春の宵。
窓の外では桜と若葉が入り混じり、街の灯りが淡い水面のように瞬いていた。
玄関の星のフックには、ふたつの鍵が並んでいる。歯の形は違っても、同じ扉を開けるために削られたもの。
「彩音」
名前を呼ぶ声に振り向くと、彼が黒いノートを手にしていた。
表紙の端には、幾度ものめくりで柔らかくなった跡。そこには外の言葉ではなく、家の条文が積み重なっている。
「最後に書こう。……いや、“はじまり”の一文だ」
ペン先が白紙を滑る。
『十五、家の時間は、契約ではなく約束で進む。
笑い声は数えず、罰は甘く、額から。
鍵は返却義務を負わず、星と雪と息で守られる。』
彼は書き終えるとペンを置き、私の額に軽い罰をひとつ。
音はしないのに、胸の奥で小さな鈴が鳴った気がした。
台所の片隅には、礼子さんから託された白磁の塩壺。
“台所で学びなさい”という言葉は、今も静かに息をしている。
私はその隣に小さな花を挿した。庭から摘んだ名もない花。色は薄いのに、家の空気をほんの少し明るくする。
「……これで、ほんとうに一週間が終わったんですね」
「外の言葉では、そうだ」
「内の言葉では?」
彼が微笑む。黒い瞳に映るのは、外よりも深く確かな光。
「内の言葉では、これから始まる」
その言葉に、胸があたたかくなる。
夜の食卓には、二本の卵焼き。
ひとつは甘く、ひとつは出汁の香り。切り口を交互に並べ、三つ葉を添える。
彼は箸を取り、静かに告げた。
「採点は——同点だ」
「不戦勝を狙ったのに」
「勝ち負けはない。“息”の家に、勝負はいらない」
そう言って、彼は私の手を握った。大きな手の温もりが指先に広がり、呼吸が静かにそろっていく。
窓の外、夜空に小さな星がまたたく。
もう鍵の雨は降っていない。
空白の額の中には、青の奥に浮かぶ淡い光が見えた。
「彩音」
「はい」
「息は、とぎれていないな」
「ええ。これからもずっと」
彼の肩に頭を預け、静かに目を閉じる。
——一週間だけの妻。
その名は、外の契約のために用意されたもの。
けれど今は違う。
ここにあるのは、期限のない約束と、息を分け合うふたりの家。
これからも毎朝、「いただきます」から始まる日々が続いていく。
鍵は二人の手の中にあり、返す場所など、もうどこにもない。
窓の外では桜と若葉が入り混じり、街の灯りが淡い水面のように瞬いていた。
玄関の星のフックには、ふたつの鍵が並んでいる。歯の形は違っても、同じ扉を開けるために削られたもの。
「彩音」
名前を呼ぶ声に振り向くと、彼が黒いノートを手にしていた。
表紙の端には、幾度ものめくりで柔らかくなった跡。そこには外の言葉ではなく、家の条文が積み重なっている。
「最後に書こう。……いや、“はじまり”の一文だ」
ペン先が白紙を滑る。
『十五、家の時間は、契約ではなく約束で進む。
笑い声は数えず、罰は甘く、額から。
鍵は返却義務を負わず、星と雪と息で守られる。』
彼は書き終えるとペンを置き、私の額に軽い罰をひとつ。
音はしないのに、胸の奥で小さな鈴が鳴った気がした。
台所の片隅には、礼子さんから託された白磁の塩壺。
“台所で学びなさい”という言葉は、今も静かに息をしている。
私はその隣に小さな花を挿した。庭から摘んだ名もない花。色は薄いのに、家の空気をほんの少し明るくする。
「……これで、ほんとうに一週間が終わったんですね」
「外の言葉では、そうだ」
「内の言葉では?」
彼が微笑む。黒い瞳に映るのは、外よりも深く確かな光。
「内の言葉では、これから始まる」
その言葉に、胸があたたかくなる。
夜の食卓には、二本の卵焼き。
ひとつは甘く、ひとつは出汁の香り。切り口を交互に並べ、三つ葉を添える。
彼は箸を取り、静かに告げた。
「採点は——同点だ」
「不戦勝を狙ったのに」
「勝ち負けはない。“息”の家に、勝負はいらない」
そう言って、彼は私の手を握った。大きな手の温もりが指先に広がり、呼吸が静かにそろっていく。
窓の外、夜空に小さな星がまたたく。
もう鍵の雨は降っていない。
空白の額の中には、青の奥に浮かぶ淡い光が見えた。
「彩音」
「はい」
「息は、とぎれていないな」
「ええ。これからもずっと」
彼の肩に頭を預け、静かに目を閉じる。
——一週間だけの妻。
その名は、外の契約のために用意されたもの。
けれど今は違う。
ここにあるのは、期限のない約束と、息を分け合うふたりの家。
これからも毎朝、「いただきます」から始まる日々が続いていく。
鍵は二人の手の中にあり、返す場所など、もうどこにもない。

