朝の白が、テーブルの木目にやわらかい帯を置いた。
昨夜、外の“終わり”を家の“はじまり”に連結した——条文、十。
戸棚には、もう「契約」という単語のついた書類はしまわれている。
台所の隅では、湯気が低い声で話し、銅の玉子焼き器が今日の重みを手に返してくる。
「彩音」
背中から呼ばれて振り向く。
彼は白シャツに薄い墨色のジャケット。銀糸の髪が朝の光を細かく砕いている。
視線はまず“合図の壁”へ——星と鍵と雪の並びを数えて、わずかに顎を引いた。
「息、できてるか」
「できます。今朝は三回じゃなく、五回しました」
「過剰は嫌いじゃない」
くすっと笑う。
彼の視線が私の左手の“雪の結晶の輪”へ落ち、親指でほんのひと撫で。胸の内側に静かな火が灯る。
「今日ははじまりのテーブルだ」
「同じ名前で、内容は違う」
「そう。“最初”より、暮らす寄りに」
「賛成です」
私は米を研ぎ、出汁を温め、卵を四つ割った。白出汁の鉢と、少し甘い鉢。
——彼は甘め、母(礼子)さんは出汁派。二本焼いて引き分けに持ち込むのが、この家の戦い方だと神城に教わった。
玄関の星のフックが軽く鳴った。
神城の正確な靴音。
「おはようございます。空は快晴、外部の風は微風。広報は静穏を継続中です」
「神城」
「はい」
「今日は外の予定は入れるな」
「承知しました。ただ、ひとつお届け物が」
彼は白い小包を差し出す。控えめな雪花の紋。
礼子さんの筆で、短く——《塩は台所で学びなさい》。
包みの中は、小ぶりの塩壺。
薄い白磁に、指先ほどの雪の刻印。
「……置かせていただきます」
「台所の北側、光が回り込む場所が良いでしょう」
神城がふっと目だけで笑う。
彼は私たちの“条文”も暗記している顔をしている。
「もうひとつ。会長より鍵のブランク。柄はふたつ同じ長さで、歯は未加工。“家で削れ”とのことです」
彼が息をひとつだけ短く吐き、頷く。
「受け取る。——家で削る」
神城は深く礼をして下がった。
玄関の星がもう一度鳴り、家は私たちふたりの呼吸だけに戻る。
「焼きます」
「見ている」
「邪魔は」
「しない。……多分」
「多分は不安です」
玉子焼き器を温め、油を薄く引いて布でならす。
甘い卵液を流し入れると、黄色い川面が音もなく広がり、端からすこしずつ固まっていく。
巻きすぎない。空気を抱く。角は立てない。
向こう側から彼の視線が、熱ではない熱でこちらの手元を温めてくる。
「——一本は俺にやらせろ」
「えっ」
「引き分けは、公平に」
彼が袖をまくる。黒いゴムバンドで手首のシャツを留め、菜箸を持つ指が少しだけぎこちない。
卵液を流す。火加減を下げる。巻こうとして、躊躇する。
「躊躇は卵を固くします」
「……知っている」
慎重すぎる一巻き目。二巻き目で、ふいに大胆になる。
返した瞬間、端が崩れた。
「失敗だ」
「美しい失敗です。——私が隣で修正します」
ふたりの菜箸が交差し、笑いが交じる。
笑い声は数えない。数えなくていい朝。
焼き上がった二本は、かたちの違う双子みたいに並ぶ。
甘い方はすこしふくらみ、出汁の方は澄んだ香り。
切り口を交互にして、三つ葉を差し込む。塩壺は、北側の光を受けて白くひかる。
「採点は」
「“おいしい”で同点」
「甘い」
「罰は額から」
「それは反則だ」
額に落ちた軽い音。
音はないのに、家のどこかで鈴が鳴る。
食卓に「はじまり」を置く。
味噌汁の湯気がやわらかく上昇し、茶碗の白が朝の光を掬う。
席につき、箸を取り、正面の彼と視線を合わせる。
「いただきます」
「いただこう」
白いご飯の一口目が、今日の開始の合図。
彼が眉をわずかに緩める。私も自然に緩む。
外では誰も知らないごく小さな儀式——でも、家の条文では最上段に置くべき一文だ。
「区役所に、行くか」
箸の先が止まる。
彼は真っ直ぐに、けれど急がせない目で私を見る。
「外の手続きは、家の言葉に追随させる。急かない」
「……はい」
「今日ではなくてもいい。——今日でもいい」
左手の輪が、指の上でひんやりと、心地よく冷たい。
私はうなずいた。家の名前を先に決め、外の名簿はそのあとで追いついてくる。それでいい。
「神社にも行きたい」
「名付けのために?」
「はい。家の名の書き換えのご挨拶に」
彼が笑う。「正式だ」
「塩も持っていきます」
「母が喜ぶ」
彼の言葉が、承認印みたいに音を残した。
食事のあと、彼は黒いノートを持ってソファに座る。
私は“合図の壁”の前に立つ。壁の「鍵の雨」の絵を、一歩だけ右へ寄せ、空いた左の余白に、小さな白紙の額を掛けた。
「空白?」
「はい。晴れ間です。鍵の雨が上がったときに、何が見えるか——その場所」
彼はノートを開き、ペン先を置く。
「——条文、十一」
『十一、雨が上がらない日も、上がる日も、息は続いている。
喧嘩の際は台所で行い、湯気で和らげる。塩壺は必ず卓上から下げる。』
「条文、十二」
『十二、“甘い罰”は額から始め、前髪と掌に拡張可能。ただし相手の笑い声が収まるまで。』
「条文、十三」
『十三、家の名は二人で呼ぶ。外の名はそのあとで揃える。鍵の歯は家で削り、長さは同じにする。』
書きながら、彼の口元が何度もわずかに緩む。
ノートへ落ちるインクの黒は、約束の骨みたいに見える。
「上出来だ」
「先生が良いので」
「——授業料は高い」
「卵で払います」
「受領済みだ」
笑いがまたひとつ。
数えない。数えなくていい。
昼過ぎ、出かける支度。
私は“雪”の白に薄いベージュのコート、髪は低く結い、礼子さんから借りた雪花文の帯留めを小さなブローチに仕立てて襟元へ。
彼はネイビーのジャケットに、星のラペルピンをひとつ。
「“鍵”は?」
「家で持ちます。外へは“星”で」
「いい判断だ」
玄関で靴を履く前、彼がそっと手を取る。
影のキスの距離。
「倒れるな」
「倒れません」
「離れるな」
「離れません」
「笑え」
八から十へ、家の中の笑い。
罰は、額から。
神社の境内は、梅の名残と桜の走りが混ざる中間の匂い。
手水舎で手を清め、塩壺を小さな布でくるんで賽銭箱の脇に置く。
ふたりで鈴を鳴らし、二礼二拍手一礼——家の名の書き換えを小さく宣言する。
社務所で、小さな木札を受け取った。名前は空欄。
私たちはベンチへ並び、家の名を考える。
外の姓はひとつ。けれど、ここに書くのは“家で呼ぶ呼び名”だ。
「“鍵”は多すぎる」
「“雪”は寒い日もある」
「“星”は外に見えすぎる」
私は笑い、彼も笑う。
空白の額の前で考えた言葉が、朝から胸のどこかで温まっていた。
「“息”はどうでしょう」
彼が一瞬、まばたきを忘れた顔をして、すぐに頷く。
「いい。——息の家」
細い筆で、ゆっくりと書く。
彼の手が私の手首を支え、線の震えをやさしく受け止める。
「息は、とぎれさせない」
「はい」
木札の裏に日付。
社務所の人が「良い名前ですね」と微笑み、麻の紐をつけて渡してくれる。
区役所に寄るか、と彼が言う。
私は頷きつつ、今でなくてもいいという 安心を胸の真ん中に置いた。
外の紙を満たすのは、今日でも明日でも。家の名はもうここにある。
帰り道、神城から短いメッセージ。
《礼子さまより。“塩壺は台所に。笑いは卓上に”》
彼はすぐに返す。《了解。笑い、過多》
数秒で返ってくる。《過多は褒め言葉》
ふたりで笑う。
梅と桜が風に混ざり、鍵の雨は降っていない。
空白の額の向こうに、薄い青が広がっている気がした。
家に戻ると、午後の光が低くなるころ。
私は塩壺を所定の場所に置き、朝の食器を丁寧に拭き、はじまりのテーブルの片づけを終える。
彼は書斎で少しだけ外の仕事に返事をし、すぐ戻ってくる。
「鍵を、削ろう」
「はい」
神城が置いていったブランクキーをふたつ。
小さなヤスリで歯を作る作業は、思いのほか黙々と、慎重で、楽しい。
彼は慎重すぎて大胆に、私は大胆すぎて慎重に——足りない部分が、ぴたりと補われる。
「歯が揃ったら、何が開くんでしょう」
「今、開いているもの」
「閉まる可能性は」
「ない」
黒い瞳が、冗談を許さない真剣さで言う。
それでも私は笑ってしまい、彼も抵抗せず笑った。
夕方、玄関の星に、二人の鍵を並べて掛ける。
長さは同じ。歯は違う。
それぞれの違いで、同じ扉が開く。
「彩音」
「はい」
「条文、十四」
「長い章ですね」
「必要だ」
彼は黒いノートを開き、静かに書く。
『十四、息の家は、外と争わない。静かに、確かに続く。
鍵は二人で削り、星は外で目印にし、雪は内で体温を保つ。
“最初のテーブル”は“はじまりのテーブル”へ名前を変え、毎朝、書き換え可能。』
私は隣に小さく追記する。
『追記:笑い声の数は、無制限。罰は甘く、額から。』
彼がペン先で、私の追記に小さな丸印をつける。
それはたぶん、この家の公印。
夜。
湯が音を立て、灯りがやわらかい。
彼がソファに座り、私はその肩へ頭を預ける。影のキスの距離はもう単語で測れない。
窓の外、鍵の雨の雲はなく、空白の額の向こうで小さな星が点りはじめる。
「息、できてるか」
「できます。あなたがいると」
「なら、条文は正しい」
「明日の“はじまり”は、何にしましょう」
「卵。——それから、塩を卓上に置かないこと」
「あ」
「母の伝言だ」
「はい。台所で学びます」
「俺も」
彼は私の額に罰を一つ、落とす。
続けて前髪にもう一つ、掌に軽く、条文、十二の範囲で。
「採点は」
「おいしいで満点」
「甘い」
「知っている」
笑い声が、家の天井に小さく跳ね返って、どこにもこぼれず溜まっていく。
数えない。数えなくていい。無制限。
こうして、はじまりのテーブルは、今日の終わりの中で静かに支度される。
契約は戸棚で眠り、約束で暮らす。
星は外で目印になり、鍵は内で歌い、雪は体温を守る。
——ようこそ、息の家へ。
明日の朝も、ここで「いただきます」。
昨夜、外の“終わり”を家の“はじまり”に連結した——条文、十。
戸棚には、もう「契約」という単語のついた書類はしまわれている。
台所の隅では、湯気が低い声で話し、銅の玉子焼き器が今日の重みを手に返してくる。
「彩音」
背中から呼ばれて振り向く。
彼は白シャツに薄い墨色のジャケット。銀糸の髪が朝の光を細かく砕いている。
視線はまず“合図の壁”へ——星と鍵と雪の並びを数えて、わずかに顎を引いた。
「息、できてるか」
「できます。今朝は三回じゃなく、五回しました」
「過剰は嫌いじゃない」
くすっと笑う。
彼の視線が私の左手の“雪の結晶の輪”へ落ち、親指でほんのひと撫で。胸の内側に静かな火が灯る。
「今日ははじまりのテーブルだ」
「同じ名前で、内容は違う」
「そう。“最初”より、暮らす寄りに」
「賛成です」
私は米を研ぎ、出汁を温め、卵を四つ割った。白出汁の鉢と、少し甘い鉢。
——彼は甘め、母(礼子)さんは出汁派。二本焼いて引き分けに持ち込むのが、この家の戦い方だと神城に教わった。
玄関の星のフックが軽く鳴った。
神城の正確な靴音。
「おはようございます。空は快晴、外部の風は微風。広報は静穏を継続中です」
「神城」
「はい」
「今日は外の予定は入れるな」
「承知しました。ただ、ひとつお届け物が」
彼は白い小包を差し出す。控えめな雪花の紋。
礼子さんの筆で、短く——《塩は台所で学びなさい》。
包みの中は、小ぶりの塩壺。
薄い白磁に、指先ほどの雪の刻印。
「……置かせていただきます」
「台所の北側、光が回り込む場所が良いでしょう」
神城がふっと目だけで笑う。
彼は私たちの“条文”も暗記している顔をしている。
「もうひとつ。会長より鍵のブランク。柄はふたつ同じ長さで、歯は未加工。“家で削れ”とのことです」
彼が息をひとつだけ短く吐き、頷く。
「受け取る。——家で削る」
神城は深く礼をして下がった。
玄関の星がもう一度鳴り、家は私たちふたりの呼吸だけに戻る。
「焼きます」
「見ている」
「邪魔は」
「しない。……多分」
「多分は不安です」
玉子焼き器を温め、油を薄く引いて布でならす。
甘い卵液を流し入れると、黄色い川面が音もなく広がり、端からすこしずつ固まっていく。
巻きすぎない。空気を抱く。角は立てない。
向こう側から彼の視線が、熱ではない熱でこちらの手元を温めてくる。
「——一本は俺にやらせろ」
「えっ」
「引き分けは、公平に」
彼が袖をまくる。黒いゴムバンドで手首のシャツを留め、菜箸を持つ指が少しだけぎこちない。
卵液を流す。火加減を下げる。巻こうとして、躊躇する。
「躊躇は卵を固くします」
「……知っている」
慎重すぎる一巻き目。二巻き目で、ふいに大胆になる。
返した瞬間、端が崩れた。
「失敗だ」
「美しい失敗です。——私が隣で修正します」
ふたりの菜箸が交差し、笑いが交じる。
笑い声は数えない。数えなくていい朝。
焼き上がった二本は、かたちの違う双子みたいに並ぶ。
甘い方はすこしふくらみ、出汁の方は澄んだ香り。
切り口を交互にして、三つ葉を差し込む。塩壺は、北側の光を受けて白くひかる。
「採点は」
「“おいしい”で同点」
「甘い」
「罰は額から」
「それは反則だ」
額に落ちた軽い音。
音はないのに、家のどこかで鈴が鳴る。
食卓に「はじまり」を置く。
味噌汁の湯気がやわらかく上昇し、茶碗の白が朝の光を掬う。
席につき、箸を取り、正面の彼と視線を合わせる。
「いただきます」
「いただこう」
白いご飯の一口目が、今日の開始の合図。
彼が眉をわずかに緩める。私も自然に緩む。
外では誰も知らないごく小さな儀式——でも、家の条文では最上段に置くべき一文だ。
「区役所に、行くか」
箸の先が止まる。
彼は真っ直ぐに、けれど急がせない目で私を見る。
「外の手続きは、家の言葉に追随させる。急かない」
「……はい」
「今日ではなくてもいい。——今日でもいい」
左手の輪が、指の上でひんやりと、心地よく冷たい。
私はうなずいた。家の名前を先に決め、外の名簿はそのあとで追いついてくる。それでいい。
「神社にも行きたい」
「名付けのために?」
「はい。家の名の書き換えのご挨拶に」
彼が笑う。「正式だ」
「塩も持っていきます」
「母が喜ぶ」
彼の言葉が、承認印みたいに音を残した。
食事のあと、彼は黒いノートを持ってソファに座る。
私は“合図の壁”の前に立つ。壁の「鍵の雨」の絵を、一歩だけ右へ寄せ、空いた左の余白に、小さな白紙の額を掛けた。
「空白?」
「はい。晴れ間です。鍵の雨が上がったときに、何が見えるか——その場所」
彼はノートを開き、ペン先を置く。
「——条文、十一」
『十一、雨が上がらない日も、上がる日も、息は続いている。
喧嘩の際は台所で行い、湯気で和らげる。塩壺は必ず卓上から下げる。』
「条文、十二」
『十二、“甘い罰”は額から始め、前髪と掌に拡張可能。ただし相手の笑い声が収まるまで。』
「条文、十三」
『十三、家の名は二人で呼ぶ。外の名はそのあとで揃える。鍵の歯は家で削り、長さは同じにする。』
書きながら、彼の口元が何度もわずかに緩む。
ノートへ落ちるインクの黒は、約束の骨みたいに見える。
「上出来だ」
「先生が良いので」
「——授業料は高い」
「卵で払います」
「受領済みだ」
笑いがまたひとつ。
数えない。数えなくていい。
昼過ぎ、出かける支度。
私は“雪”の白に薄いベージュのコート、髪は低く結い、礼子さんから借りた雪花文の帯留めを小さなブローチに仕立てて襟元へ。
彼はネイビーのジャケットに、星のラペルピンをひとつ。
「“鍵”は?」
「家で持ちます。外へは“星”で」
「いい判断だ」
玄関で靴を履く前、彼がそっと手を取る。
影のキスの距離。
「倒れるな」
「倒れません」
「離れるな」
「離れません」
「笑え」
八から十へ、家の中の笑い。
罰は、額から。
神社の境内は、梅の名残と桜の走りが混ざる中間の匂い。
手水舎で手を清め、塩壺を小さな布でくるんで賽銭箱の脇に置く。
ふたりで鈴を鳴らし、二礼二拍手一礼——家の名の書き換えを小さく宣言する。
社務所で、小さな木札を受け取った。名前は空欄。
私たちはベンチへ並び、家の名を考える。
外の姓はひとつ。けれど、ここに書くのは“家で呼ぶ呼び名”だ。
「“鍵”は多すぎる」
「“雪”は寒い日もある」
「“星”は外に見えすぎる」
私は笑い、彼も笑う。
空白の額の前で考えた言葉が、朝から胸のどこかで温まっていた。
「“息”はどうでしょう」
彼が一瞬、まばたきを忘れた顔をして、すぐに頷く。
「いい。——息の家」
細い筆で、ゆっくりと書く。
彼の手が私の手首を支え、線の震えをやさしく受け止める。
「息は、とぎれさせない」
「はい」
木札の裏に日付。
社務所の人が「良い名前ですね」と微笑み、麻の紐をつけて渡してくれる。
区役所に寄るか、と彼が言う。
私は頷きつつ、今でなくてもいいという 安心を胸の真ん中に置いた。
外の紙を満たすのは、今日でも明日でも。家の名はもうここにある。
帰り道、神城から短いメッセージ。
《礼子さまより。“塩壺は台所に。笑いは卓上に”》
彼はすぐに返す。《了解。笑い、過多》
数秒で返ってくる。《過多は褒め言葉》
ふたりで笑う。
梅と桜が風に混ざり、鍵の雨は降っていない。
空白の額の向こうに、薄い青が広がっている気がした。
家に戻ると、午後の光が低くなるころ。
私は塩壺を所定の場所に置き、朝の食器を丁寧に拭き、はじまりのテーブルの片づけを終える。
彼は書斎で少しだけ外の仕事に返事をし、すぐ戻ってくる。
「鍵を、削ろう」
「はい」
神城が置いていったブランクキーをふたつ。
小さなヤスリで歯を作る作業は、思いのほか黙々と、慎重で、楽しい。
彼は慎重すぎて大胆に、私は大胆すぎて慎重に——足りない部分が、ぴたりと補われる。
「歯が揃ったら、何が開くんでしょう」
「今、開いているもの」
「閉まる可能性は」
「ない」
黒い瞳が、冗談を許さない真剣さで言う。
それでも私は笑ってしまい、彼も抵抗せず笑った。
夕方、玄関の星に、二人の鍵を並べて掛ける。
長さは同じ。歯は違う。
それぞれの違いで、同じ扉が開く。
「彩音」
「はい」
「条文、十四」
「長い章ですね」
「必要だ」
彼は黒いノートを開き、静かに書く。
『十四、息の家は、外と争わない。静かに、確かに続く。
鍵は二人で削り、星は外で目印にし、雪は内で体温を保つ。
“最初のテーブル”は“はじまりのテーブル”へ名前を変え、毎朝、書き換え可能。』
私は隣に小さく追記する。
『追記:笑い声の数は、無制限。罰は甘く、額から。』
彼がペン先で、私の追記に小さな丸印をつける。
それはたぶん、この家の公印。
夜。
湯が音を立て、灯りがやわらかい。
彼がソファに座り、私はその肩へ頭を預ける。影のキスの距離はもう単語で測れない。
窓の外、鍵の雨の雲はなく、空白の額の向こうで小さな星が点りはじめる。
「息、できてるか」
「できます。あなたがいると」
「なら、条文は正しい」
「明日の“はじまり”は、何にしましょう」
「卵。——それから、塩を卓上に置かないこと」
「あ」
「母の伝言だ」
「はい。台所で学びます」
「俺も」
彼は私の額に罰を一つ、落とす。
続けて前髪にもう一つ、掌に軽く、条文、十二の範囲で。
「採点は」
「おいしいで満点」
「甘い」
「知っている」
笑い声が、家の天井に小さく跳ね返って、どこにもこぼれず溜まっていく。
数えない。数えなくていい。無制限。
こうして、はじまりのテーブルは、今日の終わりの中で静かに支度される。
契約は戸棚で眠り、約束で暮らす。
星は外で目印になり、鍵は内で歌い、雪は体温を守る。
——ようこそ、息の家へ。
明日の朝も、ここで「いただきます」。

