雨上がりの朝は、窓を一枚洗い直したみたいに澄んでいた。
薄く差す光が、部屋の輪郭を柔らかく磨く。ポットに湯を落とし、ローズマリーとカモミールを半分ずつ。湯気の白が揺れて、胸の奥の余白へそっと降りていく。
雪の結晶チャームを指でなぞると、小さく鳴った。
星のピンと鍵のピンは鏡の端で並び、朝の光を粒のように返している。
「彩音」
背後で低い声。振り向くと、黒のジャケットに淡いシャツの柊真が、手に薄い封筒を持って立っていた。銀糸の髪は雨の気配を少しだけ残し、切れ長の瞳は、いつもより眠たげだ。
「おはようございます。……昨日は、ありがとうございました」
「礼は要らない。俺のためだ」
くすっと笑いかけると、彼は視線を封筒へ落とした。
「——“白い日”の提案だ」
「白い日?」
「予定を塗らない。午前は散歩、午後は短い打合せ一本だけ。夕方からは、俺の余白に付き合え」
「……はい。喜んで」
「よし。十は外に向けなくていい。——内側で、八を守れ」
「八ですね。がんばります」
テーブルへ二人分のカップを置く。ハーブの香りが重なり、部屋の呼吸が深くなる。
いつものように彼は短く飲んで、封筒の中から白い紙を取り出した。
「昨夜、先生の譜面の続きが見つかった」
「続き?」
「“余白の位置は、音の直前と直後に置け”——そう書いてある。……行くぞ」
「どこへ?」
「直前と直後を、見に」
午前の街は、雨に洗われて艶があった。
車は使わず、ホテルから数ブロックを歩く。石畳の隙間に光がはまり、ビル風は思ったよりもやわらかい。
角を曲がると、小さな花屋が路地に開いていた。軒先に並ぶのは白い小花とハーブの束。ローズマリーがささやき、タイムが甘く笑っている。
「入るか」
「はい」
鈴の音。
花屋の女性がにこやかに会釈し、私たちの足元へ水の匂いが寄ってくる。
私はローズマリーを一本手に取り、顔を近づけた。
「——“覚えた”」
横で低い声がした。
彼は私の指先を見て、ほんの少しだけ目を細める。
「柊真さんは、どれが好きですか」
「白いもの」
「白いもの?」
「花でも余白でも」
さりげないひと言が胸の奥へ落ち、音を立てずに広がる。
私は迷って、白いワックスフラワーの小さな束と、ローズマリーを少し。星のような白と、澄む香りを包んでもらう。
店を出ると、彼は袋を半分持つ仕草でさりげなく受け取り、歩幅を半歩分緩めた。
「次」
「次は、どこへ」
「本屋だ」
通りの角の小さな書店。木の棚に、白い背表紙が多い。
詩集の棚で指を滑らせると、紙の余白が次々と指先に触れていく。
彼は文具のコーナーから、無地の黒いノートと細い万年筆を一つずつ持ってきた。
「余白を買い戻すのに必要な道具だ」
「ノートに、何を書きますか」
「お前が言った“朝の湯気”とか“蜂蜜の一滴”とか。……“おやすみ”も」
言葉の端が、照れている。
私は本棚から小さな栞を取り、星の柄と鍵の柄の二枚を選んだ。
「これも、道具に追加しましょう」
「覚えた」
会計を済ませ、紙袋を両手で持つ。
彼は指先で袋の底を支えながら、さりげなく肩が触れない距離を維持した。——影のキスより、少し離れた距離。
「直前は見た。直後は、午後に」
「直後?」
「昼のあと、短い打合せがある。そこで噂がひとつ、終わる」
彼は薄く笑った。冷たい微笑みではない。
予告のような、合図のような笑い。
正午を少し回った頃、社内の小さなホールへ入る。
社員向けのタウンホール。今回は全社中継なし、対面のみ。
前列に礼子がひっそり座っていて、私に目を細めてみせた。
神城が最短の導線で私たちを席に案内し、柊真は登壇する。
「本日は、今後の外部アカウントの方針と、——一件、私的な声明を」
静かなざわめき。
彼は視線を正面へ置き、呼吸を一度だけ整えた。
「“契約”という言葉が流布されている。反論はしない。言葉は、泡だ。
ただし、ここにいる皆にだけは、一次情報を渡す。——私の妻は、彩音だ。期限はない」
ホールに落ちた静寂は、驚くほど優しかった。
誰かが小さく息を呑み、礼子の指先が膝の上で微かに震えた気がした。
神城が「以上です」と短く締め、拍手が波のように広がる。
私は座ったまま、掌の中で結晶の輪をそっと鳴らした。
許されている。彼が隣にいる。——だから、鳴らしていい。
壇上から降りるとき、彼が私の目を見た。
冷たい微笑みではなく、内側だけの八分の笑い。
「行くぞ。——直後を見に」
午後。
車は街の端へ出て、昨日とは別の古い建物の前で止まった。
エレベーターのない石段を登り切ると、そこは小さな屋上の温室だった。
ガラス越しの冬光は薄いのに、ハーブの葉は生き生きと伸びている。
ローズマリー、ミント、セージ——そして白い可憐な花。
「ここ、素敵……」
「財団が借りている屋上だ。リハビリの一環で、土と匂いに触れるセッションを」
彼の声が少し柔らかくなる。
温室の真ん中のベンチに腰を下ろすと、ガラスに当たる風の音が遠くなった。
「——直後の話だ」
「はい」
「今朝、母に伝えた。“期限はない”と。母は“内側から鍵を外せたわね”と言った」
「礼子さん、さすがです」
「余計なお世話だ」
同じ台詞。けれど、甘さは濃くなっている。
彼はポケットから黒いノートを出し、最初のページを開いた。
白い紙の真ん中に、ゆっくりと万年筆を置く。
——『余白の一行目:妻の名』
インクが紙へしみる音が、聞こえた気がした。
「彩音」
「はい」
「契約の条文を、差し替える。
一、“離れるな”。期限なし。
二、“おやすみ”は毎晩。
三、——“俺の手を覚えろ”。忘れたら罰」
「罰、ですか」
「甘い罰」
「内容は?」
「俺が決める」
「不公平です」
「交渉するか」
「します」
彼がわずかに口角を上げる。
私は星の栞を指に挟み、黒いノートの次の行に目を落とした。
「わたしの条文。
一、“信じる”は、疑いより先に置く。
二、“あなたの余白”に、朝の湯気を一滴、置く権利。
三、“鳴らす”の権利は、あなたの隣にいるときだけ。——ただし、うれしい時は例外」
「特例が多い」
「予備条項は大切です」
くすっと笑うと、温室の空気まで明るくなった気がした。
彼は私の手首を取り、結晶の輪の上からそっと指を重ねる。
「鳴らせ」
ちいさく、確かに。
鈴の音が、ガラスの天井へふわりと上がり、薄い光の中へ溶けていく。
「——直後は、こうやって決める。音のあとに、余白で」
「はい」
「夕方、ひとつだけ打合せに出る。三十分で戻る。……その間、眠れ」
「命令形」
「俺のためだ」
「はい。——あなたのために」
言葉のやり取りは、長く伸びるローズマリーの影みたいに、柔らかく絡み合う。
夕方、彼は温室から出る直前に、私の前髪の鍵を一度だけ見た。
「外してもいいし、つけたままでもいい。鍵の使い方は、君が決めろ」
「今日は、つけておきます」
「覚えた」
ホテルへ戻る動線は神城に綺麗に整えられていた。
スイートで短い仮眠をとり、起きると窓の端に夕焼けの色が薄く残っている。
テーブルの上には、蜂蜜と、白い皿に小さなマカロンが二つ。
付箋——『甘い罰。起きたら食べろ。柊』
思わず笑って、半分だけ口に入れる。
外はさくり、中はやわらかい。舌に広がる甘さが、胸の奥まで波紋を広げた。
ドアロックが回る音。
彼が戻ってくる。黒のコートを脱ぎ、手を洗い、短い視線で部屋の隅々を確認する。
目が合うと、緊張がほどけた。
「早かったですね」
「鳴らしたか」
「一回だけ。——特例です」
「許す」
彼はコートの内ポケットから細い箱を取り出し、私の手に置いた。
開けると、極小の星粒を繋いだ、極細のリングがひとつ。
指へ通すには頼りないほど繊細で、光の線みたいに見える。
「これは……」
「“余白の輪”。——契約ではない。印だ」
「印……」
息が細くなる。
彼は視線を落とし、低く言った。
「“妻は彩音、期限なし”。今日、言葉にした。
これも同じだ。俺が忘れないための印。……指、貸せ」
私は右手を差し出す。
彼の指が私の薬指の根元を一度撫で、リングがすっと、静かにおさまった。
雪の結晶の輪が手首で細く鳴り、星のピンの粒が鏡の端で震える。
「似合う」
「ありがとうございます」
「礼は要らない。——俺のためだ」
言いながら、彼の黒はほんの少しだけ揺れた。
嫉妬の夜に見た危うい光ではなく、遠い灯台みたいに確かな光。
「彩音」
「はい」
「“十”を、俺にだけ見せろ」
「今、ですか」
「今だ」
私は立ち上がり、彼の正面に一歩進む。
眉間から力をほどき、口角を——彼が好きだと言った分だけ、上げる。
内側の八を基に、外に向けない十を、静かに。
「どう、ですか」
彼はすぐには答えず、視線で余白を一拍分だけ置いた。
そして、低く、確かに。
「——十だ」
合図のあと、彼はほんのわずか近づいた。
影のキスの距離。
触れないのに、皮膚が触れたみたいに熱を持つ距離。
けれど今日は、その半歩だけ、詩のように進む。
額に、軽い口づけ。
音がしないほど軽く、でも忘れられない重さで。
「おやすみには早いが、前払いだ」
耳元で囁かれて、胸の奥がひとつ跳ねた。
「……前払い、受け取りました」
「倒れるな」
「倒れません」
彼はネクタイを緩め、ソファの端に腰を下ろした。
私は隣に座り、肩が触れない距離を守る。
影のキスと、印と、余白。
それらが同じ場所に座る夜。
「明日は」
「七日目、ですね」
言葉にすると、空気がほんの少し張る。
彼はその張りを片手で払うみたいに、短く言った。
「終わりではない。始まりにする。——午前は静かに、午後に一件、俺のわがまま」
「わがまま?」
「“君の好きな場所”を、もう一度。……君の“昔”に触れたい」
涼の顔が、一瞬だけ脳裏を掠める。
私は結晶を鳴らしかけて、彼の隣にいることを確かめ、そっと鳴らした。
特例。許されている。
「わたしの昔は、あなたの今を邪魔しませんか」
「しない。——測らせないのは、俺の役目だ」
短い言葉のあと、静けさが落ちる。
窓の向こうで、街が夜の星座を描き始めた。
リングの星粒が、灯りを小さく拾う。
「彩音」
「はい」
「“愛されることは無駄ではない”。——今日、もう一度書いた」
「ノートに?」
「ああ。直後の余白に」
胸のどこかで、鍵が静かに回る。
星と鍵と雪の結晶——三つの小さな音が、同時に鳴った気がした。
「おやすみ、は」
「後払いにする」
「ずるい」
「知っている」
二人で笑う。
甘さは、罰のかたちをして。
罰は、合図のかたちをして。
七日目の手前の夜は、思ったより静かだった。
私はソファの背にもたれ、ゆっくりと目を閉じる。
額の、軽い記憶が、まだそこにある。
——明日は、始まりにする。
十を取りに行く。
彼の隣で。
離れず、揺れず、余白を抱いて。
薄く差す光が、部屋の輪郭を柔らかく磨く。ポットに湯を落とし、ローズマリーとカモミールを半分ずつ。湯気の白が揺れて、胸の奥の余白へそっと降りていく。
雪の結晶チャームを指でなぞると、小さく鳴った。
星のピンと鍵のピンは鏡の端で並び、朝の光を粒のように返している。
「彩音」
背後で低い声。振り向くと、黒のジャケットに淡いシャツの柊真が、手に薄い封筒を持って立っていた。銀糸の髪は雨の気配を少しだけ残し、切れ長の瞳は、いつもより眠たげだ。
「おはようございます。……昨日は、ありがとうございました」
「礼は要らない。俺のためだ」
くすっと笑いかけると、彼は視線を封筒へ落とした。
「——“白い日”の提案だ」
「白い日?」
「予定を塗らない。午前は散歩、午後は短い打合せ一本だけ。夕方からは、俺の余白に付き合え」
「……はい。喜んで」
「よし。十は外に向けなくていい。——内側で、八を守れ」
「八ですね。がんばります」
テーブルへ二人分のカップを置く。ハーブの香りが重なり、部屋の呼吸が深くなる。
いつものように彼は短く飲んで、封筒の中から白い紙を取り出した。
「昨夜、先生の譜面の続きが見つかった」
「続き?」
「“余白の位置は、音の直前と直後に置け”——そう書いてある。……行くぞ」
「どこへ?」
「直前と直後を、見に」
午前の街は、雨に洗われて艶があった。
車は使わず、ホテルから数ブロックを歩く。石畳の隙間に光がはまり、ビル風は思ったよりもやわらかい。
角を曲がると、小さな花屋が路地に開いていた。軒先に並ぶのは白い小花とハーブの束。ローズマリーがささやき、タイムが甘く笑っている。
「入るか」
「はい」
鈴の音。
花屋の女性がにこやかに会釈し、私たちの足元へ水の匂いが寄ってくる。
私はローズマリーを一本手に取り、顔を近づけた。
「——“覚えた”」
横で低い声がした。
彼は私の指先を見て、ほんの少しだけ目を細める。
「柊真さんは、どれが好きですか」
「白いもの」
「白いもの?」
「花でも余白でも」
さりげないひと言が胸の奥へ落ち、音を立てずに広がる。
私は迷って、白いワックスフラワーの小さな束と、ローズマリーを少し。星のような白と、澄む香りを包んでもらう。
店を出ると、彼は袋を半分持つ仕草でさりげなく受け取り、歩幅を半歩分緩めた。
「次」
「次は、どこへ」
「本屋だ」
通りの角の小さな書店。木の棚に、白い背表紙が多い。
詩集の棚で指を滑らせると、紙の余白が次々と指先に触れていく。
彼は文具のコーナーから、無地の黒いノートと細い万年筆を一つずつ持ってきた。
「余白を買い戻すのに必要な道具だ」
「ノートに、何を書きますか」
「お前が言った“朝の湯気”とか“蜂蜜の一滴”とか。……“おやすみ”も」
言葉の端が、照れている。
私は本棚から小さな栞を取り、星の柄と鍵の柄の二枚を選んだ。
「これも、道具に追加しましょう」
「覚えた」
会計を済ませ、紙袋を両手で持つ。
彼は指先で袋の底を支えながら、さりげなく肩が触れない距離を維持した。——影のキスより、少し離れた距離。
「直前は見た。直後は、午後に」
「直後?」
「昼のあと、短い打合せがある。そこで噂がひとつ、終わる」
彼は薄く笑った。冷たい微笑みではない。
予告のような、合図のような笑い。
正午を少し回った頃、社内の小さなホールへ入る。
社員向けのタウンホール。今回は全社中継なし、対面のみ。
前列に礼子がひっそり座っていて、私に目を細めてみせた。
神城が最短の導線で私たちを席に案内し、柊真は登壇する。
「本日は、今後の外部アカウントの方針と、——一件、私的な声明を」
静かなざわめき。
彼は視線を正面へ置き、呼吸を一度だけ整えた。
「“契約”という言葉が流布されている。反論はしない。言葉は、泡だ。
ただし、ここにいる皆にだけは、一次情報を渡す。——私の妻は、彩音だ。期限はない」
ホールに落ちた静寂は、驚くほど優しかった。
誰かが小さく息を呑み、礼子の指先が膝の上で微かに震えた気がした。
神城が「以上です」と短く締め、拍手が波のように広がる。
私は座ったまま、掌の中で結晶の輪をそっと鳴らした。
許されている。彼が隣にいる。——だから、鳴らしていい。
壇上から降りるとき、彼が私の目を見た。
冷たい微笑みではなく、内側だけの八分の笑い。
「行くぞ。——直後を見に」
午後。
車は街の端へ出て、昨日とは別の古い建物の前で止まった。
エレベーターのない石段を登り切ると、そこは小さな屋上の温室だった。
ガラス越しの冬光は薄いのに、ハーブの葉は生き生きと伸びている。
ローズマリー、ミント、セージ——そして白い可憐な花。
「ここ、素敵……」
「財団が借りている屋上だ。リハビリの一環で、土と匂いに触れるセッションを」
彼の声が少し柔らかくなる。
温室の真ん中のベンチに腰を下ろすと、ガラスに当たる風の音が遠くなった。
「——直後の話だ」
「はい」
「今朝、母に伝えた。“期限はない”と。母は“内側から鍵を外せたわね”と言った」
「礼子さん、さすがです」
「余計なお世話だ」
同じ台詞。けれど、甘さは濃くなっている。
彼はポケットから黒いノートを出し、最初のページを開いた。
白い紙の真ん中に、ゆっくりと万年筆を置く。
——『余白の一行目:妻の名』
インクが紙へしみる音が、聞こえた気がした。
「彩音」
「はい」
「契約の条文を、差し替える。
一、“離れるな”。期限なし。
二、“おやすみ”は毎晩。
三、——“俺の手を覚えろ”。忘れたら罰」
「罰、ですか」
「甘い罰」
「内容は?」
「俺が決める」
「不公平です」
「交渉するか」
「します」
彼がわずかに口角を上げる。
私は星の栞を指に挟み、黒いノートの次の行に目を落とした。
「わたしの条文。
一、“信じる”は、疑いより先に置く。
二、“あなたの余白”に、朝の湯気を一滴、置く権利。
三、“鳴らす”の権利は、あなたの隣にいるときだけ。——ただし、うれしい時は例外」
「特例が多い」
「予備条項は大切です」
くすっと笑うと、温室の空気まで明るくなった気がした。
彼は私の手首を取り、結晶の輪の上からそっと指を重ねる。
「鳴らせ」
ちいさく、確かに。
鈴の音が、ガラスの天井へふわりと上がり、薄い光の中へ溶けていく。
「——直後は、こうやって決める。音のあとに、余白で」
「はい」
「夕方、ひとつだけ打合せに出る。三十分で戻る。……その間、眠れ」
「命令形」
「俺のためだ」
「はい。——あなたのために」
言葉のやり取りは、長く伸びるローズマリーの影みたいに、柔らかく絡み合う。
夕方、彼は温室から出る直前に、私の前髪の鍵を一度だけ見た。
「外してもいいし、つけたままでもいい。鍵の使い方は、君が決めろ」
「今日は、つけておきます」
「覚えた」
ホテルへ戻る動線は神城に綺麗に整えられていた。
スイートで短い仮眠をとり、起きると窓の端に夕焼けの色が薄く残っている。
テーブルの上には、蜂蜜と、白い皿に小さなマカロンが二つ。
付箋——『甘い罰。起きたら食べろ。柊』
思わず笑って、半分だけ口に入れる。
外はさくり、中はやわらかい。舌に広がる甘さが、胸の奥まで波紋を広げた。
ドアロックが回る音。
彼が戻ってくる。黒のコートを脱ぎ、手を洗い、短い視線で部屋の隅々を確認する。
目が合うと、緊張がほどけた。
「早かったですね」
「鳴らしたか」
「一回だけ。——特例です」
「許す」
彼はコートの内ポケットから細い箱を取り出し、私の手に置いた。
開けると、極小の星粒を繋いだ、極細のリングがひとつ。
指へ通すには頼りないほど繊細で、光の線みたいに見える。
「これは……」
「“余白の輪”。——契約ではない。印だ」
「印……」
息が細くなる。
彼は視線を落とし、低く言った。
「“妻は彩音、期限なし”。今日、言葉にした。
これも同じだ。俺が忘れないための印。……指、貸せ」
私は右手を差し出す。
彼の指が私の薬指の根元を一度撫で、リングがすっと、静かにおさまった。
雪の結晶の輪が手首で細く鳴り、星のピンの粒が鏡の端で震える。
「似合う」
「ありがとうございます」
「礼は要らない。——俺のためだ」
言いながら、彼の黒はほんの少しだけ揺れた。
嫉妬の夜に見た危うい光ではなく、遠い灯台みたいに確かな光。
「彩音」
「はい」
「“十”を、俺にだけ見せろ」
「今、ですか」
「今だ」
私は立ち上がり、彼の正面に一歩進む。
眉間から力をほどき、口角を——彼が好きだと言った分だけ、上げる。
内側の八を基に、外に向けない十を、静かに。
「どう、ですか」
彼はすぐには答えず、視線で余白を一拍分だけ置いた。
そして、低く、確かに。
「——十だ」
合図のあと、彼はほんのわずか近づいた。
影のキスの距離。
触れないのに、皮膚が触れたみたいに熱を持つ距離。
けれど今日は、その半歩だけ、詩のように進む。
額に、軽い口づけ。
音がしないほど軽く、でも忘れられない重さで。
「おやすみには早いが、前払いだ」
耳元で囁かれて、胸の奥がひとつ跳ねた。
「……前払い、受け取りました」
「倒れるな」
「倒れません」
彼はネクタイを緩め、ソファの端に腰を下ろした。
私は隣に座り、肩が触れない距離を守る。
影のキスと、印と、余白。
それらが同じ場所に座る夜。
「明日は」
「七日目、ですね」
言葉にすると、空気がほんの少し張る。
彼はその張りを片手で払うみたいに、短く言った。
「終わりではない。始まりにする。——午前は静かに、午後に一件、俺のわがまま」
「わがまま?」
「“君の好きな場所”を、もう一度。……君の“昔”に触れたい」
涼の顔が、一瞬だけ脳裏を掠める。
私は結晶を鳴らしかけて、彼の隣にいることを確かめ、そっと鳴らした。
特例。許されている。
「わたしの昔は、あなたの今を邪魔しませんか」
「しない。——測らせないのは、俺の役目だ」
短い言葉のあと、静けさが落ちる。
窓の向こうで、街が夜の星座を描き始めた。
リングの星粒が、灯りを小さく拾う。
「彩音」
「はい」
「“愛されることは無駄ではない”。——今日、もう一度書いた」
「ノートに?」
「ああ。直後の余白に」
胸のどこかで、鍵が静かに回る。
星と鍵と雪の結晶——三つの小さな音が、同時に鳴った気がした。
「おやすみ、は」
「後払いにする」
「ずるい」
「知っている」
二人で笑う。
甘さは、罰のかたちをして。
罰は、合図のかたちをして。
七日目の手前の夜は、思ったより静かだった。
私はソファの背にもたれ、ゆっくりと目を閉じる。
額の、軽い記憶が、まだそこにある。
——明日は、始まりにする。
十を取りに行く。
彼の隣で。
離れず、揺れず、余白を抱いて。

