朝の空は、薄いミルクに雨粒をひとしずく落としたみたいに、やわらかく濁っていた。
窓の向こうに滲む街を眺めながら、私はポットへ湯を落とす。ローズマリーとカモミールを半分ずつ。湯気が頬を撫で、胸の奥の輪郭をまるくしていく。
雪の結晶チャームを指でなぞると、小さく鳴った。
昨夜、彼の声で降りてきた「おやすみ」が、再びそこからほどける気がした。
「彩音」
背後から落ちてくる低い声に振り向くと、黒のジャケットに淡いグレーのタイを締めた柊真が、扉口に立っていた。銀糸の髪が雨の光を細く拾い、切れ長の黒は、眠りの浅さをわずかに隠している。
「今日は午前中だけ出る。午後はここに戻る」
「お忙しいのに、ありがとうございます」
「礼は要らない。俺のためだ」
言い慣れたやり取りに、口元が自然と緩む。
彼は視線を私の手首に落とし、結晶の輪が脈に合わせて震えるのを確かめるように見た。
「——鳴らすのは、俺がいる前だけにしろ」
「……はい」
軽く頷くと、彼はわずかに目を細めた。
「十を取れ。外には見せなくていい。——内側で」
「努力します」
「今日は“努力”じゃない。“素直”で行け」
素直。
昨夜の“欲で行け”とは別の角度で、胸の内側を明るくする言葉だった。
彼が玄関へ向かう。
ふと思い出したように振り返り、テーブルに細い箱を置く。
「忘れていた。——母が“内側から鍵を外せ”と言っていた」
「れ、礼子さんが?」
「余計なお世話だ」
ぶっきらぼうな語尾に、隠し切れない甘さが混じる。
箱の中には、銀の細いキーモチーフのピン——前髪用。
星のピンの隣に、鍵のピン。胸の奥で、カチ、と小さな音がした気がした。
「行ってくる。——離れるな」
「離れません」
扉が閉まる。
雨脚が少し強くなり、窓が薄く震えた。
午前は静かに過ぎた。
簡単なメールの返事を書き、詩集のページを数枚めくり、湯気の薄い白を目で追う。
昼前、神城が短く連絡を入れてきた。「柊様、十三時半帰着予定。奥様はご無理のない範囲で」。
“無理のない範囲”。その言い方が、いつも私を安心させる。
スイートの奥の小さな書斎に、薄い明かりが落ちていた。
窓際の一人掛けの椅子にブランケット。壁には白黒の写真が一枚——さざ波立つ海面。
雨で暗くなった室内に、紙の匂いがわずかに濃くなる。
机の上に、黒い表紙のノートが一冊置かれていた。
革の表紙はよく使われた跡があり、角がやわらかく丸い。
——開くつもりは、なかった。ただ、片づけようとして手に取った。
そのとき、薄い付箋がするりと滑り落ち、ぱらり、と偶然ページがめくれた。
視線が止まる。
インクの色が、時期ごとに少しずつちがう。同じ字。
ページの上のほうに、小さな日付。
十歳の頃、と記された行の横に、稚い字でこうあった。
『笑う練習。泣かない練習。壁の練習』
喉の奥で、何かが音を立てる。
ページを戻すべきだと思った。けれど、次の行が視界に引っかかった。
『父は言った。余白は役に立たない』
余白——。
詩集の白い余白を、さっきまで愛おしんでいた自分と、遠い対岸の言葉。
指先が、震える。
ページの中ほどには、薄いトレーシングペーパーが挟まれていた。
透ける紙の向こうに、小さな五線譜。
上に青いインクで、たった一言。
『音でつなげ。——先生』
昨日の練習室の、古い木の匂いが蘇る。
“上手いと言わなかった先生”。
“上手くならなくていい、君はつなぐから”。
あの言葉が、たしかにここに刻まれている。
めくる。
——十八歳。
するどく整った字は、もう稚くない。
『愛されることは無駄だ。
期待は債務。
約束は交渉。
心はコスト。』
墨の色が、朝の雨より冷たく見えた。
胸の真ん中で、薄い紙が裂ける音がする。
“愛されることは無駄”。
その断言は、笑って読み飛ばせる種類の強がりには思えなかった。
ページの下に、消えかけた鉛筆の走り書きがある。
——『それでも、いつか“余白”を買い戻したい。』
その文字だけ、ほんの少し震えていた。
私は反射的にノートを閉じた。
掌の上で、革の表紙が重さを取り戻す。
自分の指先が白んでいる。
深く息を吸い、吐いた。
——見てしまった。
誤解の余地もないほどに、彼の内側を。
「彩音?」
書斎の入口から名前を呼ぶ声がして、心臓が跳ねた。
振り向くと、濡れたコートを腕に掛けた柊真が立っていた。銀糸の髪に雨の気配が残り、黒い瞳は私の手元へ落ちる。
彼の視線と、ノート。
世界が、短く止まる。
「……ごめんなさい」
自分でも驚くほど素直な声が出た。
「片づけようとして、開いてしまって。意図はなくて。——でも、見てしまいました」
彼は一度だけ瞬きをして、部屋の中へ足を踏み入れた。
怒りはない。
けれど、空気が少しだけ張り詰める。
「どこまで」
「“壁の練習”と、“余白は役に立たない”。それから——」
言葉が喉に詰まる。
彼は、目で続きを促す。
「“愛されることは無駄だ”。……そして、“余白を買い戻したい”」
短い沈黙。
雨の音が、ガラスに小さなリズムを刻む。
「古いノートだ」
彼の声は低く、乾いていた。
怒ってはいない。ただ、遠い場所から物を言うみたいな声。
「捨てようとして、捨てなかった」
「どうして、捨てなかったんですか」
「——余白の在庫を、確かめるためだ」
たった一度だけ、彼は笑いに似た息を吐いた。
笑いと言うには温度が足りず、ため息と言うには甘さがあった。
「父は、余白を嫌った。数字も、時間も、感情も。白いところは全部、黒で塗れ、と。
俺は従った。従うことで、守れるものがあった。
だから“壁”を練習した。冷たい微笑みは、最初に覚えた防具だ」
礼子さんの言葉——“届かない壁”。
胸の奥で、鍵のピンが微かに鳴った気がした。
「でも、先生は“音でつなげ”と言った」
「先生は、余白の人だった。音と音の間にある、何もない場所を一番信じていた。
——俺は、怖かった。そこに立ち止まるのが」
彼はノートへ目を落とし、ゆっくりと閉じた。
そしてそれを、元の場所より少しだけ手前に置く。
“ここにある”と自分にも言い聞かせるように。
「彩音」
「はい」
「怒っているか」
「いいえ」
即答だった。
驚いたのは自分だ。
怒りより先に、込み上げてきたのは別のもの——胸の中の、知らない場所がきゅっと痛む感覚。
十歳の彼の字が、指の腹に残っている。
「わたし……期待を折って生きる練習を、長いあいだしてきました。
期待すると、痛いから。
でも、あなたといると“期待してもいいかもしれない”って思う瞬間が、毎日少しずつ増えていく」
彼の黒が、ほんの一瞬だけ揺れる。
「余白を、買い戻すのをお手伝いさせてください。
数字でも交渉でもない、白いところ。
例えば、朝の湯気とか、蜂蜜の一滴とか、——“おやすみ”とか」
静かな沈黙。
雨の粒のひとつひとつに、音がある気がした。
「俺は、うまくない」
「知っています」
「壁のほうが、速い」
「でも、音は遠くまで届きます」
彼は小さく目を伏せ、それからこちらへ近づいてくる。
書斎の灯りが、銀糸の髪に薄く滲む。
「——見られて、困るものではない。怒ってはいない。……驚いた」
「わたしもです」
ふ、と彼の口元が動いた。
笑いではなく、緊張を解く合図みたいな微かな震え。
「彩音」
「はい」
「母は“内側から鍵を外せ”と言ったそうだ」
「ええ」
「鍵は、渡した。——外すかどうかは、お前が決めろ」
手の中の鍵のピンが、ほんのわずか重みを持つ。
私は頷き、ピンを前髪の横へ差した。
星と、鍵。
鏡に映る自分が、少しだけ凛として見えた。
「午後は?」
「あなたの隣で、静かにします」
「いい返事だ。……昼を食べていない」
「作ります。——と言っても、簡単なものしか」
「俺のために」
「わたしのために」
彼が喉の奥でくすりと笑い、頷いた。
キッチンに、バターを落とす。
薄く切ったパンを焼き、はちみつを少し。スープは野菜を煮て、塩をひとつまみ。
火のそばで、彼が静かに座っている気配がする。
“壁”よりも、ずっと静かで、ずっと近い気配。
「——少し、見ていていいか」
「もちろん」
「手の動きを、覚えたい」
「どうして」
「すぐに真似できることと、真似できないことがある。……これは、真似できない」
どこか照れた声に、笑いがこぼれる。
目玉焼きの黄身がとろりと揺れ、ローズマリーをひとつまみ散らす。
皿に盛りつけると、彼はまっすぐに「ありがとう」と言った。
「礼は——」
「言わせる」
「はい」
二人で向かい合って食べる。
スプーンが陶器に触れる小さな音が、雨音に整然と混ざっていく。
食後、リビングへ戻ると、彼はソファの片側へ腰を下ろした。
私は反対側に座り、距離を——影のキスの手前に置く。
結晶の輪が、脈に合わせて小さく震える。
“鳴らしていい”条件は満たされている。
それでも私は、少しだけ我慢した。鳴らしたい衝動を、甘い余白に溶かす。
「彩音」
「はい」
「今日、十は要らない」
「え?」
「外に向ける十じゃなくていい。——内側の八で、十分だ」
八。
心が、ふっとほどける。
私は眉間の力を抜いて、口角を、ほんの少しだけ上げた。
それは誰に向けるでもない笑い方。彼の前でしか作らない形。
「今のは?」
「……十だ」
「ずるい」
「知っている」
目が合い、すぐにはほどけない。
静けさが、音のない音楽みたいに部屋に満ちる。
ふと彼が立ち上がり、書斎へ行って戻ってきた。
手には、先ほどの黒いノート——ではなく、薄い封筒がある。
「これは、先生から最後にもらった譜面のコピーだ。
見るか」
「見たいです」
封筒から出てきたのは、短い旋律。
昨日、練習室で聴いた“泣かない音”によく似ている。
譜面の端に、青いインクで一文。
『余白は、息をする場所。そこでは誰も、沈まない』
胸の奥が、温度で満ちる。
私はそっと封筒を閉じ、両手で抱えた。
「ありがとう」
「礼は——」
「言わせてください」
彼は視線を逸らし、ソファの背に片腕をかける。
その仕草に、はじめて会った夜の冷たさはもうない。
かわりに、今ここにある呼吸が重なっている。
「彩音」
「はい」
「“愛されることは無駄だ”。——書いたのは事実だ」
「……はい」
「だが、訂正する。“無駄ではない”と、今は思う」
言葉が、印章のように静かに押される。
私は返事を探して、見つけられなくて、結晶の輪を——小さく、鳴らした。
「許す」
「特例、ですか」
「俺が隣にいる」
ふたりで、ほんの少し笑う。
雨が弱まり、雲が薄く割れ始めた。
そのとき、神城から短いメッセージ。
“本日の外部動線、問題なし。明朝はオフ推奨”。
私は画面を彼へ向け、彼は即座に「了解」とだけ返した。
「——少し眠るか」
「はい」
立ち上がろうとして、テーブルの端に置いた封筒を滑らせ、あやうく床へ落としそうになる。
反射で伸ばした私の手と、同時に伸びた彼の手。
紙片は宙で止まり、二人の指が、その細い端で重なった。
触れた手。
影のキスより、確かな温度。
皮膚がゆっくりと、それを覚えていく。
「彩音」
「……はい」
「倒れるな」
「倒れません」
手は離れた。
けれど、離れた先にも、温度の跡が残った。
ベッドルームの扉へ向かう前、私は前髪の“鍵”にそっと触れた。
星の隣で、小さな鍵が光を拾う。
——内側から、鍵を。
余白は、息をする場所。
そこで、誰も沈まない。
横になり、瞼を閉じる。
遠くで、雨雲の切れ間から差す光が、部屋の端を撫でた気がした。
私は小さく息を吐き、胸のなかで新しい条文をひとつ、静かに加える。
“愛されることは、無駄ではない”。
“信じることは、余白を生む”。
“手は、触れれば覚える”。
眠りの縁で、彼の低い声が、昨日よりも少し近くで囁いたような気がした。
「——いい子だ」
次の章で、たぶん私は知るだろう。
“触れた手”が、どれほど多くのものをつないでしまうのかを。
十を、取りに行く。
彼の隣で。
離れず、揺れず、素直で。
窓の向こうに滲む街を眺めながら、私はポットへ湯を落とす。ローズマリーとカモミールを半分ずつ。湯気が頬を撫で、胸の奥の輪郭をまるくしていく。
雪の結晶チャームを指でなぞると、小さく鳴った。
昨夜、彼の声で降りてきた「おやすみ」が、再びそこからほどける気がした。
「彩音」
背後から落ちてくる低い声に振り向くと、黒のジャケットに淡いグレーのタイを締めた柊真が、扉口に立っていた。銀糸の髪が雨の光を細く拾い、切れ長の黒は、眠りの浅さをわずかに隠している。
「今日は午前中だけ出る。午後はここに戻る」
「お忙しいのに、ありがとうございます」
「礼は要らない。俺のためだ」
言い慣れたやり取りに、口元が自然と緩む。
彼は視線を私の手首に落とし、結晶の輪が脈に合わせて震えるのを確かめるように見た。
「——鳴らすのは、俺がいる前だけにしろ」
「……はい」
軽く頷くと、彼はわずかに目を細めた。
「十を取れ。外には見せなくていい。——内側で」
「努力します」
「今日は“努力”じゃない。“素直”で行け」
素直。
昨夜の“欲で行け”とは別の角度で、胸の内側を明るくする言葉だった。
彼が玄関へ向かう。
ふと思い出したように振り返り、テーブルに細い箱を置く。
「忘れていた。——母が“内側から鍵を外せ”と言っていた」
「れ、礼子さんが?」
「余計なお世話だ」
ぶっきらぼうな語尾に、隠し切れない甘さが混じる。
箱の中には、銀の細いキーモチーフのピン——前髪用。
星のピンの隣に、鍵のピン。胸の奥で、カチ、と小さな音がした気がした。
「行ってくる。——離れるな」
「離れません」
扉が閉まる。
雨脚が少し強くなり、窓が薄く震えた。
午前は静かに過ぎた。
簡単なメールの返事を書き、詩集のページを数枚めくり、湯気の薄い白を目で追う。
昼前、神城が短く連絡を入れてきた。「柊様、十三時半帰着予定。奥様はご無理のない範囲で」。
“無理のない範囲”。その言い方が、いつも私を安心させる。
スイートの奥の小さな書斎に、薄い明かりが落ちていた。
窓際の一人掛けの椅子にブランケット。壁には白黒の写真が一枚——さざ波立つ海面。
雨で暗くなった室内に、紙の匂いがわずかに濃くなる。
机の上に、黒い表紙のノートが一冊置かれていた。
革の表紙はよく使われた跡があり、角がやわらかく丸い。
——開くつもりは、なかった。ただ、片づけようとして手に取った。
そのとき、薄い付箋がするりと滑り落ち、ぱらり、と偶然ページがめくれた。
視線が止まる。
インクの色が、時期ごとに少しずつちがう。同じ字。
ページの上のほうに、小さな日付。
十歳の頃、と記された行の横に、稚い字でこうあった。
『笑う練習。泣かない練習。壁の練習』
喉の奥で、何かが音を立てる。
ページを戻すべきだと思った。けれど、次の行が視界に引っかかった。
『父は言った。余白は役に立たない』
余白——。
詩集の白い余白を、さっきまで愛おしんでいた自分と、遠い対岸の言葉。
指先が、震える。
ページの中ほどには、薄いトレーシングペーパーが挟まれていた。
透ける紙の向こうに、小さな五線譜。
上に青いインクで、たった一言。
『音でつなげ。——先生』
昨日の練習室の、古い木の匂いが蘇る。
“上手いと言わなかった先生”。
“上手くならなくていい、君はつなぐから”。
あの言葉が、たしかにここに刻まれている。
めくる。
——十八歳。
するどく整った字は、もう稚くない。
『愛されることは無駄だ。
期待は債務。
約束は交渉。
心はコスト。』
墨の色が、朝の雨より冷たく見えた。
胸の真ん中で、薄い紙が裂ける音がする。
“愛されることは無駄”。
その断言は、笑って読み飛ばせる種類の強がりには思えなかった。
ページの下に、消えかけた鉛筆の走り書きがある。
——『それでも、いつか“余白”を買い戻したい。』
その文字だけ、ほんの少し震えていた。
私は反射的にノートを閉じた。
掌の上で、革の表紙が重さを取り戻す。
自分の指先が白んでいる。
深く息を吸い、吐いた。
——見てしまった。
誤解の余地もないほどに、彼の内側を。
「彩音?」
書斎の入口から名前を呼ぶ声がして、心臓が跳ねた。
振り向くと、濡れたコートを腕に掛けた柊真が立っていた。銀糸の髪に雨の気配が残り、黒い瞳は私の手元へ落ちる。
彼の視線と、ノート。
世界が、短く止まる。
「……ごめんなさい」
自分でも驚くほど素直な声が出た。
「片づけようとして、開いてしまって。意図はなくて。——でも、見てしまいました」
彼は一度だけ瞬きをして、部屋の中へ足を踏み入れた。
怒りはない。
けれど、空気が少しだけ張り詰める。
「どこまで」
「“壁の練習”と、“余白は役に立たない”。それから——」
言葉が喉に詰まる。
彼は、目で続きを促す。
「“愛されることは無駄だ”。……そして、“余白を買い戻したい”」
短い沈黙。
雨の音が、ガラスに小さなリズムを刻む。
「古いノートだ」
彼の声は低く、乾いていた。
怒ってはいない。ただ、遠い場所から物を言うみたいな声。
「捨てようとして、捨てなかった」
「どうして、捨てなかったんですか」
「——余白の在庫を、確かめるためだ」
たった一度だけ、彼は笑いに似た息を吐いた。
笑いと言うには温度が足りず、ため息と言うには甘さがあった。
「父は、余白を嫌った。数字も、時間も、感情も。白いところは全部、黒で塗れ、と。
俺は従った。従うことで、守れるものがあった。
だから“壁”を練習した。冷たい微笑みは、最初に覚えた防具だ」
礼子さんの言葉——“届かない壁”。
胸の奥で、鍵のピンが微かに鳴った気がした。
「でも、先生は“音でつなげ”と言った」
「先生は、余白の人だった。音と音の間にある、何もない場所を一番信じていた。
——俺は、怖かった。そこに立ち止まるのが」
彼はノートへ目を落とし、ゆっくりと閉じた。
そしてそれを、元の場所より少しだけ手前に置く。
“ここにある”と自分にも言い聞かせるように。
「彩音」
「はい」
「怒っているか」
「いいえ」
即答だった。
驚いたのは自分だ。
怒りより先に、込み上げてきたのは別のもの——胸の中の、知らない場所がきゅっと痛む感覚。
十歳の彼の字が、指の腹に残っている。
「わたし……期待を折って生きる練習を、長いあいだしてきました。
期待すると、痛いから。
でも、あなたといると“期待してもいいかもしれない”って思う瞬間が、毎日少しずつ増えていく」
彼の黒が、ほんの一瞬だけ揺れる。
「余白を、買い戻すのをお手伝いさせてください。
数字でも交渉でもない、白いところ。
例えば、朝の湯気とか、蜂蜜の一滴とか、——“おやすみ”とか」
静かな沈黙。
雨の粒のひとつひとつに、音がある気がした。
「俺は、うまくない」
「知っています」
「壁のほうが、速い」
「でも、音は遠くまで届きます」
彼は小さく目を伏せ、それからこちらへ近づいてくる。
書斎の灯りが、銀糸の髪に薄く滲む。
「——見られて、困るものではない。怒ってはいない。……驚いた」
「わたしもです」
ふ、と彼の口元が動いた。
笑いではなく、緊張を解く合図みたいな微かな震え。
「彩音」
「はい」
「母は“内側から鍵を外せ”と言ったそうだ」
「ええ」
「鍵は、渡した。——外すかどうかは、お前が決めろ」
手の中の鍵のピンが、ほんのわずか重みを持つ。
私は頷き、ピンを前髪の横へ差した。
星と、鍵。
鏡に映る自分が、少しだけ凛として見えた。
「午後は?」
「あなたの隣で、静かにします」
「いい返事だ。……昼を食べていない」
「作ります。——と言っても、簡単なものしか」
「俺のために」
「わたしのために」
彼が喉の奥でくすりと笑い、頷いた。
キッチンに、バターを落とす。
薄く切ったパンを焼き、はちみつを少し。スープは野菜を煮て、塩をひとつまみ。
火のそばで、彼が静かに座っている気配がする。
“壁”よりも、ずっと静かで、ずっと近い気配。
「——少し、見ていていいか」
「もちろん」
「手の動きを、覚えたい」
「どうして」
「すぐに真似できることと、真似できないことがある。……これは、真似できない」
どこか照れた声に、笑いがこぼれる。
目玉焼きの黄身がとろりと揺れ、ローズマリーをひとつまみ散らす。
皿に盛りつけると、彼はまっすぐに「ありがとう」と言った。
「礼は——」
「言わせる」
「はい」
二人で向かい合って食べる。
スプーンが陶器に触れる小さな音が、雨音に整然と混ざっていく。
食後、リビングへ戻ると、彼はソファの片側へ腰を下ろした。
私は反対側に座り、距離を——影のキスの手前に置く。
結晶の輪が、脈に合わせて小さく震える。
“鳴らしていい”条件は満たされている。
それでも私は、少しだけ我慢した。鳴らしたい衝動を、甘い余白に溶かす。
「彩音」
「はい」
「今日、十は要らない」
「え?」
「外に向ける十じゃなくていい。——内側の八で、十分だ」
八。
心が、ふっとほどける。
私は眉間の力を抜いて、口角を、ほんの少しだけ上げた。
それは誰に向けるでもない笑い方。彼の前でしか作らない形。
「今のは?」
「……十だ」
「ずるい」
「知っている」
目が合い、すぐにはほどけない。
静けさが、音のない音楽みたいに部屋に満ちる。
ふと彼が立ち上がり、書斎へ行って戻ってきた。
手には、先ほどの黒いノート——ではなく、薄い封筒がある。
「これは、先生から最後にもらった譜面のコピーだ。
見るか」
「見たいです」
封筒から出てきたのは、短い旋律。
昨日、練習室で聴いた“泣かない音”によく似ている。
譜面の端に、青いインクで一文。
『余白は、息をする場所。そこでは誰も、沈まない』
胸の奥が、温度で満ちる。
私はそっと封筒を閉じ、両手で抱えた。
「ありがとう」
「礼は——」
「言わせてください」
彼は視線を逸らし、ソファの背に片腕をかける。
その仕草に、はじめて会った夜の冷たさはもうない。
かわりに、今ここにある呼吸が重なっている。
「彩音」
「はい」
「“愛されることは無駄だ”。——書いたのは事実だ」
「……はい」
「だが、訂正する。“無駄ではない”と、今は思う」
言葉が、印章のように静かに押される。
私は返事を探して、見つけられなくて、結晶の輪を——小さく、鳴らした。
「許す」
「特例、ですか」
「俺が隣にいる」
ふたりで、ほんの少し笑う。
雨が弱まり、雲が薄く割れ始めた。
そのとき、神城から短いメッセージ。
“本日の外部動線、問題なし。明朝はオフ推奨”。
私は画面を彼へ向け、彼は即座に「了解」とだけ返した。
「——少し眠るか」
「はい」
立ち上がろうとして、テーブルの端に置いた封筒を滑らせ、あやうく床へ落としそうになる。
反射で伸ばした私の手と、同時に伸びた彼の手。
紙片は宙で止まり、二人の指が、その細い端で重なった。
触れた手。
影のキスより、確かな温度。
皮膚がゆっくりと、それを覚えていく。
「彩音」
「……はい」
「倒れるな」
「倒れません」
手は離れた。
けれど、離れた先にも、温度の跡が残った。
ベッドルームの扉へ向かう前、私は前髪の“鍵”にそっと触れた。
星の隣で、小さな鍵が光を拾う。
——内側から、鍵を。
余白は、息をする場所。
そこで、誰も沈まない。
横になり、瞼を閉じる。
遠くで、雨雲の切れ間から差す光が、部屋の端を撫でた気がした。
私は小さく息を吐き、胸のなかで新しい条文をひとつ、静かに加える。
“愛されることは、無駄ではない”。
“信じることは、余白を生む”。
“手は、触れれば覚える”。
眠りの縁で、彼の低い声が、昨日よりも少し近くで囁いたような気がした。
「——いい子だ」
次の章で、たぶん私は知るだろう。
“触れた手”が、どれほど多くのものをつないでしまうのかを。
十を、取りに行く。
彼の隣で。
離れず、揺れず、素直で。

