朝の窓は、うすいミルクを一滴垂らしたみたいに柔らかかった。

 星のピンと鍵のピンが鏡の端で並び、雪の結晶の輪が脈と一緒に小さく震える。
 ローズマリーとカモミールを半分ずつ。湯気の白が、胸の奥の余白にすっと沁みていく。

「彩音」

 黒のジャケットに淡いシャツ、銀糸の髪は光をほどいて、切れ長の黒がこちらを射抜く。
 柊真は小さな紙袋を片手に、もう片手でドアを閉めた。

「七日目だ。——終わりではなく、始まりにする」

「はい」

「午前中、君の“昔”へ行く。午後、ひとつだけ俺の“今”を見せる。夜は、俺の“余白”で終わらせる」

「盛りだくさんですね」

「甘い罰を混ぜる。耐えられるか」

「甘いなら、たぶん」

 彼の口元に、内側だけの八分の笑いが浮かぶ。
 紙袋のなかから、小さな花束——白いワックスフラワーとローズマリー。昨日の路地の店の香りが、ふっと蘇る。

「覚えている。白と、澄む香り」

「ありがとうございます」

「礼は要らない。——俺のためだ」

 くすり、と胸の奥に小さな泡が立つ。
 結晶を鳴らしかけて——彼が隣にいることを確かめ、そっと鳴らした。

「許す」

「特例ですね」

「今日くらいはな」



 地下鉄で三駅。
 大学街のはずれ、古い煉瓦の塀の向こうに、薄い冬陽が横たわっている。
 角を曲がると、低い庇を張り出した小さな店が現れた。白い看板に小さく「文庫と菓子」とだけある。
 ガラス戸の向こう、背表紙の列と、丸い色の粒——マカロン。

「ここ?」

「ええ。学生のころ、よく来ていました」

 鈴が鳴る。
 甘いアーモンドの香りに、紙の匂いが静かに重なる。
 白髪をきれいにまとめた女性がカウンターの中から顔を上げ、「まあ」と目を細めた。

「お久しぶりね。翡翠の目の子」

「覚えていてくださったんですか」

「ええ、“期待を折る練習は上手になりたくない”って笑ってた子でしょう?」

 胸の奥が、やわらかく痛む。
 彼女の視線が、私の左手の極細のリングへ落ち、ふっと表情が明るくなる。

「——今日は期待していい日ね」

 柊真が、静かに一礼した。
 棚に並ぶ文庫から、私は小さな詩集を一冊選ぶ。余白の多い、短い言葉の本。
 その隣で、彼はマカロンを色でなく“気分”で選び始める。

「ピスタチオ、シトロン、カシス、キャラメル……それから、白」

「白?」

「ココナツだそうだ。——“白は余白”。君に似合う」

「じゃあ、あなたにはピスタチオ。“覚えておく”の色です」

「覚えた」

 箱に詰めてもらって、角の小さなテーブルへ。
 窓から差す光が、丸い菓子の表面を薄く照らす。殻を割ると、サク、と小さな音。クリームがゆっくりほどける。

「——甘い罰、開始だ」

「内容は」

「一口ごとに、君の“昔”をひとつ話せ」

「ずるい」

「交渉の余地はない」

 笑いながら、私は白をひと口。
 ココナツの穏やかな甘さが、舌の上で陽だまりになる。

「昔。……ここで、就活の不採用通知を五通まとめて読みました。泣きませんでした」

「泣かなかった理由は」

「泣いたら、次の面接で目が腫れるから」

「合理的だ」

「あなたは?」

「俺は、泣き方を忘れていた」

 淡々とした声。
 もうひとつ、カシスをかじる。甘さの奥から、酸味がひらりと顔を出す。

「もうひとつ。——ここで、最初に“好きかもしれない”って思った人のことを諦めました」

 自分の言葉に、自分で驚く。
 彼はわずかに瞬き、黙って聞いている。
 私は続けた。

「その人が好きだったのは、わたしじゃなくて“わたしが持っていた役割”でした。笑って相槌を打つ子。期待を折る練習を手伝ってくれる子。……それでいいや、って」

「“いいや”は、余白をつぶす言葉だ」

「はい」

 柊真の黒が、一瞬だけ熱を帯びる。
 彼は箱を回し、ピスタチオを指でつまんだ。

「——俺は、役割より前に君を見る」

 指先が、丸い菓子越しに私の視線を掴む。
 胸の奥で、細かな欠片が音もなくほどけていく。
 私は結晶を鳴らしかけ、彼が目で「許す」と合図するのを待って、そっと鳴らした。

「練習は、もう終わりだ。期待を“置く”練習に変えろ」

「置き方、教えてください」

「甘い罰で、少しずつ」

 くすり、と笑いが重なる。
 レジのほうで、店の女性がこっそり親指を立てた。
 窓の外を、冬の学生たちが足早に過ぎていく。肩に雪の代わりの光をのせて。



 昼過ぎ、彼の「今」を見せる時間だと言って、私たちはタクシーで街の中央へ向かった。
 車窓を冬の陽が斜めに流れ、ビルの隙間に薄い青が残る。

 降り立った先は、小さなホール。
 看板には、財団のロゴと、短い文字だけ——『入院児のための午後の音楽』。
 舞台の上には一台のピアノ。客席は、車椅子と白いマスクの小さな顔でいっぱいだ。

「——俺は上手くない」

「知っています」

「だが、“つなぐ”ことは、できる」

 彼はネクタイを外し、黒のジャケットを椅子の背へ。
 銀糸の髪がスポットに薄く縁取られ、指先の雪の結晶の絆創膏は、もう外れている。
 鍵盤に触れる前、一拍の余白。
 息を吸う音が、ホールの隅々に透明な線を引いた。

 最初の音が落ちる。
 昨日、練習室で聴いた“泣かない音”が、今日はやわらかく膨らんでいる。
 進むたび、音の直前と直後に、小さな余白が置かれる。
 そこで息ができる。誰も沈まない。
 小さな手が膝の上でリズムを取り、看護師が静かに頷き、礼子が目を拭った。

 曲が終わると、拍手は小さく、けれど深かった。
 彼は頭を下げ、舞台袖で私を一度だけ見る。
 冷たい微笑みではない。——私だけの合図。

「今の、十でした」

「まだ足りない。——夜に続きがある」

「甘い罰ですか」

「当然だ」



 夕方、ホテルに戻ると、神城が静かに会釈した。
「動線、問題ありません。外部の泡は沈静化。……“期限なし”の効果は絶大です」
「そうだろうな」
 彼は短く返し、私の背に手を添える。温かい壁。
 スイートのドアが閉まると、街の音は遠くなった。

「少し休め。——夜、屋上へ行く」

「はい」

 短い仮眠のあと、黒髪を緩くまとめ、星と鍵を並べる。
 雪の結晶の輪を指でなぞると、胸の内側で小さく鈴が鳴る。
 鏡の向こう、翡翠の目が少し凛として見えた。

 屋上庭園に出ると、夜はやわらかかった。
 冬の星が低く、一つひとつの輪郭がくっきりしている。
 ローズマリーの影が細く伸び、ガラスの縁に街の灯が散る。

「彩音」

「はい」

「七日目の“条文”を、最後に差し替える」

 彼は黒いノートを開き、万年筆を置く。
 白い紙の上に、ゆっくりと文字が生まれる。
 ——『四、“愛は無駄ではない”。毎日、書き直すこと』
 インクが光を飲み、静かに沈んでいく。

「交渉は?」

「ある。——“五、妻が笑ったら勝ち。点数は、妻が決める”」

「ずるい」

「知っている」

 私も、星の栞でページを押さえ、細い字で書き足す。
 ——『六、“おやすみ”は先払いも可。必要に応じて無制限』
 顔を上げると、彼が喉の奥で笑う。

「無制限は危険だ」

「許容量は、あなたが決めていいです」

「俺のために」

「わたしのために」

 視線が、ほどけない。
 影のキスの距離。
 触れないのに、触れた場所が増えていく距離。

「——彩音」

「はい」

「契約は、ここで終わる。……終わりを、始まりにしてくれ」

 言葉が落ちる場所を、夜がそっと支える。
 胸の内側で、鍵が静かに回る音がした。
 私は結晶を鳴らし、許されていることを確かめる。

「“妻は彩音、期限なし”。——あなたが今日、皆の前で言った一次情報が、わたしの“始まり”です」

「なら、もう一つ」

 彼は内ポケットから、薄い紙片を取り出した。
 真っ白なカードに、ほとんど見えないほど細い活字。
 ——『家族カード 氏名:柊 彩音』
 指先が小さく震えた。

「実務だ。だが、実務は大切だ」

「ありがとうございます」

「礼は要らない。俺のためだ」

「知っています。——わたしのためにも」

 夜風がローズマリーを揺らし、香りが一瞬濃くなる。
 彼は私の手首を取り、結晶の輪の上から指を重ねた。

「鳴らせ」

 小さく、確かに。
 鈴の音が星の間へ昇り、余白に吸い込まれていく。

「甘い罰の続きだ。——“十”を、俺にだけ」

「はい」

 眉間から力をほどき、口角を、彼のためだけに上げる。
 今日いちばん静かな十。
 外には一滴もこぼさない十。

「どう、ですか」

「……十分を越えた」

「採点甘めですね」

「甘い罰だからな」

 次の瞬間、額に小さな口づけ。
 昨日と同じ、音のしない重さ。
 けれど今日は、ほんの少しだけ長い。

「おやすみには、まだ早い」

「前払い、増やしてもいいです」

「無制限条項、発動か」

「はい」

 彼はふっと目を細め、視線だけで私を抱きしめる。
 それから、低く、確かに。

「——愛している」

 夜の端で、その二語は刃ではなく、印章のように静かに押された。
 息が、甘くなる。
 胸の奥のどこにも、痛む場所が残っていないのを知る。

「わたしも、愛しています」

 声に出して初めて、世界が輪郭を取り戻す。
 星のピンが微かに震え、鍵のピンが光を拾い、余白の輪が指でぬくもりを覚える。
 七日間の契約は、もうどこにもない。
 残っているのは、条文では書き尽くせない毎日の余白だけ。

「彩音」

「はい」

「倒れるな」

「倒れません」

「離れるな」

「離れません」

「笑え」

「十、取りに行きます。毎日」

「——勝った」

「採点、私ですよ?」

「知っている」

 二人で笑う。
 笑い声は小さく、でも遠くまで届く。
 屋上の隅で街の灯が瞬き、冬の星座が少しだけ近づいた気がした。

 部屋へ戻る動線は、もう“守るための壁”ではない。
 “内側へ帰る道”だ。
 ドアが閉まり、静けさが降りる。
 彼はネクタイを外し、シャツの袖を折り、ソファの端を指で示す。

「ここ」

「はい」

 影のキスの距離で並び、呼吸を合わせる。
 “おやすみ”は、今日から毎晩——先払いでも、後払いでも。
 余白は息をする場所。そこで、誰も沈まない。

 眠りに落ちる前、雪の結晶の輪が小さく鳴った。
 許されている。彼が隣にいる。
 私は目を閉じ、胸の中で新しい条文をひとつだけ加える。

 ——“明日も、甘い罰を”。

 十を、取りに行く。
 彼の隣で。
 離れず、揺れず、愛で。