翌朝の光は、雪を溶かす前の牛乳みたいに淡かった。

 カーテンの裾から滲む白さに目を細めると、昨夜の熱いカモミールの香りがふっと蘇る。

 ベッドの脇のチェストには、雪の結晶チャームが置かれていた。

 手のひらにのせると、金の輪が小さく揺れる。

「——離れるな」

 低い声が耳の奥に残っている。支えられた腕の感覚まで、まだ熱い。

 私は小さく首を振って、顔を洗い、髪を整えた。

 艶のある黒髪を緩く結い上げ、薄く化粧をしてから、ワードローブを開く。

 並んだドレスの胸元には小さなカード——「午前:社内広報撮影。午後:スポンサー打合せ。夜:休息」と神城の字で書かれている。

 社内広報の撮影。つまり、仮面を磨く場だ。

 テラスへ出ると、冷たい空気とともにコーヒーの香りが押し寄せた。

 灰色のタートルニットに黒のパンツ——昨日より柔らかな柊真が、カップを片手に振り返る。

 朝の光が銀の髪を淡く縁取って、彫像の輪郭が人の温度を帯びている。

「おはよう」

「おはようございます」

「座れ」

 無駄のない仕草で椅子を引かれ、私は礼を言いながら腰を下ろした。

 白い磁器に注がれるコーヒーの黒は湖面のように静かだ。

 スプーンでひと撫ですると、表面の光がゆっくり揺れた。

「砂糖は、昨日と同じで?」

「小さじ一でお願いします」

 彼はためらいなく一杯、落とす。

 その当たり前の所作が、昨日より胸を騒がせる。

 人は慣れるほど、細部に目が届くようになるのだと知る。

「今日の撮影、目的は二つだ」

「二つ?」

「社内報の表紙用と、財団の年次パンフレットのカット。……広報が“新婚の笑顔”を欲しがっている」

 “新婚”という言葉に、自分の頬が熱を帯びるのがわかった。

「笑え」

 そのタイミングで、彼は平然と言う。

「練習どおりに」

「ここで、いきなりですか」

「どこでもできなければ、どこでもできない」

 むっとしながらも、私は唇の端を上げる。

 彼は私の顔を一瞥し、喉の奥で微かな笑いを立てた。

「昨日より——いい」

「……十点満点中、何点ですか」

「六」

「厳しい」

「伸び代がある」

 くだらないやり取りが、胸の奥の氷を一枚分薄くする。

 朝食を終えると、神城が現れ、エレベーターまでの最短動線を無言で整えた。

 磨かれた鏡に映る私たちは、絵合わせのように距離を保って歩く。

 社内スタジオは白い壁とグレーの背景紙、柔らかなボックスライト。

 すでにスタッフが数名待機していて、軽く頭を下げると、ざわめきが一段階落ちた。

 若い女性スタッフが私を見る目に、好奇心と測定の色が交じる。

 私は笑ってみせる。六点の笑顔。

「本日はよろしくお願いいたします」

 カメラマンが軽やかに挨拶し、セッティングの最終確認に走る。

 メイク担当が近づき、「お肌、きれい」と無造作に褒めた。

 私はたどたどしく礼を言い、鏡に向かう。

 翡翠色の瞳が、ライトの白さでいっそう明るい。

「最初は単独のバストアップ、次にお二人で」

「はい」

 スタッフの動線を追いながら、呼吸を整える。

 単独の撮影は、驚くほど早く終わった。

 笑い方は、練習したとおり、上の歯だけ少し見せて——顎を上げすぎない。

 カメラマンが「いいね」を重ねるたび、背後の視線を感じる。

 柊真が、黙って立っている。腕を組み、わずかに目を細めている。

 監督のような目つきなのに、不思議と緊張はしない。

 監督されることが、今は救いだった。

「ではお二人で。——少し距離を詰めて、そう、肩に手を添えてみましょう」

 指示に従い、一歩近づく。

 彼の手が私の肩へ置かれた。

 シャツの布越しに伝わる体温は、予想より穏やかだ。

 私は視線を彼の顎のラインへ落とし、それからカメラのほうへ戻す。

 フラッシュ。

「いい。もう一枚——奥様、少しだけ目尻を柔らかく」

「こう、ですか?」

「完璧」

 完璧。

 その言葉を、彼はどう聞いたのだろう。

 ふと横を見ると、彼は視線だけで私に合図した。——よくやった。

 胸が、ふわりと膨らむ。

 再びフラッシュ。

 ひとしきりシャッター音が続いたのち、カメラマンが笑顔で親指を立てた。

「素晴らしい。社内報の表紙、決まりです」

 スタッフの安堵が伝播すると、緊張の膜が少し破れて、笑い声が飛び交った。

 撮影の合間、広報の女性が小走りに寄ってくる。

 華やかなメイク、鮮やかなスカーフ。

「奥様、来月の外部誌の特集、もし差し支えなければ——」

「差し支える」

 即答したのは柊真だ。

 女性は一瞬たじろぎ、それでも笑顔を崩さない。

「検討だけでも——」

「検討は神城がする」

「……かしこまりました」

 そのやり取りを見ながら、私は奇妙な気持ちになっていた。

 守られていると感じると同時に、壁の内側に押し込められている気もする。

 “離れるな”の条件は、守られるための鎖であり、私自身が自分を繋ぎ止める糸でもある。

 糸の結び目は、どこにあるのだろう。私の手のひら?

 それとも——彼の指先?

 午後の打合せは、落ち着いたカフェラウンジで行われた。

 白木のテーブル、柔らかな革張りの椅子。

 コートを預けると、スタッフが笑顔でメニューを差し出す。

 スープと小さな前菜が運ばれて来た頃、入口近くで目立つ動きがあった。

 淡いローズのコートを纏った女性が、こちらを見て微笑み、真っ直ぐ歩いて来る。

 社交誌の常連、城之内アリア。細い首筋、ハイポニーの金茶の髪。

 昨日の記事で見た“彼には婚約者がいる”という噂の、最初の震源の一人だ。

「まあ、柊様。偶然ね」

 甘い声。

「彩音さんもご一緒? 噂どおり、とても可愛らしい奥様ね」

「偶然を装うなら、もっと上手にやれ」

 柊真の声は氷の刃。

 アリアは気にした風もなく微笑む。

「誤解しないで。わたし、本当にあなたの幸せを願っているのよ」

 その言葉に、わたしの胃の奥が少しだけ冷える。

「たとえば——昔みたいに、あなたが笑える相手とね」

「用件はそれだけか」

「ええ。あ、ひとつだけ。今夜のパーティで、また会えるといいわ」

 ウィンクを残し、彼女は踵を返した。

 香りが消えるまでの間に、私は息という息を数え直した。

「……知り合い、ですか」

 やっとの思いで問うと、彼は短くうなずく。

「昔、取引先の令嬢だ」

「彼女、今夜のパーティで、と」

「出席者リストに名前はなかった。——差し替えだな」

 差し替え。つまり、誰かが彼女を入れた。

 誰が、何のために。

 問いが喉まで来て、呑み込む。契約の私に、詮索の資格はない。

 スプーンを置いた彼が、テーブルの下で私の指先に視線を落とした。

「冷えている」

「そんなに青いですか」

「指の色は誤魔化せない」

 そう言って、彼は自分のマグを私の手に押し当てた。

 熱が掌に移る。驚くほど速く、痛いほど優しく。

「……ありがとうございます」

「礼は要らない」

 まただ。三たび、四たび、重なる言葉。

 返さなくていい、と彼は言う。

 でも私は返したい。返す術を、ずっと探している。

 打合せが終わるころには夕暮れで、窓の外に淡い桃色が残っていた。

 ホテルへ戻る車中、彼はスマートフォンを耳に当てる。

「……俺だ。会場の警備動線を見直せ。——“彼女”は入れるな」

 車内に沈む沈黙。

 “彼女”。誰のことか、尋ねない。尋ねられない。

 ただ、胸の奥で小さな針が一つ刺さった。

 スイートに戻ると、ベッドの上に薄い箱が置かれていた。

 開けると、深い群青のドレス。

 夜空に落とすような色と、極小のビジューが星のように縫い込まれている。

 付箋に短い字。——「夜、着ろ。柊」

「……似合うかな」

 独り言が空に溶ける。

 ドレスを胸元に当てて鏡の前に立つと、部屋の扉がノックもなく開いた。

 振り返ると、彼が立っていた。

 黒のシャツに同色のタイ、結ばず垂らしている。無造作なのに、完璧。

「サイズは合うはずだ」

「選んでくださったのは、神城ですか」

「俺だ。——星が、君に似合うと思った」

 言葉が、素肌に触れる。

 私はうまく笑えず、けれど笑った。六点よりは少しだけ高い笑顔で。

「着替えてみろ。ファスナーは——」

「自分でできます」

「無理だ」

 即答。

 私は観念して背を向けた。

 髪を片側へ流すと、指先がそっと後ろ髪を払う。

 ファスナーがするりと下がる音に、喉が乾いた。

 肩に夜の空気が触れる。薄い鳥肌が立つのを、彼は見ただろうか。

「冷えるか」

「だいじょうぶ、です」

 着替えを終え、彼のほうへ向き直る。

 彼の目が、わずかに見開かれ、それから細くなる。

「——いい」

 その一言で、群青が私のものになった気がした。

 彼が近づく。

 ネックレスを取り、私の首筋の後ろで留め金を合わせる。

 金具がかちりと鳴るまで、息を止める。

「似合ってる」

「ありがとうございます」

「礼は——」

「言わせてください」

 遮ると、彼は目を瞬いた。

「これは、礼を言いたくなるプレゼントです」

 彼の喉が小さく動いた。

 何か言いかけたとき、テーブルの上のスマートフォンが震えた。

 私のほう。画面にポップアップ。

 「速報:柊グループ後継者、密会写真——相手は城之内アリア?」

 胸が冷たい手に掴まれる。

 指先の血が引くのがわかるほど、冷えた。

「彩音?」

 彼の声が遠い。

 私は言葉を探し、見つけられず、画面を彼に差し出す。

 記事のサムネイルは昨夜のラウンジの照明、斜めの影。

 拡大すれば違うとわかる距離の写真。

 でも、見出しは真実より速く走る。

「——くだらない」

 彼は一瞥で切り捨てた。

「削除させる。心配するな」

「……はい」

「俺は行かない。“彼女”も、入れない」

 その“彼女”に、記事の女が重なる。

 彼は続ける。

「忘れるな。君は俺の隣に立つ。離れるな」

 頷いた瞬間、自分の“頷き”の重さに気づいた。

 それは従順の合図であり、勇気の合図でもある。

 記事の言葉が冷たい波のように胸の中を往復しても、私は群青の裾を握り、深く息を吸った。

「行きましょう。——わたし、笑えます」

 彼の目が、ほんのわずか柔らいだ。

「十点中、いくつだ」

「七点を、目指します」

「八を取れ」

 視線が触れる。

 彼は手を差し出した。私はその手を取る。

 雪の結晶チャームが、指先で小さく鳴った。

 扉が開く。

 夜の廊下は静かで、遠くのエレベーターの灯りだけが星のように瞬いた。

 私は彼の隣を歩く。

 仮面を磨いた笑顔は、もう仮面だけではなかった。

 誰かに見せるため、だけではない——彼に見てほしい、という気持ちが、そこに混ざっていた。

 そして知る。

 仮面は重ねれば重ねるほど、素肌に近い形になることを。

 七日の契約の三日目、私は初めて自分から彼の手を握った。

 冷たい記事の文字はまだ胸に刺さっているけれど、指の温度はそれより確かだ。

 エレベーターの扉が開く。

 鏡の向こう、群青の女と黒の男が立っている。

 私は六点の笑顔ではなく、八点の笑顔を練習する。

 ——今夜、噂は新しい形を取り、私たちを試す。

 それでも、離れない。

 彼の隣で、星のように笑う。