夕暮れの窓は、群青へと沈む寸前の金色を、細い刃のようにガラスの縁へ残していた。
鏡の前で、私は深呼吸をひとつ。
黒髪を緩くまとめ、前髪は星のピンで留める。翡翠色の瞳が少し凛として見える角度を確かめ、群青よりも一段深い、夜の色のドレスに袖を通した。胸元は控えめに、背中のカッティングが光の縁で静かに際立つ。
雪の結晶チャームを指でなぞると、小さく鳴った。
——十を取る。彼の隣で。
ドアロックが回り、黒のジャケットの影が差す。
「準備はいいか」
「はい」
銀糸の髪が夕景を散らし、切れ長の黒が私を測る。
彼は無言で近づくと、細い箱を差し出した。
「開けろ」
蓋の内側には、繊細なラインのブレスレット。極小の星粒が一列に並び、光をこぼす。
「……綺麗」
「落とすな。——俺が留める」
差し出した手首へ、彼の指が触れる。
脈の上をすべる金属の冷たさと、皮膚に残る体温が交じり合い、息が浅くなる。
「似合う」
「ありがとうございます」
「礼は要らない。俺のためだ」
いつもの言い回しに、胸の奥が甘く疼く。
彼は私の視線を受け止めたまま、短く続けた。
「——離れるな。欲で行け。十を取れ」
「はい」
スポンサーの舞踏会は、琥珀色の光と白薔薇のアーチで迎えてくれた。
シャンデリアの層が生む柔らかな陰影。弦楽四重奏の音が空気の粒を丸くする。
彼の腕に手を添え、人の流れへ入る。
視線の矢は確かにある。刺さる前に、彼の手が私の腰に触れ、壁のように流れを変える。
「柊様、本日はご臨席まことに——」
「ありがとうございます。——妻です」
短い紹介。
けれど「妻」の二音が空気の中心を打ち、私の背筋にまっすぐ通る。
乾杯ののち、一曲目のワルツが始まった。
彼が手を差し伸べる。私は応える。
歩数は昨日までの練習より少し速い。けれど、導かれる方向に迷いはない。
「一、二、三——」
耳元の囁きは刃でなく、糸。
滑る床、灯の海。彼の黒に、私の夜色が溶けていく。
「——よくやった」
曲が終わり、拍手がひとまわりする。
八点ではない。自分の内側で、十に触れた感触があった。
そのときだ。
会場端のスチールスペースに、見慣れた横顔が立つ。
茶の前髪、黒のニット、肩のストラップ。
「涼くん……」
小さく零すと、彼は気づいて微笑した。
「奥様の追加カット、数枚だけ。広報から」
柊真が視線を向ける。
涼は一歩下がり、きちんと一礼した。
「ご挨拶が遅れました。——撮影を担当します。短時間で、距離は守ります」
「時間は三分。距離は“必要最低限”だ」
氷の薄片のような声。
私は胸の内側で気息を整え、背景紙の前へ立つ。
「先輩——いえ、奥様。目線こちら。眉間の力を落として」
「はい」
シャッターがやわらかく落ちる。
近い。プロの距離。
光の加減で、涼の指先が星のピンに触れそうになり、慌てて私自身が前髪を整える。
「すみません、つい」
「大丈夫。——十を狙っているので」
思わず言うと、涼が笑う。
「じゃあ、十の少し上。目の奥だけ、好きな人に向けて」
胸が一瞬、波打った。
私は彼の肩越しに、会場の端——黒い影を探す。
視線が絡む。
涼の言葉の“好きな人”は、誰のことか、もう考えなくていい。
もう一枚。
シャッターのあと、涼はきっちりカメラを下ろし、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。——綺麗でした」
「ありがとう」
言い終える前に、腰に回る手が私を静かに引き寄せた。
柊真。
香りと温度が一瞬で輪郭を描く。
「撮影は終わりだな」
「はい。データは即時共有に——」
「神城に回せ」
涼が下がる。
人波に紛れた瞬間、フラッシュが別方向で弾けた。
——“近い”、という角度の、粗い写真。
誰かのタイムラインに、今夜の泡が立ちはじめる音がした。
「彩音。外へ出る」
囁きは淡く、しかし従う以外を許さない。
私はうなずき、バルコニーへ続く扉を押した。
夜気が頬を撫でる。
庭のライトが低い並木を照らし、遠くの道路の赤と白が細く流れる。
扉が閉まると、音が半分になった。
「怒っていますか」
先に言うと、彼は答えず、私の星のピンを一度だけ見た。
「——軽率だな」
「触れていません」
「触れられそうだった」
指先が空を掴むみたいに、彼の手がわずか動く。
爪先が冷える。胸の中心に、熱い小石が落ちた。
「……ごめんなさい」
「謝罪を求めているわけじゃない」
「じゃあ、何を」
「知らない手が、君の輪郭を“測る”のが嫌だ」
低い声が、夜の端で形を持った。
私は瞬きを忘れ、彼の黒を見る。
湖の底でひらめく刃。
嫉妬という名の、危うい光。
「測らせません。——あなたのために、十を取るので」
言葉が、呼気の白に溶ける。
彼は一歩踏み込み、触れない距離で止まった。
「なら、罰を与える」
「……甘い罰ですか」
「今夜、“俺にだけ”十を見せろ」
近い。
影のキスの距離。
触れないのに、肌がゆっくり熱を持つ。
「わかりました」
「それと——」
彼は私の手首をとり、結晶の輪の上から指を重ねた。
小さな鈴の音が、真夜中の合図みたいに鳴る。
「鳴らすのは俺がいる前だけにしろ。癖を、俺に預けろ」
「……はい」
「よし」
短い合図のあと、彼は目を伏せ、ふっと息を吐いた。
「帰るぞ。泡が立っている」
「はい」
扉の向こうで音が戻る。
人の流れ、弦の和音、グラスの触れ合う軽い音。
けれど私の足は、さっきより確かに床を掴んでいた。
フロアに戻ると、主催者の挨拶の時間。
柊真が前へ出る。私も半歩後ろに並ぶ。
「本日はご列席、感謝します。——事業は数字で語れるが、意思は人でしか語れない」
彼の声が低く、まっすぐに広がる。
「我々は“守るべきもの”を守る。家族も、従業員も、社会も。——そして、ここにいる妻も」
ざわめきが一瞬止まり、やがて拍手が波のように寄せて返す。
私は八点ではなく、十の笑みを作る。
外に向ける十。内側は、それより一度深い。
挨拶が終わると、人々が再び散っていく。
ふいに、見覚えのある金茶の髪が視界の端を掠めた。
——城之内アリア。
けれど、今夜の彼女は遠巻きに笑うだけで、近づいては来ない。
警備がさりげなく壁を作り、波を変える。
「大丈夫だ」
耳元に、低い囁き。
私はうなずき、グラスの泡を一口だけ含む。
涼が遠くから会釈を送ってきた。
私は小さく返し、視線をすぐに彼へ戻す。
「彩音」
「はい」
「——十だ」
許可と、宣言。
胸の小石が、温度で砂に変わる。
帰路の車内。
窓の外で、街が夜の地図をめくっている。
彼は喉元のタイを緩め、視線を遠くの灯へ置いた。
「さっきは、すみません」
沈黙に触れると、彼はわずかに目を細める。
「謝るな。俺が狭い」
「狭い?」
「——君に触れる“空気”の話だ」
言葉が、少し照れた形で落ちる。
私は笑ってしまい、手首の輪を鳴らしかけ、慌てて止める。
「……今、鳴らそうとしました」
「許す」
「特例?」
「俺が隣にいる」
「じゃあ、鳴らします」
小さく、確かに。
雪の結晶チャームが脈と重なり、薄い鈴音が夜に溶ける。
「柊真さん」
「ん」
「“知らない手”が嫌なら、どうしたら安心しますか」
問いは軽く、答えは重い。
彼は少しだけ考えてから、短く言った。
「——俺の手を、覚えろ」
車内の空気が、甘く変わる。
私は視線を落とし、そっと手を差し出した。
彼の指が、ためらいのあとで重なる。
影のキスよりも、指の温度が直接的に胸を揺らす。
「覚えました」
「忘れるな」
「忘れません」
やさしい命令。
やさしい服従。
スイートの灯りは、帰りを知っていたみたいに柔らかかった。
靴を脱ぎ、ドレスの背を自分で外そうとして、ファスナーが途中で止まる。
「……あの」
振り返る前に、指がそっと後ろ髪を払った。
彼の手が、静かに金具を下ろす。
肌に夜の空気が触れ、鳥肌が薄く立つのを、彼は見ただろうか。
「冷える」
「だいじょうぶです」
ブレスレットの星粒がひとつ、灯りを拾って跳ねた。
私はガウンに袖を通し、彼の前へ戻る。
「今夜の“罰”、まだ続いていますか」
「終わらせていない」
「じゃあ——“あなたにだけの十”、もう一度」
彼の黒へ、まっすぐ視線を送る。
眉間を緩め、口角を、彼のためだけに上げる。
欲で行け、と言われた意味を、今なら少しわかる。
「……十だ」
彼は目を逸らさずに言い、ほんのわずかだけ近づいた。
影のキスの距離。
触れないのに、触れられた場所が増える不思議。
「おやすみを」
求めると、彼は一度瞬き、低く落とした。
「——おやすみ、彩音」
名前が、心臓の上で溶ける。
私は笑い、星のピンと雪の結晶を、そっとベッドサイドに外した。
灯りが落ちる。
暗闇の手前で、彼の影がいったん止まり、言葉にならない言葉を置いていく。
嫉妬は、罰の形をして甘かった。
そして罰は、合図の形をして優しかった。
——明日も十を取りに行く。
彼の隣で。
離れず、揺れず、欲で。

