朝の窓は、氷砂糖を一枚溶かし落としたみたいに淡く光っていた。

 湯気の立つカップを両手で包みながら、私はソファの端に座る。ローズマリーとカモミールを半分ずつ。昨夜の余韻はもう痛みではなく、静かな温度として胸の底に沈んでいる。

 テーブルの上で、雪の結晶チャームが小さく鳴った。手首を傾けると、金の輪が脈に合わせて震える。

 ドアロックがやわらかく回り、黒のジャケットの影が差した。

「おはよう」

「おはようございます」

 柊真はジャケットをソファの背に置き、手を洗ってから戻ってくる。銀糸の髪は朝の光で柔らかく縁取られ、切れ長の瞳は寝不足の気配をほとんど見せない。

「神城に回した。例の番号は潰す」

「ありがとうございます」

「礼は要らない」

 いつもの言葉。それでも胸は静かに温かくなる。

「午前はオフにした。出勤は午後からで足りる」

「わたしのために?」

「俺のために」

 平板に言い切る声音が少し可笑しくて、思わず笑みがこぼれた。

 彼は私の手首を一瞥し、結晶の小さな音に眉を動かす。

「——それ、鳴らす癖がついたな」

「緊張すると、触ってしまって」

「なら、今日は緊張を禁止する」

「禁止事項が増えました」

「もう一つ増やす。スマホも禁止」

 私は反射的に画面を伏せた。昨夜のメッセージの残像が、まだ舌の裏で苦い。

「……遵守します」

「いい返事だ。——ただし罰を与える」

「罰、ですか」

「甘い罰」

 彼は無言でキッチンに消え、ほどなくして長方形の箱を抱えて戻ってきた。厚手の紙に淡い金の箔押し。蓋を開くと、丸い惑星みたいなマカロンが色とりどりに並んでいる。ピスタチオ、フランボワーズ、シトロン、カシス、キャラメル。

「……きれい」

「選べ。代わりに、選ぶ理由を一つ言うこと」

「理由?」

「“見た色”じゃなく、“今の気分”で」

 私は少し迷って、淡いレモン色へ手を伸ばした。

「——シトロン。朝は、すっきりから始めたいから」

「正解だ」

 彼は何の迷いもなく、それを皿に移してフォークを添えた。サク、と薄い殻が割れる音。レモンクリームの香りがふわりと広がる。

「食べろ。代わりに、俺の条件を一つ飲め」

「条件?」

「午前中、台所は俺の領地だ。君は座って見ていろ」

「……見ているだけ?」

「手を出すな。出したら罰を追加する」

「追加の罰も、甘いですか」

「味は選べ」

 不覚にも笑ってしまった。笑いながら、私は一口食べる。酸味と甘さがほどけて、舌の上で硝子みたいに砕ける。

「おいしい……」

「もう一つ」

「え?」

「二口目は俺の質問に答える」

「質問?」

「君は、朝の匂いに何を足すのが好きだ」

 朝の匂い。私は自分でも驚くほどすぐに答えていた。

「——熱いパンを割ったときの湯気。小麦と、焼いた皮の香り」

「覚えた」

 彼は短く言って立ち上がる。ジャケットの袖をまくり、キッチンへ。

「パンは?」

「ある」

「焼きますか?」

「俺が焼く。——座れと言った」

 私は観念してソファに沈む。視線の端で、彼が慣れた手つきでオーブンを予熱し、卵液のボウルを回すのが見えた。角砂糖、牛乳、少しのバニラ。フレンチトーストの支度だ。

「料理、するんですね」

「必要なら」

「今日の“必要”は、わたしのため?」

「俺のためだ」

 またそれだ。私は頬を緩めて、黙っている。

 ほどなく、バターの匂いが部屋を満たした。鉄板の上でパンがきつね色に変わり、四辺がゆっくり持ち上がる。彼は手首の返しだけで裏返し、火をすこし絞った。

「上手」

「やればできる」

「誰に似ました?」

「母だろう。父は台所を焦がした前科がある」

 くすりと笑う。閉じた窓のこちら側で、朝が声を潜める。

「——あ」

 短い声。振り向くと、彼が包丁でローズマリーの穂先を刻んでいて、指先にかすり傷を作っていた。

「血!」

「大したことはない」

「動かないでください」

 私は反射で立ち上がり、救急箱を取り、消毒と小さな絆創膏を取り出す。彼の手首をそっと取って、薄い切り傷に薬を落とした。

「しみるかも」

「平気だ」

 近い。
 息をすれば、シダーと洗い立ての綿の匂いが届く距離。

「指、細いんですね」

「骨ばっているだけだ」

「好きです。こういう手」

 自分で言って、頬が熱を帯びた。
 彼はわずかに瞬き、目を逸らさずに言う。

「——覚えた」

 絆創膏を貼り終える。
 たまたまあった雪の結晶柄のテープ。彼はしばしそれを見下ろし、低く笑う。

「趣味が良いのか悪いのかわからない」

「良いです。可愛い」

「俺の指に“可愛い”は似合わない」

「似合います」

 押し切ると、彼は喉の奥で笑い、フライパンへ戻った。

 ほどなく、皿の上にフレンチトーストが二枚並んだ。蜂蜜が薄く光り、刻んだローズマリーが雪の粉みたいに散っている。

「いただきます」

「食べろ」

 一口。
 甘さがゆっくり溶けて、ローズマリーの青い香りが、朝の輪郭をくっきりさせる。

「……しあわせの味がします」

「科学的根拠はない」

「体感に根拠はいりません」

 彼はふっと目を細めた。

「もう一つ、罰を追加する」

「まだあるんですか」

「“笑顔の練習”。——今度は、俺が撮る」

 彼はスマホを取り出すと、ソファの正面に立った。
 私は背筋を伸ばし、眉間の力を抜いて、口角を少し上げる。

「昨日の十を、超えろ」

「難題です」

「できる」

 シャッター音が小さく鳴る。角度を変え、距離を変え、彼は必要以上に近づかない。けれど視線は、距離の分だけやわらかい。

「もう一枚」

「……はい」

 笑いすぎる前に、涙が滲みそうになる。
 彼はすぐに気づき、カメラを下ろした。

「休憩だ」

「さすがに観察が鋭いです」

「必要だから」

「誰のために?」

「俺のためだ」

 くり返すたびに、台詞の輪郭が別の意味を帯びる。
 “俺のため”——そこにはいつも、“君のため”が重なっている。

 昼前、神城からの連絡で午後の予定が一本だけに減った。外へ出る必要はない、と聞いて、胸の奥の筋肉がふっと緩む。

「午後は、読書でもしていろ」

「何を読みますか」

「何でもいい。——ただし、スマホは禁止だ」

「厳しい」

「罰だからな」

 私は書棚から、薄い詩集を取り出した。白い余白が多く、文字が雪の上に落ちる足跡みたいに並んでいる。

 読み進むうちに、まぶたが重くなった。
 ソファにもたれ、詩集を胸に置く。

 毛布が静かにかけられた。ふと目を開けると、彼の影が視界の端にある。

「寝ろ」

「……はい」

「倒れると困る」

「誰が?」

「——俺が」

 不器用な甘さが、毛布より温かい。
 私は目を閉じ、短く眠った。

 目覚めの気配は、指先からやってきた。
 手首を包むものの温度。結晶の輪に触れているのは、彼の指。

「起こしました?」

「起こしていない。——触っただけだ」

 私は体を起こし、いつの間にかソファの隅にできた彼の居場所を見た。ノートPCと資料が開かれているが、画面はスリープのまま。

「仕事、してください」

「している」

「どこがですか」

「“そばにいる”が最優先だ」

 言葉が胸の奥へゆっくり沈み、そこからじわりと広がった。

「じゃあ、わたしも罰を一つ——“あなたの笑顔の練習”。今度は、わたしが撮ります」

「無理だ」

「どうして」

「俺は、笑わない」

「昨日、笑ってくれました」

「昨日は例外だ」

「今日は例外の上書きの日です」

 押すと、彼はほんの少し黙って、それからスマホを差し出した。

「三枚だけだ」

「五枚」

「四」

「交渉成立です」

 私は彼の正面に立ち、構える。
 眉間の力を、ごくわずか抜いてもらい、口角をほんの少し。

「……むずかしい」

「練習中なんですから」

 一枚、二枚。
 三枚目で、私がわざと雪の結晶のチャームを鳴らすと、彼の目が一瞬だけ柔らかくほどけた。

 カシャ。

「今の、好きです」

「破棄する」

「保存しました」

「神城に回す」

「やめてください」

 ふたりの笑い声が重なる。
 外の世界は今日は遠い。泡立つ噂の声も、ホテルの壁の外側で薄まっている。

 午後の光が傾くころ、ふとスマホに父からの短いメッセージが届いた。——「資金繰り、めどが立った。君に感謝を」

 私は息を呑み、画面を差し出す。

「よかった……」

「そうだな」

 彼は淡々と頷き、神城へ指示を飛ばす。「詳細を押さえろ。正式な書面を取り交わせ」

 通話を切ると、彼は私へ目を戻した。

「これで“七日間の意味”が、ひとつ片づく」

「はい」

 胸の奥で、別の結び目が静かにほどける。
 七日という期限が、遠ざかった気がした。

「彩音」

「はい」

「今日は——契約とか、噂とか、全部忘れて、好きなものを言え。叶うやつから叶える」

「そんな急に」

「甘い罰の延長だ」

 私は考えて、それから小さく笑った。

「じゃあ、一つめ。“あなたが私にだけ言う『おやすみ』が欲しい”」

 彼はわずかに目を細め、しばらく黙ったあと、短く頷いた。

「——夜になったら」

「約束、です」

「約束だ」

 夕食は軽く済ませ、夜の帳が静かに降りる。
 窓の外で、街の灯りが星座の地図を描き始めた。

 眠りの支度をして、ベッドサイドで並ぶ。
 私は雪の結晶の輪を指でなぞり、彼を見上げた。

「おやすみを、ください」

 彼は一歩近づき、触れない距離で止まる。
 影のキスの距離。

 低い声が、夜の端でやわらかくほどけた。

「——おやすみ、彩音」

 名前の音が、胸に落ちる。
 それだけで、息が甘くなる。

「……おやすみ、柊真さん」

 灯りが落ちる。
 暗闇の中、結晶の小さな音が、最後の合図みたいに鳴った。

 甘い罰は、今日のぶんをすべて終えた。
 けれど罰という名の、やさしい習慣は、明日へ少しだけ繋がっていく。

 ——離れない。笑う。十を取りに行く。

 眠りの底で、私はもう一度だけ、彼の“おやすみ”を思い出して笑った。
 甘く、確かに。