目を閉じる。
胸の結び目が、少しだけ緩む。
「冷たい人。……その冷たさが好きだけど」
「警備を呼ぶ」
「冗談よ。帰るわ。——でも、彼女に伝えて。噂は、あなたたちを試す。あの子が泣くのは、今夜か、明日か」
ヒールの音が遠ざかる。
私は柱にもたれて深く息を吐き、頬の筋肉を解いた。
戻ってくる足音がする。
彼の黒が近づき、私の前で止まる。
「待たせた」
「……はい」
「寒いか」
「少し」
ジャケットが肩にかけられる。
重みと温度が同時に落ちてきて、私は無意識に裾を握った。
彼は誰にも見えない角度で、私の頬に視線を沿わせる。
「大丈夫だ」
「……噂、は」
「くだらない」
「くだらないものに、わたしは簡単に刺さるんです。扱いが下手だから」
「なら、俺が持て」
言ってから、彼は一瞬だけ視線を逸らし——ふっと息を漏らした。
「言い方を間違えた。……重いものは、俺に預けろ」
預ける。
その単語が、胸の中で信号のように点滅する。
私は小さく笑ってみせた。
「八点、いけそうです」
「十分を取れ」
「欲張り」
「知っている」
ふと、廊下の奥でフラッシュが走った。
振り返ると、スタッフに押し戻される影が一瞬だけ見えた。
シャッター音の残像が耳に刺さる。——どれだけ抑えても、零れるものは零れる。
「戻るぞ」
「はい」
彼の手に指を重ね、ボールルームへ戻る。
音楽が再び私たちの足を受け止め、光が形のいい影を床に落とした。
私はグラスを取り、笑い、言葉を交わす。
八点の笑顔は、きっと今ならできる。
けれど、胸のどこかで“九点目”が、まだ遠い。
休憩の小さなラウンジで、私はソファの縁に腰かけた。
鏡台の前を、淡い色のドレスの女性たちが行き交う。粉雪のようなパウダーの匂い。
隣に座った年配の婦人が、穏やかに微笑んだ。
「若い方は、お辛いでしょうね。噂は、甘いものほどよく吸うの」
「……甘いもの?」
「幸せのにおいのことよ」
彼女はグローブの裾を整えながら言った。
「だから、あまり気に病まないこと。噂は、噛み締めたら苦いけれど、飲み込まなければただの泡」
泡。
さっきのシャンパンの泡を思い出す。
弾けて消えるもの。——それでも、舌に確かに触れた。
「ありがとうございます」
会釈して立ち上がると、扉の向こうに彼の背が見えた。
彼は電話を耳に当て、短く頷いている。
「……ああ。写真は抑えた。ソースは切る。——彼女にこれ以上触れるな」
最後の一文だけ、はっきりと聞こえた。
私に向けられた矢印は、守るためなのか、囲うためなのか。
答えを求める前に、彼がこちらへ歩いてきた。
「行こう」
「はい」
彼の腕に手を回す。
その自然さが、怖いほど心地いい。
ボールルームへ戻る途中、ふと視界の端で光がまた瞬き——
スマートフォンが震えた。
“速報:バルコニーで見つめ合う二人——本命は誰?”
不鮮明な写真。ガラス越しの影。
距離も角度も間違っているのに、文字は滑らかに私の中へ落ちてくる。
「彩音」
彼が私の名前を呼ぶ。
私は画面を消し、顔を上げた。
「大丈夫です。……八点、いけます」
「十を取れと言った」
「次の曲で、挑戦します」
彼は短く目を細め、わずかに口角を上げる。
それが合図。
私は光の海に一歩踏み出し、彼の手を強く握った。
離れない。離れたくない。——契約の鎖が、いつの間にか私の意思に変わっている。
フロアで再び踊り出すと、音楽は少し速く、少し高くなった。
私は彼の胸の鼓動を、布越しに数える。
ひとつ。ふたつ。
噂の文字は、音の層の下へ沈んでいく。
泡のように弾け、そして消える。
——消えるまで、笑えばいい。
笑って、手を握って、前を見て。
曲が終わると、彼は私の耳にごく短い言葉を落とした。
「綺麗だ」
単純で、逃げ場のない褒め言葉。
私は息を飲み、目を閉じた。
八点と九点の境目が、今、足元でほどける。
目を開けると、彼はもう視線を逸らしていた。
——不器用。
礼子さんの言葉が、甘く苦く反芻される。
夜が更けるころ、会場の空気はほのかに熱を帯び、花の香りが濃くなった。
名残の挨拶をいくつか済ませ、私たちは出口へ向かう。
扉が開いたとき、冷たい空気が頬を撫でた。
薄い吐息が白くほどける。
「お疲れさま」
「ありがとうございました。……あなたも」
車に乗り込む直前、彼が不意に私の手を取って、甲に指先を沿わせた。
触れない距離。昨夜と同じ、影のキス。
それでも皮膚はそれを記憶して、ゆっくり熱を帯びる。
「礼は——」
「言わせてください」
今度は、私が遮った。
「今夜は、礼を言いたくなる夜でした」
闇の中で、彼の横顔がかすかに揺れる。
車の扉が閉まる音がして、外の世界が切り離された。
走り出す。街灯が窓を流れ、群青が夜を滑る。
膝の上の雪の結晶チャームが、小さく、確かに鳴った。
——噂は泡。
そう信じて眠りたい夜だ。
けれど、泡が弾ける音は、時に遠雷みたいに大きい。
明日の空が晴れるかどうか、まだ誰にもわからない。
それでも私は、十を目指す笑顔を練習する。
彼の隣で。
離れずに。
群青のドレスの裾を指でつまみ、私は深呼吸をひとつ。
隣で柊真が、黒のジャケットの袖口を整え、袖ボタンに艶のあるカフリンクスを留める。銀糸の髪がライトを受けて、夜の欠片みたいにきらりと光った。
「——行くぞ」
差し出された手は、冷たくも熱くもないのに、触れれば脈が分かる温度だった。
「離れないで」
「言われなくても、そのつもりだ」
長いコートの内側で、彼の指が私の指をからめ取る。
雪の結晶のチャームが小さく鳴り、胸の奥でそれに呼応するように鼓動が高鳴った。
大理石の床を踏むと、音が澄んで響く。
ホテルのロビーは重厚な花の香りで満ち、シャンデリアが幾重にも光を落としていた。
フラッシュの気配が遠くでまたたく。誰かの視線が、肉眼よりも鋭い。
「笑え。——八点を狙え」
「……了解です」
口角を上げると、彼はほんの少し目を細める。
視線だけで「いい」と告げるその仕草が、いつの間にか私の背骨を支える柱になっていた。
ボールルームの扉が開く。
白い花弁を幾重にも重ねたようなシャンデリア、琥珀色の光。
弦楽四重奏がゆっくりと空気を撫で、男女の笑い声が泡のように弾ける。
私は彼の腕にそっと手を添え、約束どおり——離れない。
「柊様、ようこそ。奥様もご一緒とは、光栄の極みです」
スポンサー企業の重役が笑顔で近づく。
私は群青の裾を揺らし、微笑で答える。
挨拶の言葉を重ねる間にも、遠くのテーブルで何人もの視線がこちらを測っていた。
“噂の二人”。——見出しはいつだって、真実より先に歩く。
「彩音」
彼が、耳元で低く囁く。
「大丈夫だ。俺がいる」
それだけで呼吸が整う。
グラスに注がれたシャンパンの泡が、緊張をすり抜けて舌先で弾けた。
「奥様のドレス、お星さまみたい」
「本当に。群青がお似合いですわ」
女性たちの声が混ざる。
そこにひそやかな別の声も紛れる——見えないところで噂は手を結び、姿を変える。
「写真、見た?」「ええ、昨夜の……」「でも、彼女は今夜も奥様の隣にいるわね」
「“今夜は入れない”って噂よ」「まあ、怖い」
怖いのは、噂そのものではない。
噂が「わたし」を他人の言葉で形作っていく、その過程だ。
私は笑顔を保ち、琥珀の光の層に紛れながら、指先の温度で現実を確かめる。
——柊真の手は、ここにある。
ふいに、彼のポケットの中でスマートフォンが短く震えた。
彼は人波の陰へ歩を寄せ、短い言葉で指示を飛ばす。
「……俺だ。正面は抑えろ。裏導線に人を増やせ。“彼女”は通すな。——いい、徹底しろ」
通話が切れる。
私は、息を呑んだまま笑っていた。
“彼女”。その二文字が、報道の見出しと重なって胸の内側を擦る。
尋ねない。尋ねられない。
私は“妻”の顔を守る。契約の顔。——それでも、心は勝手に揺れる。
「大丈夫か」
戻ってきた彼が、誰にも見えない角度で私の指を一度だけ握った。
頷いた瞬間、弦の音が一段階上がる。司会者の声が響き、ダンスフロアへ人が流れた。
「踊れるか」
「習ったことは、あります。忘れていなければ」
「忘れていても俺が導く」
彼は私の手を取って、中央へ。
群青の裾が光の海にほどけ、彼の黒が夜の輪郭を引く。
手と手、肩と腰。擬音では言い表せないほど正確な距離で、音楽に溶ける。
「一、二、三——」
囁きに合わせて足を運ぶ。
つま先が、彼の靴の先にほんの少し触れた。
「ごめんなさい」
「謝るな。——俺の足は丈夫だ」
口調は冷たいのに、声の温度はやさしい。
視線が合う。
彼の黒い瞳に、私の群青が小さく映って揺れた。
目を逸らせない。逸らせたくない。
世界が音と光だけになって、噂の文字が遠のいていく。
曲が終わると、拍手が波のように寄せては返した。
彼と私の間に残る空気だけが直線的で、触れれば音が鳴りそうだった。
「——よくやった」
それは小さな合図。
私は八点の笑顔で応える。
そのとき、ボールルームの奥側——バルコニーへ続くアーチで、小さなざわめきが起きた。
「入場者の確認をお願いします」「失礼ですが、パスが——」
スタッフの声。
私がそちらへ視線を向けたのと、柊真が同じ方向へ目を向けたのは、ほぼ同時だった。
人影。金茶の髪。ローズのコート。
城之内アリア——記事の女。
彼女は笑っていた。ガラスに映る笑みは、薄い刃みたいに鋭い。
「ここで待て」
彼が、低く短く言った。
“離れるな”と言い続けた彼が、初めて私に距離を命じる。
喉の奥で言葉が絡まり、私は小さくうなずくしかない。
彼が人波を割って進む。
黒の背中が、光の海へ呑まれていく。
私はバルコニー寄りの柱陰に身を寄せ、息を整えた。
近くのテーブルで、二人の女性がメッセージを見比べている。
「ほら、さっきの速報、更新された」「“会場で再会。意味深な視線”だって」
「写真、粗いわね」「粗いから想像できるのよ。便利でしょ?」
便利。
噂にとっても、想像にとっても、粗さはいつも味方だ。
私は胸の中心を押さえる。
冷たい何かが、そこへ固く結び目を作っていく。
「——あなた、相変わらずひどいわ」
アリアの声が、ガラス越しに滑ってくる。
距離があるから、言葉は完全ではない。それでも、意味は十分に届く。
「わたしを拒むなんて。昔はあんなに優しかったのに」
「優しさの中身を、誤解するな」
柊真の声は低く、淡々としていた。
「出ていけ、アリア。ここは君の舞台ではない」
「誰の舞台かしら。——新しい奥様? ねえ、あの子、本当にあなたの隣に“似合う”?」
「似合う」
一拍の間。
彼の言葉は、刃物ではなく印章のように正確で、乾いた空気に刻まれた。
私は思わず目を閉じる。
胸の結び目が、少しだけ緩む。
「冷たい人。……その冷たさが好きだけど」
「警備を呼ぶ」
「冗談よ。帰るわ。——でも、彼女に伝えて。噂は、あなたたちを試す。あの子が泣くのは、今夜か、明日か」
ヒールの音が遠ざかる。
私は柱にもたれて深く息を吐き、頬の筋肉を解いた。
戻ってくる足音がする。
彼の黒が近づき、私の前で止まる。
「待たせた」
「……はい」
「寒いか」
「少し」
ジャケットが肩にかけられる。
重みと温度が同時に落ちてきて、私は無意識に裾を握った。
彼は誰にも見えない角度で、私の頬に視線を沿わせる。
「大丈夫だ」
「……噂、は」
「くだらない」
「くだらないものに、わたしは簡単に刺さるんです。扱いが下手だから」
「なら、俺が持て」
言ってから、彼は一瞬だけ視線を逸らし——ふっと息を漏らした。
「言い方を間違えた。……重いものは、俺に預けろ」
預ける。
その単語が、胸の中で信号のように点滅する。
私は小さく笑ってみせた。
「八点、いけそうです」
「十分を取れ」
「欲張り」
「知っている」
ふと、廊下の奥でフラッシュが走った。
振り返ると、スタッフに押し戻される影が一瞬だけ見えた。
シャッター音の残像が耳に刺さる。——どれだけ抑えても、零れるものは零れる。
「戻るぞ」
「はい」
彼の手に指を重ね、ボールルームへ戻る。
音楽が再び私たちの足を受け止め、光が形のいい影を床に落とした。
私はグラスを取り、笑い、言葉を交わす。
八点の笑顔は、きっと今ならできる。
けれど、胸のどこかで“九点目”が、まだ遠い。
休憩の小さなラウンジで、私はソファの縁に腰かけた。
鏡台の前を、淡い色のドレスの女性たちが行き交う。粉雪のようなパウダーの匂い。
隣に座った年配の婦人が、穏やかに微笑んだ。
「若い方は、お辛いでしょうね。噂は、甘いものほどよく吸うの」
「……甘いもの?」
「幸せのにおいのことよ」
彼女はグローブの裾を整えながら言った。
「だから、あまり気に病まないこと。噂は、噛み締めたら苦いけれど、飲み込まなければただの泡」
泡。
さっきのシャンパンの泡を思い出す。
弾けて消えるもの。——それでも、舌に確かに触れた。
「ありがとうございます」
会釈して立ち上がると、扉の向こうに彼の背が見えた。
彼は電話を耳に当て、短く頷いている。
「……ああ。写真は抑えた。ソースは切る。——彼女にこれ以上触れるな」
最後の一文だけ、はっきりと聞こえた。
私に向けられた矢印は、守るためなのか、囲うためなのか。
答えを求める前に、彼がこちらへ歩いてきた。
「行こう」
「はい」
彼の腕に手を回す。
その自然さが、怖いほど心地いい。
ボールルームへ戻る途中、ふと視界の端で光がまた瞬き——
スマートフォンが震えた。
“速報:バルコニーで見つめ合う二人——本命は誰?”
不鮮明な写真。ガラス越しの影。
距離も角度も間違っているのに、文字は滑らかに私の中へ落ちてくる。
「彩音」
彼が私の名前を呼ぶ。
私は画面を消し、顔を上げた。
「大丈夫です。……八点、いけます」
「十を取れと言った」
「次の曲で、挑戦します」
彼は短く目を細め、わずかに口角を上げる。
それが合図。
私は光の海に一歩踏み出し、彼の手を強く握った。
離れない。離れたくない。——契約の鎖が、いつの間にか私の意思に変わっている。
フロアで再び踊り出すと、音楽は少し速く、少し高くなった。
私は彼の胸の鼓動を、布越しに数える。
ひとつ。ふたつ。
噂の文字は、音の層の下へ沈んでいく。
泡のように弾け、そして消える。
——消えるまで、笑えばいい。
笑って、手を握って、前を見て。
曲が終わると、彼は私の耳にごく短い言葉を落とした。
「綺麗だ」
単純で、逃げ場のない褒め言葉。
私は息を飲み、目を閉じた。
八点と九点の境目が、今、足元でほどける。
目を開けると、彼はもう視線を逸らしていた。
——不器用。
礼子さんの言葉が、甘く苦く反芻される。
夜が更けるころ、会場の空気はほのかに熱を帯び、花の香りが濃くなった。
名残の挨拶をいくつか済ませ、私たちは出口へ向かう。
扉が開いたとき、冷たい空気が頬を撫でた。
薄い吐息が白くほどける。
「お疲れさま」
「ありがとうございました。……あなたも」
車に乗り込む直前、彼が不意に私の手を取って、甲に指先を沿わせた。
触れない距離。昨夜と同じ、影のキス。
それでも皮膚はそれを記憶して、ゆっくり熱を帯びる。
「礼は——」
「言わせてください」
今度は、私が遮った。
「今夜は、礼を言いたくなる夜でした」
闇の中で、彼の横顔がかすかに揺れる。
車の扉が閉まる音がして、外の世界が切り離された。
走り出す。街灯が窓を流れ、群青が夜を滑る。
膝の上の雪の結晶チャームが、小さく、確かに鳴った。
——噂は泡。
そう信じて眠りたい夜だ。
けれど、泡が弾ける音は、時に遠雷みたいに大きい。
明日の空が晴れるかどうか、まだ誰にもわからない。
それでも私は、十を目指す笑顔を練習する。
彼の隣で。
離れずに。

