朝の光は、薄い蜂蜜を一さじ垂らしたみたいに部屋の縁をやわらかく染めていた。

 湯気の立つポットの前で、私はローズマリーとカモミールの袋を交互に揺らす。半分ずつ。香りが重なり合って、胸の奥の不安な場所に白い布を掛けてくれる。

 雪の結晶チャームを指でなぞると、小さく鳴った。昨夜、彼が落とした「おやすみ」が、もう一度そこから立ちのぼってくる気がした。

「準備はいいか」

 振り向くと、黒のジャケットと薄いグレーのタイを纏った柊真が、ドアのところに立っていた。銀糸の髪が朝の光をほどよく散らし、切れ長の瞳は相変わらず温度を隠している。けれど、その奥にかすかな溝——眠りの浅さの名残——を私だけは見つける。

「はい。今日は……財団の視察、でしたよね」

「ああ。小児病棟と、図書室の寄贈棚。それから——」

「から?」

「少し見せたい場所がある」

 言い置いて、彼は私の手首を見る。結晶が脈に合わせて震えた。

「緊張を鳴らすな。——十を取れ」

「努力します」

「今日は“努力”では足りない。欲で行け」

 欲で。
 甘い言葉のようでいて、背筋に静かな熱を灯す響きだった。私はうなずき、鏡に八分の笑いを浮かべてから、彼の隣へ並ぶ。



 午前の小児病棟は、白の中に淡いパステルが散っていた。窓際の陽だまりでは紙芝居の時間が始まるらしく、看護師さんが子どもたちを集めている。

「柊様、いつもありがとうございます」

「こちらこそ」

 彼は短く返し、無償で提供したVRリハビリ機器の使い勝手を確認していた。私は邪魔にならないよう少し離れ、子どもたちの輪へ小さく会釈して近づく。

「お姉ちゃん、ドレスの色、きれい」
「星みたい」

「ありがとう。君のパジャマも、とっても似合ってる」

 思わずしゃがむと、男の子が「やって」と手を差し出した。そこには紙の王冠。テープがうまく留まらなくて困っているらしい。

「じゃあ、ここに小さな星を足して……はい、王様」

 指先でぺたりと止めると、彼は誇らしげに胸を張った。視界の端で、柊真がこちらを見ている。その目は、冷たい刃ではなく、遠くから雪解けを待つ黒い湖のように静かだった。

 紙芝居の後、病棟の図書室へ移る。寄贈棚の前で、司書の方が嬉しそうに言った。

「先月送っていただいた絵本、すぐに貸出し中になりました」

「それは良かった」

 彼は淡々と答える。私は、背表紙を指でなぞりながら、ある一冊で指を止めた。
 ——『ちいさな王さまと星のピン』。

「これ、可愛い……」

 つぶやいた私に、司書の方が微笑む。
「そのお話、ね。『王さまの冠が重くて泣きそうなとき、星のピンが“だいじょうぶ”って支えるの』」

 胸の中のどこかで、結び目がふっと緩んだ。髪を留めるためにもらった小さな星のピン。——「前髪用」とだけ書かれた付箋。その軽さと同じ力で、私も彼のどこかを留められるだろうか。

 移動の途中、廊下の窓に彼の横顔が映る。私はつい見惚れて、ついでに問いを一つ、落としてしまった。

「……どうして、財団の仕事は自分で回るんですか? 任せることもできるのに」

「任せている。俺は、最後の線だけ引きに行く」

「最後の線」

「誰が見ても、そこに“意思”があるとわかる線だ。——昔、誰も引いてくれなかった」

 最後の言葉は、ほとんど囁きに溶けた。

 立ち止まりかけた足を、私は前へ押し出す。背に回した手の中で、結晶が小さく鳴った。

「今は、わたしが見ています」

 彼は返事をしなかった。ただ、歩幅を半歩分だけ緩めてくれた。



 昼食は、病院近くの小さなビストロで簡単に済ませた。スープの湯気を見ていると、昨夜のフレンチトーストの香りが蘇る。バターとローズマリー。

「顔」

 スプーンを持つ手を止めると、彼が目で合図する。

「笑ってるつもりでした」

「“思い出に浸る顔”になっていた」

「悪い顔ですか」

「悪くない。——好きだ」

 スープの味が、一瞬で変わった。
 私は器の縁を見つめ、声の温度を整える。

「……ありがとうございます」

「礼は要らない」

 いつもの言葉が、今日は不思議と胸を甘くする。



 午後、彼が「見せたい場所」と言ったのは、都心のビルの谷間にある古い音楽練習室だった。木の匂いが時間をため込み、磨かれて曇ったガラスが午後の光をやわらかく濾す。

「ここは?」

「子どもの頃、週に一度だけ連れて来られた。——ピアノを習った」

「弾けるんですか」

 彼は「少し」とだけ言って、ピアノの前に座った。蓋を静かに開け、白鍵に手を置く。

 最初の音は、驚くほど小さかった。水面に指を入れたときにできる輪みたいな音が、部屋にゆっくり広がる。
 次の音で輪が重なり合い、三つ目で遠い記憶の影が混ざる。

 やがて一つの旋律が形をとり始めた。静かで、寂しがり屋で、でも決して泣かない。
 私は息を殺し、彼の横顔を見ていた。睫毛が影を作り、喉の線が淡く揺れる。鍵盤の上の指は、絆創膏の雪の結晶を小さくきらめかせながら、迷いなく進む。

 曲が終わると、部屋は少しだけ広くなったように感じた。彼は視線を落としたまま、低く言う。

「先生は、“上手い”と言わなかった」

「どうして」

「“上手くならなくていい。君は音を“つなぐ”から”と言った。——その意味が、ずっとわからなかった」

「今は」

「わかる。線でも、刃でもなく、音で誰かを繋ぎ止める方法がある」

 私は気づけば、膝の上で手を組んでいた。

「……今、わたし、すごく繋がれてます」

 彼はようやくこちらを見た。冷たい微笑みではなく、もっと静かな影の笑いが、目の奥にだけあった。

「帰るぞ。——午後の残りは、オフにする」

「また“俺のため”ですか」

「もちろん」

 言い切る声が、くすぐったくて、少し切ない。



 夕方、ホテルに戻ると、神城が玄関に現れた。

「お帰りなさいませ。——本日、社内広報の追加の撮影が一本入りました。二十分ほどのポートレートのみ、時間はお好きな時で」

「今日、ですか」

「はい。明朝に差し替えが必要になりまして」

 柊真が私を見る。
「どうする」

「……やります。十を目指したいので」

「いい返事だ」

 スタジオは前回と同じ白い箱の部屋。セットは簡素で、背景紙とボックスライトだけ。カメラマンは以前の人ではなく、若い男性だった。
 黒のニット、肩に掛けたストラップ。柔らかな茶の髪に、少し長めの前髪がかかっている。

「本日はよろしくお願いします」

 私が頭を下げると、彼は一瞬、目を見開いた。
「……彩音?」

「え?」

「大学の写真研究会。覚えてない? ——涼(りょう)」

 胸の奥の古い引き出しが、思わぬ音で開いた。
 懐かしい笑顔。大学時代、学園祭のパンフレットで私のポートレートを撮ってくれた後輩だ。

「涼くん……」

「やっぱり。先輩、変わらないですね」

 彼は嬉しそうに笑い、すぐに表情を仕事のものに戻した。
「では、ライト合わせます。目線、こちらで。——懐かしい、じゃなくて“今の”先輩を撮るから」

「お願いします」

 シャッター音が静かに重なる。涼の指示は的確で、距離感は学生の頃よりずっとプロのそれだった。
 けれど、近い。懐かしさは、距離の測り方をほんの少しだけ狂わせる。

「少し顎を上げて——そうです。目に力がある。……あ、笑った」

 思わず笑ってしまう。彼の褒め方は昔から変わらない。
 視線の端で、スタジオの隅に立つ柊真の黒が、わずかに濃くなるのが見えた。

 最後のシャッターが落ちたとき、涼がカメラを下ろす。
「ありがとうございます。——先輩、綺麗でした」

「ありがとう、涼くん」

 彼は一瞬迷ってから、声を落とした。
「昔、学食で“写真って、好きな人を綺麗にする魔法だね”って言ってましたよね。……今、ちょっとわかった気がする」

 胸の奥が、かすかに揺れた。
 柊真の視線が、スタジオの白を一段暗くする。私は慌てて一歩下がり、礼を言った。

「また、どこかで」

「はい。——彩音先輩」

 “先輩”という響きに過去の空気が混ざる。私は結晶をそっと鳴らし、現在に戻った。



 スイートへ戻るエレベーターの鏡は、四方から私たちを映した。
 沈黙。
 私はさりげなく口角を上げ、十を守る。

「……涼、って言ったな」

 先に口を開いたのは彼だった。表情は崩れない。

「大学の後輩です。写真の。昔、一度だけパンフレットで撮ってもらって」

「そうか」

 それだけ。
 けれど、鏡の中の彼の肩が一ミリだけ固くなった気がした。

 部屋に入ると、彼はジャケットを椅子に置き、ネクタイを外す。ゆっくりと、結び目をほどく指がやけに冷静で、逆に胸がざわめく。

「……怒ってますか」

「怒っていない」

「なら、呆れてます?」

「呆れてもいない」

 沈黙。
 私はテーブルの端を指で撫で、深呼吸を一つ。

「彼に“綺麗でした”って言われて、少し、嬉しかった。懐かしくて。——でも、今日の十は、あなたにだけ見てほしいです」

 彼の動きが止まった。銀糸の髪がわずかに揺れる。
 数秒の間のあと、彼は私のほうを向く。

「なら、見せろ」

「今、ですか」

「今だ」

 彼の声は、冷たさを装いながら、どこか急いでいた。

 私はソファの前に立ち、眉間の皺をほどく。視線を彼に固定し、口角を、彼が好きだと言った分だけ上げる。
 呼吸を整え、胸の奥の灯をひとつ明るくする。

「——どう、ですか」

 彼は近づかない。距離を保ったまま、低く言う。

「九・八」

「厳しい」

「点を上げる方法はわかっているはずだ」

「眉間?」

「それもある」

 彼はゆっくり一歩だけ近づき、指先で私の手首に触れた。滑る結晶が小さく鳴る。

「“誰に見せるか”を、間違えるな」

 指先が離れ、空気が震える。
 私はうなずいた。

「——あなたに」

 ほんの一瞬、彼の黒が熱を帯びた。
 次の瞬間、彼はいつものように視線を逸らし、ソファの背へ手を置いた。

「……十だ」

 短く告げて、彼は息を吐いた。

 胸の中で、何かが音もなく満ちる。
 涼の言葉で揺れた心は、今、静かな場所へ帰っていく。

「明日、予定がひとつ増えた」

 彼はノートPCを開きながら言った。
「スポンサーの舞踏会。君は——」

「行きます。離れません」

 即答すると、彼は微かに口角を上げた。

「いい返事だ」

 窓の外では、夜がゆっくり立ち上がる。街の灯りが星座を描き始め、硝子に揺れて私たちの輪郭を一度だけ撫でる。

 私は彼の隣に腰を下ろし、肩先が触れない距離で座った。
 影のキスの距離。
 触れない温度が、確かな現実を運んでくる。

「彩音」

「はい」

「——明日も十を取れ」

「はい。……あなたのために」

「俺のために」

 くすり、と二人で笑った。

 心の揺らぎは、波の形をしている。
 来ては寄せ、寄せては返す。
 だけど、波打ち際には、もう折れない小さな星のピンが一つ落ちている。

 それを拾って髪に留め、私はそっと目を閉じた。
 明日の音楽が、遠くで鳴り始めている。
 十を、取りに行く。
 ——あなたの隣で。