朝の光は、ゆっくりと磨いた陶器みたいに白くてつややかだった。
ポットに湯を落とし、ローズマリーとカモミールを半分ずつ。
湯気の白が立ちのぼり、雪の結晶の輪が脈に合わせて小さく震える。鏡の端では、星と鍵のピンが並び、極細のリングが指で光を拾った。
「彩音」
黒のジャケットに薄いアイボリーのニット。銀糸の髪は朝の光を柔らかく散らし、切れ長の黒はいつもよりすこし眠たげだ。
「今日は“最初のテーブル”だ。——母と、神城」
「はい。出汁巻き、練習済みです」
「競合だな」
「勝ちます」
「採点は俺だ」
「ずるい」
「知っている」
くすっと笑いが重なり、家の空気が一段やわらかくなる。彼は私の手首へ視線を落とし、結晶に指を重ねた。
「十は外に見せなくていい。内側で、八を守れ」
「了解しました」
「がんばるな。素直でいろ」
「……はい」
その言葉が、胸の余白へ温かく降りた。
午前は、家の呼吸を“来客仕様”にととのえる。
白いテーブルの上に、薄い亜麻のランナー。礼子から届いた真鍮の小さなフック——星・鍵・雪——とおそろいの箸置きが箱から現れる。光の粒をひとつずつ並べるたび、家の声が少しずつ増える気がした。
「ナプキンは」
「鍵の雨を真似して、紙で小さな鍵を結んでみます」
「覚えた」
キッチンでは出汁が静かに呼吸している。昆布と鰹の重なりに、うすい甘さの余韻。卵を割り、出汁と砂糖と塩をほんのすこし。泡立て過ぎないように箸を静かに立てる。
「失敗の罰は?」
背後で彼が問う。
「甘い罰にしてください」
「一回ごとに、額へ前払いだ」
「……緊張します」
銅の玉子焼き器を温め、油を薄くのばす。最初の一枚、返す刹那の緊張が、皮膚の外側まで伝う。くるり、と折り重なった薄層が、音もなく四角へ戻る。
「——よくやった」
彼の声が、器の熱をやさしく下げた。
「あなたの番です」
「俺のためだ」
「わたしのためにも」
彼は袖をまくり、手首の骨がすこし浮く。切り傷の上の雪の絆創膏はもう外れている。卵液を流し、迷いのない手首の返し。端を持ち上げる速度は私より少し速く、仕上がりは銀糸の髪みたいに端正だ。
「上手」
「やればできる」
「誰に似ました?」
「母ではない。——父は焦がした」
二人分の出汁巻きが並ぶ。皿の上で、金色の四角が湯気をたたえている。
味噌汁の火を落とし、浅漬けを氷水で締め、白い器へ。庭のレモンを薄く削って蜂蜜へ沈める。テーブルの中央には小さなガラスのピッチャーを置き、ローズマリーの小枝を一輪。
玄関の星のフックが、鍵を小さく鳴らした。
最初に扉をくぐったのは神城だった。灰色のコート、疲れを見せない姿勢。
「お邪魔いたします。動線、問題なし。近隣の泡も沈静化しています」
「神城」
「はい」
「食べていけ」
一瞬だけ目を瞬かせたあと、神城は静かに会釈した。
「僭越ながら、いただきます」
次に、白に近いベージュのコートをまとった礼子が現れた。小さな紙袋を提げて、玄関に一歩入るなり、空気をゆっくり吸い込む。
「——いい匂い。ローズマリーと、蜜の気配」
「“家の最初の匂い”です」
「あなたの家の匂いね」
礼子の瞳が、書斎の“合図の壁”で止まった。星と鍵と雪、それから母の小花の影。
「余白が多い。……あの子が“帰って来られる”壁だわ」
彼女は振り向き、私の左手の“余白の輪”に視線を落とす。
「似合う。——おめでとう」
「ありがとうございます」
礼子は紙袋から白いエプロンを取り出した。胸元に小さな星の刺繍。
「“家の台所は、笑う場所”の制服」
「大切にします」
彼の黒が、ほんの少し柔らかく揺れた。
席につくと、器と箸の軽い音が、家の中に新しい“テーブルの音”を作った。
出汁巻きを真ん中で切り分け、味噌汁をよそい、浅漬けにレモンの香りをほんの少し。
「どちらから」
礼子が言う。
「対戦形式です。——採点は、礼子さん」
「光栄だわ」
最初に私の出汁巻きを口に含んだ礼子が、目を細める。
「やさしい。余白がある。……“朝の湯気”の味がする」
次に彼の。
「正確。端正。——“壁の縁”がきれい」
「勝者は」
「同点」
「厳しい」
「両方が“家の味”であってほしいから」
神城が、抑えた笑いを喉の奥で転がす。
「神城」
「はい」
「どちらだ」
「……申し上げにくいのですが、どちらも“十”です」
「採点が甘い」
「甘い罰ですので」
テーブルに笑いが流れ、味噌汁の湯気が白く重なった。
食べながら、礼子が静かに昔話をほどく。
「柊真が小さい頃、よく“壁の練習”をしていた。何かに怯えるより先に、笑って、届かない壁を作るの。——私は“内側”を見せるのが下手でね。ごめんなさい、と何度も思った」
彼は箸を止めず、ただ少しだけ視線を落とす。
「でも、今は鍵を持っている人がいる。——ありがとう」
礼子の“ありがとう”は、印章みたいに静かだった。胸の奥が、やさしく痛む。
「鍵は、彼が渡してくれたんです。私はまだ、外し方を練習中で」
「上出来よ」
礼子が微笑み、神城は咳払い一つで空気を整える。
「業務連絡です。外部広報、完全鎮火。——“期限なし”の一次情報が効いています」
「よし」
彼の低い声が、部屋の角まで届く。
「家のことは、こちらで網羅します。近隣との連絡も。——ただ、ひとつだけ」
「何だ」
「門前の少女から“クッキーのお礼の絵”が届きました。……“鍵の雨”」
神城が封筒を差し出す。中には、色とりどりの紙の鍵が降る絵。雨粒の代わりに小さな鍵。屋根の下で、二人が肩を寄せず並んでいる。影のキスの距離。
礼子が「まあ」と小さく笑った。
「いいご近所ね。ここはきっと、息がしやすい」
「ええ。——余白は、息をする場所だから」
言った瞬間、彼の黒がこちらを見た。
「覚えた」
短い合図が、テーブルの木目にしみこんでいく。
食後は、デザートに小さな星と鍵のクッキー。昨夜焼いたものに、蜂蜜をほんの一滴。
「甘い罰」
礼子が茶目っ気たっぷりに言い、私は頷く。
「毎日、少しずつ罰を増やしていきます」
「ほどほどに。——息子は、仕事を忘れかねない」
「余計なお世話だ、母さん」
彼の固い言葉の端で、笑いがほどける。
やがて礼子と神城は立ち上がり、玄関まで。星のフックで小さな鍵が鳴った。
「また来るわ。今度は私が台所に立つ」
「出汁巻き、勝負ですね」
「負けないわよ」
礼子は私を抱きしめる代わりに、両手で私の肩を包み、目を細めた。
「——おかえり」
胸の奥で、音もなく何かがほどけた。
扉が閉まると、家は急に静かになった。
静けさは、淋しさではない。昼の会話が壁に薄く残り、湯気の記憶が天井の高さを測っている。
「彩音」
「はい」
「条文を更新する」
「お願いします」
彼は黒いノートを開き、星の栞をそっと押さえる。
『七、“テーブル”は週に一度、家の中心に置く。——点数は笑い声の数で決める』
私は鍵の栞で隣の行を押さえ、小さく書き添えた。
『追記:出汁巻きは引き分けから始める』
彼が喉の奥で笑う。
「公平だ」
「公平です」
午後の光は、ゆっくり砂糖を溶かしたみたいに部屋に広がり、ピアノの黒があたたかい影を作った。
「少し歩くか」
「庭までなら」
ドアを開けると、昨夜の雨の名残がプランターの土に深い色を残している。ローズマリーはまっすぐで、茎が光を吸って立っていた。
「根が張った」
「はい。ここは“帰る場所”になっていきますね」
「なる」
彼は土を指でつまみ、香りを嗅ぎ、うなずく。
「指、汚れましたよ」
「拭け」
差し出された指を、私はハンカチでそっと挟む。触れてから、ゆっくり離す。
影のキスよりも具体的な温度が、皮膚の内側へと残った。
夕方、テーブルを片づけ終えると、窓の外の空がほんの少しだけ桃色に傾いた。
「“十”を、俺にだけ」
「今、ですか」
「今だ」
私はテーブルの端に手を置き、眉間から力をほどく。
口角を、彼が好きだと言った分だけ上げる。
八を土台にして、外にこぼさない十を静かに。
「どう、ですか」
一拍の余白。
「——十分を越えた」
「採点、甘い」
「甘い罰だからな」
額に落ちる、音のない口づけ。昼の“前払い”より、少しだけ長い。
「“おやすみ”には早いけど、先払いを積んでおく」
「無制限条項、発動ですね」
「許容量は俺が決める」
「ずるい」
「知っている」
二人で笑い、ソファの端に並ぶ。影のキスの距離。
静かな時間がすこし流れ、彼が唐突に言った。
「父のことを、いつか家へ呼ぶ。——“壁の外”で終わらせない」
胸の奥が、きゅっとなる。
「はい。……その時の出汁巻きは、あなたが焼いてください」
「命令か」
「願いです」
「叶える。——俺のためだ」
「わたしのためにも」
窓の外を、鍵の雨の絵に似た雲がゆっくり流れていく。
彼は黒いノートをもう一度開き、余白の端に細く書いた。
『夜の余白:ただいま/おかえり/ありがとう』
私は隣に、少し震えた字で書き足す。
『追記:家の声は、皿と箸の音でも増える』
彼の黒と目が合い、ほどけない。
「彩音」
「はい」
「倒れるな」
「倒れません」
「離れるな」
「離れません」
「笑え」
「十、取りに行きます。毎日」
「——勝った」
「採点、私です」
「知っている」
灯りがゆっくり落ち、家の影が深くなる。
“最初のテーブル”の音が、壁のどこかに静かに残っていた。
雪の結晶の輪を指でなぞると、小さく鳴った。
許されている。彼が隣にいる。
私は目を閉じ、胸の中で条文をひとつだけ更新する。
“テーブルの声を、忘れない”。
十を、取りに行く。
彼の隣で。
離れず、揺れず、家の真ん中
ポットに湯を落とし、ローズマリーとカモミールを半分ずつ。
湯気の白が立ちのぼり、雪の結晶の輪が脈に合わせて小さく震える。鏡の端では、星と鍵のピンが並び、極細のリングが指で光を拾った。
「彩音」
黒のジャケットに薄いアイボリーのニット。銀糸の髪は朝の光を柔らかく散らし、切れ長の黒はいつもよりすこし眠たげだ。
「今日は“最初のテーブル”だ。——母と、神城」
「はい。出汁巻き、練習済みです」
「競合だな」
「勝ちます」
「採点は俺だ」
「ずるい」
「知っている」
くすっと笑いが重なり、家の空気が一段やわらかくなる。彼は私の手首へ視線を落とし、結晶に指を重ねた。
「十は外に見せなくていい。内側で、八を守れ」
「了解しました」
「がんばるな。素直でいろ」
「……はい」
その言葉が、胸の余白へ温かく降りた。
午前は、家の呼吸を“来客仕様”にととのえる。
白いテーブルの上に、薄い亜麻のランナー。礼子から届いた真鍮の小さなフック——星・鍵・雪——とおそろいの箸置きが箱から現れる。光の粒をひとつずつ並べるたび、家の声が少しずつ増える気がした。
「ナプキンは」
「鍵の雨を真似して、紙で小さな鍵を結んでみます」
「覚えた」
キッチンでは出汁が静かに呼吸している。昆布と鰹の重なりに、うすい甘さの余韻。卵を割り、出汁と砂糖と塩をほんのすこし。泡立て過ぎないように箸を静かに立てる。
「失敗の罰は?」
背後で彼が問う。
「甘い罰にしてください」
「一回ごとに、額へ前払いだ」
「……緊張します」
銅の玉子焼き器を温め、油を薄くのばす。最初の一枚、返す刹那の緊張が、皮膚の外側まで伝う。くるり、と折り重なった薄層が、音もなく四角へ戻る。
「——よくやった」
彼の声が、器の熱をやさしく下げた。
「あなたの番です」
「俺のためだ」
「わたしのためにも」
彼は袖をまくり、手首の骨がすこし浮く。切り傷の上の雪の絆創膏はもう外れている。卵液を流し、迷いのない手首の返し。端を持ち上げる速度は私より少し速く、仕上がりは銀糸の髪みたいに端正だ。
「上手」
「やればできる」
「誰に似ました?」
「母ではない。——父は焦がした」
二人分の出汁巻きが並ぶ。皿の上で、金色の四角が湯気をたたえている。
味噌汁の火を落とし、浅漬けを氷水で締め、白い器へ。庭のレモンを薄く削って蜂蜜へ沈める。テーブルの中央には小さなガラスのピッチャーを置き、ローズマリーの小枝を一輪。
玄関の星のフックが、鍵を小さく鳴らした。
最初に扉をくぐったのは神城だった。灰色のコート、疲れを見せない姿勢。
「お邪魔いたします。動線、問題なし。近隣の泡も沈静化しています」
「神城」
「はい」
「食べていけ」
一瞬だけ目を瞬かせたあと、神城は静かに会釈した。
「僭越ながら、いただきます」
次に、白に近いベージュのコートをまとった礼子が現れた。小さな紙袋を提げて、玄関に一歩入るなり、空気をゆっくり吸い込む。
「——いい匂い。ローズマリーと、蜜の気配」
「“家の最初の匂い”です」
「あなたの家の匂いね」
礼子の瞳が、書斎の“合図の壁”で止まった。星と鍵と雪、それから母の小花の影。
「余白が多い。……あの子が“帰って来られる”壁だわ」
彼女は振り向き、私の左手の“余白の輪”に視線を落とす。
「似合う。——おめでとう」
「ありがとうございます」
礼子は紙袋から白いエプロンを取り出した。胸元に小さな星の刺繍。
「“家の台所は、笑う場所”の制服」
「大切にします」
彼の黒が、ほんの少し柔らかく揺れた。
席につくと、器と箸の軽い音が、家の中に新しい“テーブルの音”を作った。
出汁巻きを真ん中で切り分け、味噌汁をよそい、浅漬けにレモンの香りをほんの少し。
「どちらから」
礼子が言う。
「対戦形式です。——採点は、礼子さん」
「光栄だわ」
最初に私の出汁巻きを口に含んだ礼子が、目を細める。
「やさしい。余白がある。……“朝の湯気”の味がする」
次に彼の。
「正確。端正。——“壁の縁”がきれい」
「勝者は」
「同点」
「厳しい」
「両方が“家の味”であってほしいから」
神城が、抑えた笑いを喉の奥で転がす。
「神城」
「はい」
「どちらだ」
「……申し上げにくいのですが、どちらも“十”です」
「採点が甘い」
「甘い罰ですので」
テーブルに笑いが流れ、味噌汁の湯気が白く重なった。
食べながら、礼子が静かに昔話をほどく。
「柊真が小さい頃、よく“壁の練習”をしていた。何かに怯えるより先に、笑って、届かない壁を作るの。——私は“内側”を見せるのが下手でね。ごめんなさい、と何度も思った」
彼は箸を止めず、ただ少しだけ視線を落とす。
「でも、今は鍵を持っている人がいる。——ありがとう」
礼子の“ありがとう”は、印章みたいに静かだった。胸の奥が、やさしく痛む。
「鍵は、彼が渡してくれたんです。私はまだ、外し方を練習中で」
「上出来よ」
礼子が微笑み、神城は咳払い一つで空気を整える。
「業務連絡です。外部広報、完全鎮火。——“期限なし”の一次情報が効いています」
「よし」
彼の低い声が、部屋の角まで届く。
「家のことは、こちらで網羅します。近隣との連絡も。——ただ、ひとつだけ」
「何だ」
「門前の少女から“クッキーのお礼の絵”が届きました。……“鍵の雨”」
神城が封筒を差し出す。中には、色とりどりの紙の鍵が降る絵。雨粒の代わりに小さな鍵。屋根の下で、二人が肩を寄せず並んでいる。影のキスの距離。
礼子が「まあ」と小さく笑った。
「いいご近所ね。ここはきっと、息がしやすい」
「ええ。——余白は、息をする場所だから」
言った瞬間、彼の黒がこちらを見た。
「覚えた」
短い合図が、テーブルの木目にしみこんでいく。
食後は、デザートに小さな星と鍵のクッキー。昨夜焼いたものに、蜂蜜をほんの一滴。
「甘い罰」
礼子が茶目っ気たっぷりに言い、私は頷く。
「毎日、少しずつ罰を増やしていきます」
「ほどほどに。——息子は、仕事を忘れかねない」
「余計なお世話だ、母さん」
彼の固い言葉の端で、笑いがほどける。
やがて礼子と神城は立ち上がり、玄関まで。星のフックで小さな鍵が鳴った。
「また来るわ。今度は私が台所に立つ」
「出汁巻き、勝負ですね」
「負けないわよ」
礼子は私を抱きしめる代わりに、両手で私の肩を包み、目を細めた。
「——おかえり」
胸の奥で、音もなく何かがほどけた。
扉が閉まると、家は急に静かになった。
静けさは、淋しさではない。昼の会話が壁に薄く残り、湯気の記憶が天井の高さを測っている。
「彩音」
「はい」
「条文を更新する」
「お願いします」
彼は黒いノートを開き、星の栞をそっと押さえる。
『七、“テーブル”は週に一度、家の中心に置く。——点数は笑い声の数で決める』
私は鍵の栞で隣の行を押さえ、小さく書き添えた。
『追記:出汁巻きは引き分けから始める』
彼が喉の奥で笑う。
「公平だ」
「公平です」
午後の光は、ゆっくり砂糖を溶かしたみたいに部屋に広がり、ピアノの黒があたたかい影を作った。
「少し歩くか」
「庭までなら」
ドアを開けると、昨夜の雨の名残がプランターの土に深い色を残している。ローズマリーはまっすぐで、茎が光を吸って立っていた。
「根が張った」
「はい。ここは“帰る場所”になっていきますね」
「なる」
彼は土を指でつまみ、香りを嗅ぎ、うなずく。
「指、汚れましたよ」
「拭け」
差し出された指を、私はハンカチでそっと挟む。触れてから、ゆっくり離す。
影のキスよりも具体的な温度が、皮膚の内側へと残った。
夕方、テーブルを片づけ終えると、窓の外の空がほんの少しだけ桃色に傾いた。
「“十”を、俺にだけ」
「今、ですか」
「今だ」
私はテーブルの端に手を置き、眉間から力をほどく。
口角を、彼が好きだと言った分だけ上げる。
八を土台にして、外にこぼさない十を静かに。
「どう、ですか」
一拍の余白。
「——十分を越えた」
「採点、甘い」
「甘い罰だからな」
額に落ちる、音のない口づけ。昼の“前払い”より、少しだけ長い。
「“おやすみ”には早いけど、先払いを積んでおく」
「無制限条項、発動ですね」
「許容量は俺が決める」
「ずるい」
「知っている」
二人で笑い、ソファの端に並ぶ。影のキスの距離。
静かな時間がすこし流れ、彼が唐突に言った。
「父のことを、いつか家へ呼ぶ。——“壁の外”で終わらせない」
胸の奥が、きゅっとなる。
「はい。……その時の出汁巻きは、あなたが焼いてください」
「命令か」
「願いです」
「叶える。——俺のためだ」
「わたしのためにも」
窓の外を、鍵の雨の絵に似た雲がゆっくり流れていく。
彼は黒いノートをもう一度開き、余白の端に細く書いた。
『夜の余白:ただいま/おかえり/ありがとう』
私は隣に、少し震えた字で書き足す。
『追記:家の声は、皿と箸の音でも増える』
彼の黒と目が合い、ほどけない。
「彩音」
「はい」
「倒れるな」
「倒れません」
「離れるな」
「離れません」
「笑え」
「十、取りに行きます。毎日」
「——勝った」
「採点、私です」
「知っている」
灯りがゆっくり落ち、家の影が深くなる。
“最初のテーブル”の音が、壁のどこかに静かに残っていた。
雪の結晶の輪を指でなぞると、小さく鳴った。
許されている。彼が隣にいる。
私は目を閉じ、胸の中で条文をひとつだけ更新する。
“テーブルの声を、忘れない”。
十を、取りに行く。
彼の隣で。
離れず、揺れず、家の真ん中

