朝の光は白く、テーブルの木目に蜂蜜色の帯を置いた。
 “最初のテーブル”から一週間。
 今日は“最後のテーブル”——外の言葉でいえば、契約の終わりの日。

 キッチンには出汁のやさしい湯気。銅の玉子焼き器を温め、砂糖と白出汁を二つの鉢に分ける。母(礼子)さんは出汁巻きを好むと聞いた。けれど、彼の好みは少し甘い。
 私は巻きを二本焼く。一本はふわりと甘く、一本は芯に出汁の香り。切り口が交互に並ぶよう、隙間に三つ葉を立てて色を入れる。

「彩音」

 低い声に振り向くと、彼は黒のシャツに薄墨のジャケット。銀糸の髪先が朝の白を払う。
 視線はまず“合図の壁”へ——星と鍵と雪の並びを数えて、わずかに顎を引く。

「息は、できてるか」

「深呼吸三回済みです」

「よろしい」

 くすっと笑ったあと、彼は私の左手の“雪の結晶の輪”を親指でそっとなぞった。輪郭を一度なぞるだけの小さな儀式。胸の内側が、静かに温度を上げる。

「神城が来る。母は正午前」

「笑い声は“八”以上、ですね」

「……“十”にしてもいい」

「家の中だけなら」

「家の中だ」

 短い言葉が、約束の芯に火を入れる。



 九時過ぎ、神城がやってきた。灰のスーツに正確な靴音。
 “合図の壁”の前で立ち止まり、紙の鍵の雨を見上げる。

「奥様、ローズマリーは控えめで。礼子さまは香りに敏感です」

「では、器の縁へ少量だけ」

「それと——本日の勝負、“卵”ですね」

「引き分けに持ち込むつもりです」

 神城が喉の奥で笑いを転がす。「ご武運を」

 玄関の星のフックが、十一時四十分に小さく鳴った。
 出迎えへ一歩進むと、先に彼が私の手を取る。影のキスの距離。目だけで「大丈夫だ」と言われる。

 戸が開く。白の絹に薄桜の羽織、真珠の簪。礼子さんは、音を立てない人だった。
 まなざしは涼しく、けれど凍ってはいない。私の“雪の輪”で視線が止まり、ほんの数秒、何かを撫でるように見て——ふっと離れる。

「はじめまして。彩音と申します」

「礼子です。……“雪”、似合うのね」

「ありがとうございます」

 最初の言葉は、それだけ。けれど、拒む響きはなかった。



 “最後のテーブル”は、白を基調に、真鍮のカトラリーを少しだけ。
 中央に小瓶を置き、水に沈めたローズマリーを二枝。香りは立ちすぎず、視線だけを涼しくする。
 器は白磁と、縁だけ薄く金。彼が「外へ見せる顔は八まで」と言ったから、華やぎはそこに留める。

「いただきましょうか」

 礼子さんは箸を取り、まず出汁巻きへ。
 噛んだ瞬間、目尻の皺が、ほんのわずか形を変えた。次に甘い方へ箸を入れる。沈黙が、短く置かれる。

「……二本、焼いたのね」

「はい。判断はお任せしたくて」

「欲張り」

 たしかに、ふっと笑った。
 そして、味噌汁をひと啜り。白味噌と合わせ味噌の中間、豆腐は角を落とし、葱は細すぎない。

「塩が、少しだけ足りない」

 言いながら、礼子さんは箸先で卓上の藻塩をほんのひとつまみ、椀の縁で溶かす。口へ。うなずきが、小さく一回。

「彩音さん」

「はい」

「“契約”と“約束”は、違う?」

「違います」

「どう違うの」

「契約は外へ向けて線を引く言葉。約束は内で呼吸を合わせる言葉。……一週間で終わるのは契約で、約束は、家が息をし続ける限り、延びていきます」

 礼子さんは器を置き、障子の向こうの庭へ視線を送った。
 春の風がほんの少し障子を揺らし、影だけの楓が畳に滑る。

「外の言葉は、変えにくいのよ」

「だから“条文”にしました」

 彼が黒いノートを出す。星の栞が揺れる。

「母。——外へ出す文書は処理した。だが家には家の条文がある」

「読ませなさい」

 彼はノートを開き、淡々と読み上げる。

『八、外へ見せる期限は、家では定義し直せる。笑い声の数と、息のしやすさで延長する。
 九、契約は家の言葉で上書きできる。期限は、笑い声と息のしやすさで測る。』

 礼子さんの目が、ゆっくりと私に戻る。

「笑い声、いくつ?」

「今朝からで、十一です」

 彼が咳払いで抗議する。「十だ」

「台所のはカウント外?」

「外だ」

 礼子さんが、肩で小さく笑う音を立てた。
 それは——許す笑いに聞こえた。

「鍵の雨は、好き?」

「はい。降りやまないけれど、濡れて困る鍵ではないので」

「ふうん。……“雪”で来なさいと言われた?」

「はい。私、飾るより、置くのが得意なので」

「置く?」

「言葉とか、器とか。——息がしやすい場所に」

 礼子さんは箸を置き、両手を膝に揃える。
 そして、正面から彼を見た。

「柊真。あなた、ようやく“置く”ことを覚えたのね」

 彼は、短く目を伏せて笑った。「教わった」

「誰に」

「……家に」

 無音の会話が、三人のあいだで一往復する。
 礼子さんはふっと立ち上がり、テーブルの中央に置かれた小瓶の口を指先で触れた。水面の揺れが、金の縁の器に映る。

「良い“最後”だったわ」

 “最後”。
 胸の内で、数字の言葉が一度だけ鳴る。
 ——外の時間の“最後”。内の時間の、はじまりの手前。

「それから、塩は台所に置いて。卓上に置くなら、塩壺の方が似合う家ね」

「はい。勉強します」

「勉強は台所でするものよ。書斎じゃなくて」

 礼子さんは私を一瞥して、口角をほんの少し上げた。

「午後のお茶、時間ある?」

「もちろん」

「柊真、あなたは来なくていいわ」

 彼が眉を上げる。「母」

「女の話」

 神城が遠くで噛み殺した笑いを二回。彼は肩で息を吐き、「了解」と短く言った。



 午後の小さな茶の席。
 礼子さんは帯から白い小箱を取り出し、卓に置く。
 蓋を開けると、雪花文の小さな帯留め——透明なガラスの中に、雪の結晶が閉じ込められている。

「あなたに似合う」

「……いただけません」

「いいの。借りて。いつでも返せるように、箱は残しておきなさい」

 “もらう”でなく“借りる”。
 その言葉が、私の肩の力をほどく。

「彩音さん。一週間、楽しかった?」

「目が回るほど。でも、息は止まりませんでした」

「なら、十分」

 礼子さんは席を立ち、障子の方へ向きかけて——ふい、と振り返る。

「“甘い罰”って、誰の発明?」

「私です」

「額から?」

「はい」

「続けなさい」

 それは、たぶん、承認。



 夕方。
 玄関の星のフックがまた鳴って、礼子さんは去っていった。
 家は、訪問の熱をゆっくり冷まし、いつもの音へ戻る。
 私は“合図の壁”の前に立ち、鍵の雨を見上げる。紙の鍵は、落ちるふりをして、落ちない。

「彩音」

 背後から呼ばれて振り向くと、彼が黒いノートを持って立っていた。
 窓辺の明かりが、銀糸の髪を縁取る。

「——十九時」

 時計の針が、静かに、静かに“外の終わり”へ近づく。
 私は左手の輪に触れ、深く息を吸う。

「返さない」

 私が言うより先に、彼が言った。
 黒い瞳は静かで、深い。

「返してほしいと言っていない」

「念のため、先手を打ちました」

「勝負強い」

「台所の練習です」

 ふっと笑い合って、ソファに並んで腰を下ろす。影のキスの距離。
 彼はノートを開き、白いページにペン先を置いた。

「——条文、十」

 息が、そろう。

『十、外の“契約の終わり”は、家の“はじまり”に連結される。
 鍵は二人の手の中にあり、返却の義務は生じない。』

 書き終えると、彼はペンを置き、私の額へ“罰”を落とす。
 音はしないのに、心のどこかで、小さく鈴が鳴った。

「彩音。終わりだ」

「はい。はじまりです」

 時計の針が十九時を指した。
 窓の外、薄く滲んでいた空が、藍の深さを増す。
 私は輪をそっと握り、彼の肩へ頭を預ける。

「息、できてるか」

「できます。あなたがいると」

「なら、条文は正しい」

 彼は息を吐き、私の指を一本ずつほどいて、自分の手の中に並べた。

「……明日の朝、“最初のテーブル”をもう一度やる」

「同じメニューで?」

「違う。名前だけ同じで、はじまりのテーブルにする」

「笑い声の規定は?」

「——無制限」

「母の前で言えます?」

「家の中なら、言える」

 私たちは笑った。
 “八”を軽々超えて、“十”の奥へ。家の中だから、罰もなく。

 “契約の終わりの日”は、静かに更衣を終えた。
 外の数字は戸棚へしまう。家の名前は、台所の隅で湯気を立てる。
 鍵の雨は、降って見せて、空で溶ける。

 ——さあ、はじまりを食卓に。
 卵を数え、米を研ぐ音から、明日の条文を書く。