朝の空は、薄いミルクに雨粒をひとしずく落としたみたいに、やわらかく濁っていた。
 窓の向こうに滲む街を眺めながら、私はポットへ湯を落とす。ローズマリーとカモミールを半分ずつ。湯気が頬を撫で、胸の奥の輪郭をまるくしていく。

 雪の結晶チャームを指でなぞると、小さく鳴った。
 昨夜、彼の声で降りてきた「おやすみ」が、再びそこからほどける気がした。

「彩音」

 背後から落ちてくる低い声に振り向くと、黒のジャケットに淡いグレーのタイを締めた柊真が、扉口に立っていた。銀糸の髪が雨の光を細く拾い、切れ長の黒は、眠りの浅さをわずかに隠している。

「今日は午前中だけ出る。午後はここに戻る」

「お忙しいのに、ありがとうございます」

「礼は要らない。俺のためだ」

 言い慣れたやり取りに、口元が自然と緩む。
 彼は視線を私の手首に落とし、結晶の輪が脈に合わせて震えるのを確かめるように見た。

「——鳴らすのは、俺がいる前だけにしろ」

「……はい」

 軽く頷くと、彼はわずかに目を細めた。
「十を取れ。外には見せなくていい。——内側で」

「努力します」

「今日は“努力”じゃない。“素直”で行け」

 素直。
 昨夜の“欲で行け”とは別の角度で、胸の内側を明るくする言葉だった。

 彼が玄関へ向かう。
 ふと思い出したように振り返り、テーブルに細い箱を置く。

「忘れていた。——母が“内側から鍵を外せ”と言っていた」

「れ、礼子さんが?」

「余計なお世話だ」

 ぶっきらぼうな語尾に、隠し切れない甘さが混じる。
 箱の中には、銀の細いキーモチーフのピン——前髪用。
 星のピンの隣に、鍵のピン。胸の奥で、カチ、と小さな音がした気がした。

「行ってくる。——離れるな」

「離れません」

 扉が閉まる。
 雨脚が少し強くなり、窓が薄く震えた。



 午前は静かに過ぎた。
 簡単なメールの返事を書き、詩集のページを数枚めくり、湯気の薄い白を目で追う。
 昼前、神城が短く連絡を入れてきた。「柊様、十三時半帰着予定。奥様はご無理のない範囲で」。
 “無理のない範囲”。その言い方が、いつも私を安心させる。

 スイートの奥の小さな書斎に、薄い明かりが落ちていた。
 窓際の一人掛けの椅子にブランケット。壁には白黒の写真が一枚——さざ波立つ海面。
 雨で暗くなった室内に、紙の匂いがわずかに濃くなる。

 机の上に、黒い表紙のノートが一冊置かれていた。
 革の表紙はよく使われた跡があり、角がやわらかく丸い。
 ——開くつもりは、なかった。ただ、片づけようとして手に取った。
 そのとき、薄い付箋がするりと滑り落ち、ぱらり、と偶然ページがめくれた。

 視線が止まる。
 インクの色が、時期ごとに少しずつちがう。同じ字。
 ページの上のほうに、小さな日付。
 十歳の頃、と記された行の横に、稚い字でこうあった。

『笑う練習。泣かない練習。壁の練習』

 喉の奥で、何かが音を立てる。
 ページを戻すべきだと思った。けれど、次の行が視界に引っかかった。

『父は言った。余白は役に立たない』

 余白——。
 詩集の白い余白を、さっきまで愛おしんでいた自分と、遠い対岸の言葉。
 指先が、震える。

 ページの中ほどには、薄いトレーシングペーパーが挟まれていた。
 透ける紙の向こうに、小さな五線譜。
 上に青いインクで、たった一言。

『音でつなげ。——先生』

 昨日の練習室の、古い木の匂いが蘇る。
 “上手いと言わなかった先生”。
 “上手くならなくていい、君はつなぐから”。
 あの言葉が、たしかにここに刻まれている。

 めくる。
 ——十八歳。
 するどく整った字は、もう稚くない。

『愛されることは無駄だ。
 期待は債務。
 約束は交渉。
 心はコスト。』

 墨の色が、朝の雨より冷たく見えた。
 胸の真ん中で、薄い紙が裂ける音がする。
 “愛されることは無駄”。
 その断言は、笑って読み飛ばせる種類の強がりには思えなかった。

 ページの下に、消えかけた鉛筆の走り書きがある。
 ——『それでも、いつか“余白”を買い戻したい。』
 その文字だけ、ほんの少し震えていた。

 私は反射的にノートを閉じた。
 掌の上で、革の表紙が重さを取り戻す。
 自分の指先が白んでいる。
 深く息を吸い、吐いた。

 ——見てしまった。
 誤解の余地もないほどに、彼の内側を。

「彩音?」

 書斎の入口から名前を呼ぶ声がして、心臓が跳ねた。
 振り向くと、濡れたコートを腕に掛けた柊真が立っていた。銀糸の髪に雨の気配が残り、黒い瞳は私の手元へ落ちる。

 彼の視線と、ノート。
 世界が、短く止まる。

「……ごめんなさい」

 自分でも驚くほど素直な声が出た。
「片づけようとして、開いてしまって。意図はなくて。——でも、見てしまいました」

 彼は一度だけ瞬きをして、部屋の中へ足を踏み入れた。
 怒りはない。
 けれど、空気が少しだけ張り詰める。

「どこまで」

「“壁の練習”と、“余白は役に立たない”。それから——」

 言葉が喉に詰まる。
 彼は、目で続きを促す。

「“愛されることは無駄だ”。……そして、“余白を買い戻したい”」

 短い沈黙。
 雨の音が、ガラスに小さなリズムを刻む。

「古いノートだ」

 彼の声は低く、乾いていた。
 怒ってはいない。ただ、遠い場所から物を言うみたいな声。

「捨てようとして、捨てなかった」

「どうして、捨てなかったんですか」

「——余白の在庫を、確かめるためだ」

 たった一度だけ、彼は笑いに似た息を吐いた。
 笑いと言うには温度が足りず、ため息と言うには甘さがあった。

「父は、余白を嫌った。数字も、時間も、感情も。白いところは全部、黒で塗れ、と。
 俺は従った。従うことで、守れるものがあった。
 だから“壁”を練習した。冷たい微笑みは、最初に覚えた防具だ」

 礼子さんの言葉——“届かない壁”。
 胸の奥で、鍵のピンが微かに鳴った気がした。

「でも、先生は“音でつなげ”と言った」

「先生は、余白の人だった。音と音の間にある、何もない場所を一番信じていた。
 ——俺は、怖かった。そこに立ち止まるのが」

 彼はノートへ目を落とし、ゆっくりと閉じた。
 そしてそれを、元の場所より少しだけ手前に置く。
 “ここにある”と自分にも言い聞かせるように。

「彩音」

「はい」

「怒っているか」

「いいえ」

 即答だった。
 驚いたのは自分だ。
 怒りより先に、込み上げてきたのは別のもの——胸の中の、知らない場所がきゅっと痛む感覚。
 十歳の彼の字が、指の腹に残っている。

「わたし……期待を折って生きる練習を、長いあいだしてきました。
 期待すると、痛いから。
 でも、あなたといると“期待してもいいかもしれない”って思う瞬間が、毎日少しずつ増えていく」

 彼の黒が、ほんの一瞬だけ揺れる。

「余白を、買い戻すのをお手伝いさせてください。
 数字でも交渉でもない、白いところ。
 例えば、朝の湯気とか、蜂蜜の一滴とか、——“おやすみ”とか」

 静かな沈黙。
 雨の粒のひとつひとつに、音がある気がした。

「俺は、うまくない」

「知っています」

「壁のほうが、速い」

「でも、音は遠くまで届きます」

 彼は小さく目を伏せ、それからこちらへ近づいてくる。
 書斎の灯りが、銀糸の髪に薄く滲む。

「——見られて、困るものではない。怒ってはいない。……驚いた」

「わたしもです」

 ふ、と彼の口元が動いた。
 笑いではなく、緊張を解く合図みたいな微かな震え。

「彩音」

「はい」

「母は“内側から鍵を外せ”と言ったそうだ」
「ええ」

「鍵は、渡した。——外すかどうかは、お前が決めろ」

 手の中の鍵のピンが、ほんのわずか重みを持つ。
 私は頷き、ピンを前髪の横へ差した。
 星と、鍵。
 鏡に映る自分が、少しだけ凛として見えた。

「午後は?」
「あなたの隣で、静かにします」

「いい返事だ。……昼を食べていない」

「作ります。——と言っても、簡単なものしか」

「俺のために」

「わたしのために」

 彼が喉の奥でくすりと笑い、頷いた。



 キッチンに、バターを落とす。
 薄く切ったパンを焼き、はちみつを少し。スープは野菜を煮て、塩をひとつまみ。
 火のそばで、彼が静かに座っている気配がする。
 “壁”よりも、ずっと静かで、ずっと近い気配。

「——少し、見ていていいか」

「もちろん」

「手の動きを、覚えたい」

「どうして」

「すぐに真似できることと、真似できないことがある。……これは、真似できない」

 どこか照れた声に、笑いがこぼれる。
 目玉焼きの黄身がとろりと揺れ、ローズマリーをひとつまみ散らす。
 皿に盛りつけると、彼はまっすぐに「ありがとう」と言った。

「礼は——」

「言わせる」

「はい」

 二人で向かい合って食べる。
 スプーンが陶器に触れる小さな音が、雨音に整然と混ざっていく。

 食後、リビングへ戻ると、彼はソファの片側へ腰を下ろした。
 私は反対側に座り、距離を——影のキスの手前に置く。
 結晶の輪が、脈に合わせて小さく震える。
 “鳴らしていい”条件は満たされている。
 それでも私は、少しだけ我慢した。鳴らしたい衝動を、甘い余白に溶かす。

「彩音」

「はい」

「今日、十は要らない」

「え?」

「外に向ける十じゃなくていい。——内側の八で、十分だ」

 八。
 心が、ふっとほどける。
 私は眉間の力を抜いて、口角を、ほんの少しだけ上げた。
 それは誰に向けるでもない笑い方。彼の前でしか作らない形。

「今のは?」

「……十だ」

「ずるい」

「知っている」

 目が合い、すぐにはほどけない。
 静けさが、音のない音楽みたいに部屋に満ちる。

 ふと彼が立ち上がり、書斎へ行って戻ってきた。
 手には、先ほどの黒いノート——ではなく、薄い封筒がある。

「これは、先生から最後にもらった譜面のコピーだ。
 見るか」

「見たいです」

 封筒から出てきたのは、短い旋律。
 昨日、練習室で聴いた“泣かない音”によく似ている。
 譜面の端に、青いインクで一文。

『余白は、息をする場所。そこでは誰も、沈まない』

 胸の奥が、温度で満ちる。
 私はそっと封筒を閉じ、両手で抱えた。

「ありがとう」

「礼は——」

「言わせてください」

 彼は視線を逸らし、ソファの背に片腕をかける。
 その仕草に、はじめて会った夜の冷たさはもうない。
 かわりに、今ここにある呼吸が重なっている。

「彩音」

「はい」

「“愛されることは無駄だ”。——書いたのは事実だ」

「……はい」

「だが、訂正する。“無駄ではない”と、今は思う」

 言葉が、印章のように静かに押される。
 私は返事を探して、見つけられなくて、結晶の輪を——小さく、鳴らした。

「許す」

「特例、ですか」

「俺が隣にいる」

 ふたりで、ほんの少し笑う。
 雨が弱まり、雲が薄く割れ始めた。

 そのとき、神城から短いメッセージ。
 “本日の外部動線、問題なし。明朝はオフ推奨”。
 私は画面を彼へ向け、彼は即座に「了解」とだけ返した。

「——少し眠るか」

「はい」

 立ち上がろうとして、テーブルの端に置いた封筒を滑らせ、あやうく床へ落としそうになる。
 反射で伸ばした私の手と、同時に伸びた彼の手。
 紙片は宙で止まり、二人の指が、その細い端で重なった。

 触れた手。
 影のキスより、確かな温度。
 皮膚がゆっくりと、それを覚えていく。

「彩音」

「……はい」

「倒れるな」

「倒れません」

 手は離れた。
 けれど、離れた先にも、温度の跡が残った。

 ベッドルームの扉へ向かう前、私は前髪の“鍵”にそっと触れた。
 星の隣で、小さな鍵が光を拾う。
 ——内側から、鍵を。
 余白は、息をする場所。
 そこで、誰も沈まない。

 横になり、瞼を閉じる。
 遠くで、雨雲の切れ間から差す光が、部屋の端を撫でた気がした。
 私は小さく息を吐き、胸のなかで新しい条文をひとつ、静かに加える。

 “愛されることは、無駄ではない”。
 “信じることは、余白を生む”。
 “手は、触れれば覚える”。

 眠りの縁で、彼の低い声が、昨日よりも少し近くで囁いたような気がした。

「——いい子だ」

 次の章で、たぶん私は知るだろう。
 “触れた手”が、どれほど多くのものをつないでしまうのかを。
 十を、取りに行く。
 彼の隣で。
 離れず、揺れず、素直で。