慈善財団のレセプションは、白薔薇のアーチが迎える明るい会場だった。
シャンデリアに反射する光が、昼の空に星座を描く。
私は約束どおり笑い、彼は約束どおり隣から離れなかった。
「柊様、奥様、とてもお似合いですわ」
「ありがとう」彼は礼儀正しく受け、視線だけで私へ合図する。
——大丈夫だ、という合図。
私は小さくうなずく。
数人の老婦人と挨拶を交わし、財団の活動について短く言葉を添えた。
父の会社で広報をかじっていてよかった、と初めて思う。
それでも時折、私の耳の裏を冷たい汗がつたった。
「少し休むか」
彼は人の流れを読み、会場の端へ導いた。背中へ添えられた手が、さりげなく庇う。
「平気です」
「顔が白い」
「もともと色が白いんです」
「——知っている」
不意に、喉の奥に熱がこみ上げた。
知らないはずの人に、知っていると言われる不思議。
私のことを何で知っているの、と問えば、きっと彼は「神城の調査だ」と言う。
それでもいい。今は、その言葉だけが欲しい。
会食は、重厚な個室で行われた。
落ち着いた木目、翡翠の皿縁、静かなサービス。
取締役たちに向けて、彼は端的に話す。私は笑顔と相槌で支える。
役目を果たすたび、彼の視線が短く私を撫でた。——よくやった、と言うみたいに。
夕刻、母上のサロンを訪ねた。
淡いラベンダー色のワンピースの、品の良い女性。
柊真の母——柊礼子。目元の優しさは、彼のものとは別の柔らかさで、けれどよく似ていた。
「ようこそ。彩音さん。あなたのことは、前から聞いているわ」
私は姿勢を正した。「初めまして。彩音と申します。短い間ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
「短い?」
礼子は意味ありげに笑った。「女の直感では、短くならない気がするけれど」
「母さん」
柊真が咎めるように名を呼ぶ。礼子は肩を竦め、ティーカップを私へ差し出した。
「息子は不器用です。冷たく見えるときほど、内側で忙しく騒いでいますから、驚かないでね」
——不器用。
言葉が胸の中で小さく反響する。
帰り際、礼子は私の手を軽く握った。
「いい手。温かい。……大切になさって」
車に戻るまで、私は何も言えなかった。
座席に身を沈めてから、やっと小さく息を吐く。
「母の言葉は、気にするな」
彼は窓の外を見たまま言った。「余計なことを言う」
「いいえ」
私は首を振る。「救われました。……わたしも不器用なので」
彼の横顔に、かすかな笑いが走った。
「自覚があるなら、改善の余地がある」
「努力してみます」
「なら——褒美をやろう」
彼はそう言って、私の手の甲に視線を落とした。
そして、触れもしない距離で、口元だけを近づける。
——キスの形をした、影。
何も触れていないのに、触れられたみたいに手の甲が熱くなる。
息が詰まって、瞳を閉じた。
「……今のは、練習のご褒美か、契約の特典か、どちらですか」
「どちらでもない」
即答。
「俺の気分だ」
「ずるい」
「知っている」
夜、ホテルに戻ると、私は先にエレベーターを降りた。
靴の踵がラグに沈み、わずかにつまずく。——瞬間、背から腕が回った。
落ちる前に、彼が支える。
「離れるなと言った」
耳の後ろに低い声。「怪我をされると、俺が困る」
「……ごめんなさい」
身体を離すと、腕の場所に冷たい空気が入ってきた。
彼は何事もなかったように前を歩き、スイートの扉を開ける。
「シャワーを浴びろ。温かいものを用意する」
「自分でできます」
「俺がやる」
反論の隙もない。
やがて湯気の向こうから湯気のマグが渡される。
「蜂蜜を入れた。飲め」
「……ありがとうございます」
「礼は要らない。——契約だ」
同じ言葉を三度目に聞く夜、私は初めて、そこに隠れた意味を読み取った気がした。
“礼は要らない”。つまり、返さなくていい。見返りを求めていない。
それでも、何か返したいと思う。契約の枠の中で許される、ささやかな何かを。
「明日もがんばります」
マグを両手で包みながら言うと、彼はソファの背へ片腕をかけ、少しだけ目を細めた。
「——そうしろ。俺の隣で」
その“俺の隣で”が、どうしようもなく甘い。
私はうなずき、ゲストルームの扉へ向かった。
寝る前に振り返ると、彼はまだソファにいた。薄くひじをつき、私のいる方を見ている。
目が合うと、彼は何も言わず、ゆっくりと瞬きをした。
それが「おやすみ」の合図だと、なぜだかすぐにわかった。
灯りを落とす。
暗闇に、心臓の音が静かに響いた。
——一週間だけ。
そう言い聞かせながらも、胸の奥では小さな期待が芽吹いてしまっている。
明日また、彼の隣で笑えるように。
眠りは、今夜は少しだけやさしかった。
遠くで街の灯が瞬き、冬の空は深い息を吐く。
私は知らない。明日の舞踏会で、初めての嫉妬がふたりを試すことを。
まだ知らない。
シャンデリアに反射する光が、昼の空に星座を描く。
私は約束どおり笑い、彼は約束どおり隣から離れなかった。
「柊様、奥様、とてもお似合いですわ」
「ありがとう」彼は礼儀正しく受け、視線だけで私へ合図する。
——大丈夫だ、という合図。
私は小さくうなずく。
数人の老婦人と挨拶を交わし、財団の活動について短く言葉を添えた。
父の会社で広報をかじっていてよかった、と初めて思う。
それでも時折、私の耳の裏を冷たい汗がつたった。
「少し休むか」
彼は人の流れを読み、会場の端へ導いた。背中へ添えられた手が、さりげなく庇う。
「平気です」
「顔が白い」
「もともと色が白いんです」
「——知っている」
不意に、喉の奥に熱がこみ上げた。
知らないはずの人に、知っていると言われる不思議。
私のことを何で知っているの、と問えば、きっと彼は「神城の調査だ」と言う。
それでもいい。今は、その言葉だけが欲しい。
会食は、重厚な個室で行われた。
落ち着いた木目、翡翠の皿縁、静かなサービス。
取締役たちに向けて、彼は端的に話す。私は笑顔と相槌で支える。
役目を果たすたび、彼の視線が短く私を撫でた。——よくやった、と言うみたいに。
夕刻、母上のサロンを訪ねた。
淡いラベンダー色のワンピースの、品の良い女性。
柊真の母——柊礼子。目元の優しさは、彼のものとは別の柔らかさで、けれどよく似ていた。
「ようこそ。彩音さん。あなたのことは、前から聞いているわ」
私は姿勢を正した。「初めまして。彩音と申します。短い間ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
「短い?」
礼子は意味ありげに笑った。「女の直感では、短くならない気がするけれど」
「母さん」
柊真が咎めるように名を呼ぶ。礼子は肩を竦め、ティーカップを私へ差し出した。
「息子は不器用です。冷たく見えるときほど、内側で忙しく騒いでいますから、驚かないでね」
——不器用。
言葉が胸の中で小さく反響する。
帰り際、礼子は私の手を軽く握った。
「いい手。温かい。……大切になさって」
車に戻るまで、私は何も言えなかった。
座席に身を沈めてから、やっと小さく息を吐く。
「母の言葉は、気にするな」
彼は窓の外を見たまま言った。「余計なことを言う」
「いいえ」
私は首を振る。「救われました。……わたしも不器用なので」
彼の横顔に、かすかな笑いが走った。
「自覚があるなら、改善の余地がある」
「努力してみます」
「なら——褒美をやろう」
彼はそう言って、私の手の甲に視線を落とした。
そして、触れもしない距離で、口元だけを近づける。
——キスの形をした、影。
何も触れていないのに、触れられたみたいに手の甲が熱くなる。
息が詰まって、瞳を閉じた。
「……今のは、練習のご褒美か、契約の特典か、どちらですか」
「どちらでもない」
即答。
「俺の気分だ」
「ずるい」
「知っている」
夜、ホテルに戻ると、私は先にエレベーターを降りた。
靴の踵がラグに沈み、わずかにつまずく。——瞬間、背から腕が回った。
落ちる前に、彼が支える。
「離れるなと言った」
耳の後ろに低い声。「怪我をされると、俺が困る」
「……ごめんなさい」
身体を離すと、腕の場所に冷たい空気が入ってきた。
彼は何事もなかったように前を歩き、スイートの扉を開ける。
「シャワーを浴びろ。温かいものを用意する」
「自分でできます」
「俺がやる」
反論の隙もない。
やがて湯気の向こうから湯気のマグが渡される。
「蜂蜜を入れた。飲め」
「……ありがとうございます」
「礼は要らない。——契約だ」
同じ言葉を三度目に聞く夜、私は初めて、そこに隠れた意味を読み取った気がした。
“礼は要らない”。つまり、返さなくていい。見返りを求めていない。
それでも、何か返したいと思う。契約の枠の中で許される、ささやかな何かを。
「明日もがんばります」
マグを両手で包みながら言うと、彼はソファの背へ片腕をかけ、少しだけ目を細めた。
「——そうしろ。俺の隣で」
その“俺の隣で”が、どうしようもなく甘い。
私はうなずき、ゲストルームの扉へ向かった。
寝る前に振り返ると、彼はまだソファにいた。薄くひじをつき、私のいる方を見ている。
目が合うと、彼は何も言わず、ゆっくりと瞬きをした。
それが「おやすみ」の合図だと、なぜだかすぐにわかった。
灯りを落とす。
暗闇に、心臓の音が静かに響いた。
——一週間だけ。
そう言い聞かせながらも、胸の奥では小さな期待が芽吹いてしまっている。
明日また、彼の隣で笑えるように。
眠りは、今夜は少しだけやさしかった。
遠くで街の灯が瞬き、冬の空は深い息を吐く。
私は知らない。明日の舞踏会で、初めての嫉妬がふたりを試すことを。
まだ知らない。

