朝いちばんの光は、テーブルの木目に蜂蜜みたいな色を置いた。
 昨夜の“最初のテーブル”の余韻がまだ家の隅で息をしている。洗い籠には小さな星と鍵の箸置きが並び、薄いリネンのランナーには、ローズマリーの香りがほんのわずかに残っていた。

「彩音」

 彼は黒のシャツに薄いグレーのジャケット。銀糸の髪が朝の白にやさしく差し込む。
 私は湯を沸かし、蜂蜜とレモンを落とし、カップを彼の前へすべらせた。

「“最初のテーブル”、合格でしたか」

「及第点だ。余白が多い」

「それは褒め言葉ですか」

「知っている」

 くすり、と笑いが重なる。
 彼の視線が、私の左手の“雪の結晶の輪”に落ちた。指先でそっと輪郭をなぞる仕草に、胸の内側が静かに熱を帯びる。

「今日は社へ行く。——午後、来客がある」

「どなたですか」

「母ではない。役員ふたりと……父の古い友人だ」

 “父”という音だけが、空気の温度を半度だけ下げた。
 昨夜、彼はいつか父を家へ呼ぶと言った。遠い壁を外側で終わらせない、と。
 その“いつか”は、思ったより早くやって来そうだ。

「装いは?」

「鍵ではなく、雪で来い」

「……わかりました」

 銀の匙がカップの縁で小さく鳴った。
 “雪”は、彼が私に与えた許しの色。余計な飾りを持たない、まっすぐな白。
 鏡の前で、私は小さな星のピンと、細いリングを一本。笑みは“八”まで——外へ見せる顔はそこまで、と教えられた通りに。



 午前のうちに神城が来た。灰色のスーツ、正確な靴音。
 “合図の壁”の前で一度だけ立ち止まり、星と鍵と雪の並びを目で数え、うなずく。

「おはようございます。空は良好、外部広報は引き続き静穏です」

「神城」

「はい」

「午後の顔ぶれは」

「取締役の近衛、外部顧問の久保。——それから、会長の旧友・榊原。目が鋭い。言葉より沈黙で測るタイプです」

 彼は短く「了解」と言い、私の方へ視線を寄こす。

「彩音。引くな。——けれど、斬るな」

「難題です」

「知っている」

 神城が喉の奥で笑いを転がす。

「奥様、テーブルの香りは残しておいてください。家の第一印象が柔らかくなります」

「昨日のローズマリーを、少しだけ」

「鍵の雨は見える場所に」

 私は絵を額から外し、光の入りやすい壁へ場所を移した。色とりどりの紙の鍵が降りしきる絵。屋根の下の二人は、肩を寄せず並び、影のキスの距離。
 すべてが“ここは息をしていい場所”だと言っている。



 昼を少し回ったころ。
 玄関の星のフックが小さく鳴り、三人の影が家の中へ伸びてきた。

「お邪魔します」

 最初に入ってきた近衛は、艶のある紺のスーツ。視線は冷ややかで速い。
 続く久保は淡いグレー、笑みは柔らかいが目が笑っていない。
 最後の榊原は、石のような顔つき、浅い皺の一本一本が重い年輪を語っている。

「はじめまして。柊真の妻、彩音と申します」

 礼をすると、三人の視線が私の輪、“雪の結晶”で止まる。

「短い契約婚と聞いていたが」

 近衛の視線が、鍵の雨の絵をかすめる。
 彼は言葉をわざと外に置く人だ。拾うのはこちらの役目。

「契約は期限を区切るための言葉です。家の時間は——約束で動きます」

「約束?」

「“笑い声の数で点数を決めるテーブル”とか、“八は外に、十は内側で”とか」

 久保の口元が、薄く持ち上がる。
 榊原は黙って私を見たまま、わずかに顎を引いた。それは、悪くない、の合図に見えた。

「珈琲でよろしいでしょうか。蜂蜜は別添えで」

「いただこう」

 キッチンで湯を落としながら、心臓がすこし速くなるのを感じていた。
 “揺らぐ”という語が、今日に似合いすぎている。
 ——一週間。私たちの“仮の名”は、そろそろ終わりに近づいている。

 盆を持って戻ると、彼はソファの端に座り、三人を正面から受けていた。黒の瞳は深いが、決して凍ってはいない。

「本題に入ろうか」

 近衛が脚を組み、久保が手帳を開く。榊原は何も持たない。

「柊真。投資家向けの説明で、“家庭の安定”を資料に入れたのはお前の判断か」

「そうだ」

「期限付きの婚姻は、“安定”と呼ばない」

「期限を外に見せると決めた覚えはない」

 彼の声は低い。静かながら、譲らない面が出ている。

「……延長か」

「言葉の定義を変える。——条文を更新するだけだ」

 近衛が私の方を見る。「奥さんは、それでいいのかな」

 彼が一瞬だけ私を見る。何も言わない。——選ばせる顔だ。
 胸の内で、“雪の輪”が小さく鳴る。

「約束は、誰かから“与えられる”ものでは困ります。——二人で作って、二人で書き換えるものなら、私は好きです」

 榊原の皺がすこし動き、目尻に、小さな微笑の影が落ちた。

「鍵は、どちらが持っている?」

 榊原の初めての問い。
 鍵の雨の絵が、壁で静かに揺れた気がした。

「彼が渡してくれました。——外し方は、まだ練習中です」

「上出来だ」

 短い言葉が床に落ち、部屋の呼吸がやわらぐ。
 私は腹の底のこわばりが、少しだけ形を変えるのを感じた。
 ——“期限”は、数字で示されるものではない。家の時間は、もっと別の音で進む。



 三人が去った後、家の静けさが戻る。
 私はソファの背に手を置き、ゆっくり息を吐いた。

「疲れました」

「よくやった」

「罰は……甘めでお願いします」

「額でいいか」

「はい」

 軽い音が額に落ちる。
 前払いと後払いの区別がつかない、やさしい罰。

「条文を、更新する」

 彼は黒いノートを開いた。星の栞が落ち着かず揺れる。
 私は鍵の栞を取って、隣の行を押さえた。

『八、外へ見せる期限は、家では定義し直せる。笑い声の数と、息のしやすさで延長する』

 彼が喉の奥で笑う。

「——息のしやすさ、か」

「重要です」

「覚えた」

 ノートを閉じかけたとき、神城がふたたび姿を見せた。
 表情の奥に、細い影。

「業務連絡です。——会長の動き、早い。夕刻、非公式の会食の打診。場所は“楓”」

 彼の肩がわずかに固くなる。“楓”は、父の行きつけだ。
 家の空気が、温度をひとつ下げて引き締まった。

「断れ」

「通りません。——ただ、同席者に“奥様”の名」

 私の心臓が一度、強く跳ねた。
 彼は黙り、ゆっくりと私を見る。黒の瞳の奥に、波がひと筋たった。

「行く」

 短い。逃げない顔だった。
 私はうなずき、白のワンピースに薄いコートを選ぶ。雪の色で、凍らない覚悟を。



 夕暮れの“楓”は、障子の向こうの灯りが琥珀色で、庭の水面に小さな丸を落としていた。
 通された座敷の奥に、父の影がある——彼の父。鋼で削ったような無駄のない姿勢。視線は、切りつけるより強い沈黙を持っている。

「来たか」

 彼は正座し、私も並ぶ。影のキスの距離。
 香の匂いが薄く漂い、畳が静かに軋む。

「紹介する。——妻の彩音だ」

 父の目が、結晶の輪で止まる。沈黙がひと呼吸続く。

「期限のある妻だと聞いた」

「外の言葉です」

 自分でも驚くほど迷いなく声が出た。
 父の眉がわずかに動き、庭の方へ視線が逸れる。

「外の言葉が内を侵す」

「侵させません。家は、内側から名づけ直せますから」

 彼の黒が、すこしだけ笑った気がした。
 父の目尻が微かに落ち、酒の盃が音もなく置かれる。

「柊真。おまえが選んだなら、私が口を挟む余地はない」

 乾いた承認は、祝福とは違う。けれど、壁の外から投げつけられる石でもない。
 ——父の“最初の言葉”。それだけで、夜の温度は少し変わった。

 会食は淡々と進み、政治の話題に少しの家の話が混ざる。
 私の箸の音は、できる限り静かに、しかし消えない程度に。家の声を、ここにも少しだけ連れて来るように。

 帰り際、彼の父がふと庭へ目をやった。

「鍵が降っている絵を見たそうだな」

 神城が情報を渡したのだろう。私は頷いた。

「雨は、いつか上がる」

「はい。上がったあとに残るものを、家で拾います」

 父の口元が、音にならない短い笑みに歪んだ。

「風邪を引くな」

 それが別れの言葉だった。
 廊下に出ると、庭の楓がほんの少しだけ揺れた。



 車の中は、静かだった。
 街の灯りが窓を流れ、指に触れる雪の輪が冷たくて心地よい温度を保つ。

「倒れるな」

「倒れません」

「離れるな」

「離れません」

「笑え」

 私は眉間の力を抜き、八を土台に静かに十へ——内側で。
 彼が、見逃さない。

「——十分を越えた」

「採点、甘い」

「甘い罰だ」

 額にまた、音のない口づけ。
 それは今日一日の刃をやさしく鞘へ戻す合図になった。

「彩音」

「はい」

「契約は、一週間だ」

 喉の奥が、ひとつ鳴った。
 わかっている。始まりに置いた、数字のはずの言葉。

「——だから、書き換える」

 彼の声は低く、まっすぐだ。

「“条文”を。期限を、“外へは示さない”に」

「……延長ではなく」

「定義の変更だ。家の言葉で、家の時間を守る」

 胸の内側で、鍵がひとつ、やわらかい音を立てた。
 私は頷き、膝の上で手を重ねる。

「じゃあ、罰を——新しく」

「何だ」

「“十”は、家の中で無制限」

 彼が笑う。
 黒の瞳が、春の夜の水面みたいにやさしく揺れる。

「許容量は俺が決める」

「ずるい」

「知っている」

 笑い合って、家へ戻る。
 玄関の星のフックが、小さく鍵を鳴らした。



 夜の台所は、昼よりも低い声で話す。
 明日の出汁の準備をして、卵を数える。銅の玉子焼き器が、手の中で落ち着いた重みを返す。

「勝負は」

「礼子さんが来る日まで、引き分けのままです」

「公平だ」

「公平です」

 “合図の壁”の前に立ち、鍵の雨の絵を見上げる。
 紙の鍵は、降り続けている。
 だけど今は、雨音が少しだけ、やさしく聞こえる。

「彩音」

「はい」

「明日、母が来る。——“テーブル”だ」

「“笑い声”を増やしておきます」

「頼む」

 彼は黒いノートを開き、ペン先で余白を撫でるように書いた。

『九、契約は家の言葉で上書きできる。期限は、笑い声と息のしやすさで測る』

 隣に私は、小さく追記する。

『追記:罰は甘く、額から』

 彼が紙の上で笑った気配がする。
 ノートを閉じる音が、家のどこかで新しい柱になる。

 揺れていたのは約束ではなく、名前だった。
 私たちは、外の名前から家の名前へ、静かに書き換えていく。

 鍵は手の中にある。
 雪の輪は、冷たくて、あたたかい。
 影のキスの距離は、今日も変わらずすぐそばに。

 明日の“テーブル”の真ん中に、笑い声をひとつ、先に置いておく。
 ——揺らぐ約束は、ほどけるためじゃない。
 重なるために、名を変えるだけだ。