朝の空は、砂糖菓子をひとつ砕いて溶かしたみたいに淡く澄んでいた。

 ポットに湯を落とし、ローズマリーとカモミールを半分ずつ。湯気の白がふわりと立ちのぼって、雪の結晶の輪が脈の上で小さく震える。鏡の端では星と鍵のピンが並び、極細のリングが指で小さく光った。

「彩音」

 黒のジャケットに薄いシャツ。銀糸の髪は、夜の名残をひと筋だけ抱きながらも整っている。切れ長の黒は、いつもより静かで、深い。

「今日は“植える”」

「植える、ですか」

「余白の住処へ。——ローズマリーを。ついでに、正式な契約も」

「家の契約?」

「そうだ。これは“終わらないための契約”だ」

 胸の奥が、やわらかく息を吸う。
 雪の結晶を鳴らしかけて、彼が隣にいるのを確かめ、そっと鳴らす。

「許す」

「特例です」

「今日は常設だ」

 短い冗談が、朝の空気に甘く混ざった。



 午前の光を連れて、私たちは新しい家へ向かった。
 白い壁と砂色の床は昨日のまま、何も置かれていない。けれど、玄関の内側には、細長い段ボールがいくつか積まれている。神城が先回りして届けてくれたらしい。

「先に風を入れる」

 彼が窓を大きく開けると、冬の空気が音もなく入ってきて、部屋が一枚、軽くなる。
 私は靴を脱ぎ、母から受け取った白い小花の髪飾りの箱を、陽だまりの近くへ置いた。

「どこに影を落としますか」

「ここだ」

 彼は白い壁の一角を指差し、釘の位置を目で測る。「余白が一番深い場所」。
 やがて工具箱を開け、金具を取りつける。迷いのない手つき。——その手の甲に、薄い紙でついたらしい細い切り傷。

「血!」

「大したことはない」

「動かないでください」

 反射で救急箱を取り、消毒。雪の結晶の絆創膏を一枚。彼の皮膚へやさしく貼る。
 前にも見た小さな“雪”が、指の上で光り、ふっと彼の喉が笑った。

「趣味が一定だな」

「似合うからです」

「俺の指に“可愛い”は似合わない」

「似合います」

 押し切ると、彼は工具を置き、私の額へ目を落とした。
「——ありがとう」

 言わせた。
 胸の内側で、鈴の音が甘く跳ねる。

 母の髪飾りは、白い壁で薄い影になった。小花が昼の光を受け、輪郭でそっと部屋を飾る。

「生き物みたいだな」

「いつか、ここにローズマリーの匂いも重なるはずです」

「重ねろ」

 命令形は、合図に聞こえる。



 庭のプランターに新しい土を入れると、空気が少し湿って匂いが立った。
 苗木は濃い緑。指で葉を撫でると、青い香りが指先から昇って、胸の内側に澄んだ輪を作る。

「根鉢、崩しますね」

「手を貸せ」

 彼の手が、土の感触を確かめるように慎重に動く。
 私は苗を受け取り、二人で高さを合わせ、土を寄せ、軽く押さえる。
 最後に、彼がジョウロで水を落とした。
 土がひとつ息をして、色を変える。

「——植えた」

「はい。家の“最初の匂い”です」

「覚えた」

 フェンスの向こうで、小さな影が動いた。
 見ると、近所の少女が祖母らしい女性と手をつないで立っている。少女の手には、小さなレモン。

「こんにちは」

 私は八分の笑いで会釈する。
 祖母は穏やかに微笑み、少女の背を押した。

「ご近所のご挨拶に。——近くの木で採れたレモンです」

「ありがとうございます。うれしい」

 レモンは掌にすべすべで、朝の光を小さく跳ね返した。
 少女がぽつりと言う。「いい匂いだね」

「ローズマリー。覚えたら、いつか一緒にクッキー焼こう」

 少女の目が丸くなって、祖母も目を細める。
 柊真は一歩下がって、さりげなく壁になった。外のための壁。内側へは、風を通す壁。

「ご迷惑をおかけするかもしれませんが、静かに暮らします」

 彼が短く頭を下げる。
 祖母は「まあ」と笑い、「静けさは分け合えるものですよ」と言って去った。

 門が閉まったあと、私は結晶を鳴らしかけ——目だけで「許す?」と問う。
 彼は短く頷き、指で私の手首を軽く叩いた。
 小さな鈴が、日向へほどける。



 昼は近くのベーカリーで買ったパンを温め、庭のレモンを薄く削って蜂蜜に落とし、白い皿へ。
 湯気はやさしく、パンの皮の香りが部屋の角を丸くする。
 食後、神城が玄関で合図し、書類の束を机に置いた。

「ご署名を。物件の件、諸手続きは完了次第こちらで。——外部の泡は沈静化。近隣への配慮は当方で」

「頼む」

 彼は短く指示を返し、私を見る。
「——ここに“帰る”署名だ」

「はい」

 ペン先が紙の上を滑る。
 柊真の名前、私の名前。
 インクが乾く前に、彼が黒いノートを取り出し、余白のページのいちばん上へ小さく書いた。

『今日の余白:土の匂いと君の名』

 息が、甘くなる。



 午後、玄関に細い音が重なった。
 搬入のスタッフが小さなアップライトピアノを運び込む。
 白い壁と砂色の床の上で、艶のある黒がひとつ深い影になる。
 調律が終わると、彼は椅子を少しだけ引き、蓋を上げた。

「“余白の家”の最初の音、お願いします」

 言うと、彼は「引き受けた」と短く答え、鍵盤に手を置く。
 最初の音は、午前に植えた水の音みたいに柔らかい。
 直前と直後に、息が置かれる。
 音が部屋の角にやさしく当たり、戻ってくる。
 私は壁の小花の影を見上げ、胸の中の何かがひとつ、静かにおさまるのを感じた。

「——上手い、です」

「“上手い”は不要だ。つながればいい」

「はい。つながりました」

 彼は目を閉じ、ほんの少しだけ笑った。
 音は止み、余白だけが残る。そこは、誰も沈まない場所。



 夕方近く、二人で箱を開けはじめた。
 食器、リネン、フォトフレーム。
 先日選んだ一枚——“好きな人に向ける十”を黒いフレームからそっと出し、書斎の壁へ。
 隣には、ノートの棚と万年筆。
 私は栞の星でページを押さえ、小さく書き足す。

『夕方の余白:レモンの皮、パンの湯気、あなたの背中の影』

 彼が背後から覗き込み、「覚えた」と低く言う。
 書いていると、指先に紙の角が掠った。

「痛っ」

「血?」

「いえ、かすり傷。でも——」

 見る間に、彼が救急箱を取り、無言で私の指を取った。
 今度は私の指に、雪の結晶が一枚。
 小さな“雪”がふたり分、今日の家に増えた。

「公平になった」

「え?」

「俺にも一枚、君にも一枚」

 理屈にならない理屈が、なぜか心地よい。



 夜が近づく頃、彼はコートを肩に掛けて言った。
「二十分だけ外す。役所へ書類を出す。——倒れるな」

「はい。——帰りを用意しておきます」

「用意?」

「家の最初の“おかえり”」

 彼はほんの少し目を細め、「期待して帰る」とだけ言って、扉を閉じた。
 静けさが降りる。
 私は台所で湯を沸かし、慎重にカップを並べる。
 ローズマリーを少しだけ湯にくぐらせ、蜂蜜をひとしずく。
 窓の外では、プランターの緑が夜の薄光を吸って、輪郭で呼吸している。

 玄関の鍵が回る音。
 私は玄関まで歩いて、扉が開くのを待った。

「おかえりなさい」

 言葉は驚くほど自然に出た。
 彼の黒が柔らかく揺れ、「ただいま」と返ってくる。
 私はトレーを差し出し、湯気の向こうで八分の笑いを見せる。

「家の匂い、完成しました」

 彼はカップを受け取り、香りをゆっくり吸い込む。
「——覚えた。俺のためだ」

「わたしのためにも」

 リビングの真ん中、何も置かれていない床にラグを一枚広げ、二人で腰を下ろす。
 影のキスの距離。
 触れないのに、触れた場所が増えていく距離。

「条文を、少しだけ更新する」

「はい」

「“おかえり”は、いつでも言っていい。——先払いも可」

「無制限ですね」

「許容量は俺が決める」

「ずるい」

「知っている」

 彼が黒いノートに短く書き足す。
 私は結晶を鳴らしかけ、彼の視線で合図を受けて、そっと鳴らした。
 鈴の音は、もうこの家の天井の高さを覚えはじめている。



 食後、書斎のランプに灯りを入れると、白い小花の影が、昼より柔らかい輪郭で壁に揺れた。
 私は髪飾りに手を伸ばし、星と鍵のピンをその隣へ並べる。
 彼が近づいてきて、少しだけ首を傾げた。

「家の“合図の壁”だ」

「ええ。——日替わりで、影を増やします」

「増やせ」

 命令形が、願い事みたいに甘い。

「彩音」

「はい」

「“十”を、俺にだけ」

「今、ですか」

「今だ」

 眉間の力をほどき、口角を、彼が好きだと言った分だけ上げる。
 今日の“十”は、土と水と湯気の匂いが混ざっている。
 外へ一滴もこぼれない十。
 内側で満ちる十。

「どう、ですか」

 彼は即答しない。一拍分の余白。
 そして、静かに。

「——十分を越えた」

「また甘い採点です」

「甘い罰だからな」

 次の瞬間、額に小さな口づけ。
 音のしない印は、昨日より少し長く、確かだ。

「おやすみには早いが、先払いが必要だ」

「必要なら、無制限です」

「危険だ」

「許容量は、あなたが決めていい」

 彼は喉の奥で笑い、座ったまま、黒いノートへもう一行。

『夜の余白:ただいま/おかえり』

 私は星の栞でページを押さえ、横に小さく書き添える。

『追記:土の匂いは、記憶をやさしくする』

 目が合い、ほどけない。
 影のキスの距離。
 指先がわずかに触れて、今度は本当に、ゆっくりと触れ合う。
 手の温度は、命令よりも甘く、条文よりも確かに、胸の奥をつないでくる。

「彩音」

「はい」

「倒れるな」

「倒れません」

「離れるな」

「離れません」

「笑え」

「十、取りに行きます。毎日」

「——勝った」

「採点、私です」

「知っている」

 二人で小さく笑う。
 ローズマリーの影が、夜のガラスに薄く揺れる。
 外の世界で泡が立つ日がまた来ても、ここには土があり、水があり、湯気があり、合図がある。
 壁は外へ向ける。内側は、息をする場所。

 灯りを落とす前、私は窓を少しだけ開け、庭の匂いを部屋へ招いた。
 遠くで、レモンの樹が風に鳴った気がした。
 星のピンが微かに震え、鍵のピンが静かに光る。
 極細のリングは脈の近くで温度を覚え、雪の結晶が一度だけ、小さく鳴った。

「——おやすみを、ください」

 求めると、彼は一度だけ瞬き、低く落とす。

「おやすみ、彩音」

 名前が、胸の上で甘く溶ける。
 私は目を閉じ、今日植えたばかりの根の行方を思い描く。
 土の中で、静かにほどけ、静かに伸びる気配。
 それはたぶん、愛の進み方によく似ている。

 ——明日も、水を。
 朝の湯気を。蜂蜜をひとしずく。
 “好きな人に向ける十”を、また一つ。

 種をまく手は、もう迷わない。
 彼の隣で。
 離れず、揺れず、ここに帰るために。