翌日の昼休み。菜月は言語研究会の発表会会場に向かっていた。
「緊張するやて…」
未来が一緒について来てくれた。
「大丈夫よ。聞くだけなんだから」
「でも、もし私のことを発表してたらどうしよう」
「その時はその時よ。菜月ちゃんの魅力をみんなに知ってもらえるじゃない」
会場には50人ほどの学生が集まっていた。前方には「第3回方言研究発表会」と書かれた横断幕が掲げられている。
「思ったよりようけ人がおるの」
「『たくさんいますね』でしょ?」未来がいつものようにツッコんだ。
「そっけそっけ」
二人は後ろの方の席に座った。
鈴木教授が司会で登場した。
「皆さん、お忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます。今日は学生たちの方言研究の成果を発表していただきます」
最初は2年生の女子学生による関西弁の研究発表だった。
「関西弁の『やん』『ねん』『わ』の使い分けについて…」
学術的で真面目な発表に、菜月は少し安心した。こんな感じなら大丈夫そう。
続いて東北出身の男子学生が津軽弁について発表した。
「『わ』と『だべ』の語尾変化について分析しました」
会場では「へー」「面白い」という声が上がっていた。
「それでは、田中圭介君による『福井弁の魅力と言語的特徴』です」
菜月の心臓がドキドキした。やっぱり自分のことを発表するのか。
圭介がスクリーンの前に立った。
「皆さん、『やて』という言葉を聞いたことはありますか?」
会場がざわめいた。
「これは福井県で使われる方言で、標準語の『だよね』『でしょ』に相当します」
スクリーンに福井弁の例文が映し出された。
『きれいやて』→『きれいだよね』
『おいしいやて』→『おいしいでしょ』
『そうやて』→『そうだよね』
「なんか、恥ずかしいやて…」菜月が小さくつぶやいた。
「でも、ちゃんと説明してくれてるじゃない」未来が慰めた。
圭介の発表はさらに続いた。
「福井弁には他にも興味深い表現があります。『つるつるいっぱい』という言葉をご存知でしょうか?」
また会場がざわめく。
「これは『満杯』という意味です。コップに水が『つるつるいっぱい』に入っている、という使い方をします」
菜月の顔が真っ赤になった。昨日バイト先で使って恥をかいた言葉だ。
「他にも『ようけ』(たくさん)、『そっけ』(そう)、『だっけ』(でしょ)など、温かみのある表現が豊富です」
スクリーンには菜月が普段使っている言葉がずらりと並んでいる。
「これらの方言を実際に使って会話する福井出身の学生に協力していただき、生きた言語として研究することができました」
会場の視線が菜月を探している気がした。
「それでは、実際に福井弁での会話例をお聞きください」
圭介がマイクを持った。
「今日は、村瀬菜月さんに来ていただいているので、少し福井弁で話していただけませんか?」
菜月は頭が真っ白になった。突然名前を呼ばれるなんて聞いていない。
「え…?」
会場の全員が菜月を見ている。
「あ、あの、菜月さん?」圭介が会場を見回した。
未来が菜月の手を握った。
「断ってもいいのよ」
でも菜月は立ち上がってしまった。断るのも恥ずかしい。
「あ、あの…」
マイクを渡された菜月。手が震えている。
「何か、普段使っている福井弁で話してもらえませんか?」圭介が優しく言った。
「あの、えーっと…」
緊張のあまり、何を話していいか分からない。
「大学生活はどうですか?」圭介が助け船を出した。
「あ、大学は…楽しいやて」
会場から「おー」という声が上がった。
「バイトもしてるんやけど、最初は方言で失敗してばかりで…」
だんだん調子が出てきた菜月。
「お客さんに『つるつるいっぱい』って言って、『?』って顔されたり、『おあげさん』って言って通じんかったり」
会場が笑い声に包まれた。
「でも、今は慣れて、みんな優しくしてくれるやて」
「ありがとうございました」圭介が拍手した。
会場からも大きな拍手が起こった。
◆発表後◆
「菜月さん、ありがとうございました」圭介が近づいてきた。
「あの、急に名前呼ばれるとは思わなくて…」
「すみません、事前に相談すべきでした」
周りの学生たちが菜月に話しかけてきた。
「すごく可愛い方言ですね」
「温かい感じがします」
「福井ってどんなところですか?」
菜月は戸惑いながらも質問に答えていた。
発表会が終わって、未来と菜月は教室の外に出た。
「お疲れさま。すごく良かったよ」
「でも、なんか複雑やて」
「どうして?」
「みんな私の方言を面白がって見てるみたい。まるで珍しい動物みたいに」
未来は菜月の気持ちを理解した。
「確かに、そう感じちゃうかもね」
その時、圭介がやってきた。
「菜月さん、今日は本当にありがとうございました」
「いえ…」
「あの、もしよろしければ、今度お茶でもしませんか?お礼をさせてください」
菜月の心がドキドキした。圭介先輩から誘われるなんて。
「あの、でも…」
「嫌でしたら、無理をしなくても…」
「いえ、そうじゃなくて」菜月が言いかけた時、未来が口を挟んだ。
「菜月ちゃん、時間ないんじゃない?バイトがあるでしょ?」
「あ、そっけ。今日はバイトがあるやて」
「そうですか。では、また今度」圭介が少し残念そうに言った。
「すみません」
圭介が去った後、未来は自分の行動に後悔した。なぜ邪魔をしてしまったのか。
「未来ちゃん、ありがとう。助かったやて」
「え?」
「実は、圭介先輩とお茶するのが怖かったやて」
「どうして?」
「今日の発表会で分かったけど、やっぱり私は『研究対象』なんやと思う」
菜月は複雑な表情を浮かべた。
「圭介先輩は悪い人やないと思うけど、私の方言を『面白い現象』として見てる気がして」
未来は菜月の肩を抱いた。
「菜月ちゃんはそのままで十分素敵よ。研究対象なんかじゃない」
「ありがとう、未来ちゃん」
◆バイト先のサニーテーブルで◆
「菜月ちゃん、今日も元気やの」
佳乃が声をかけてくれた。
「今日はちょっと疲れたやて」
「どうしたん?大学で何かあった?」
菜月は今日の発表会のことを話した。
「へー、圭介先輩が菜月ちゃんのこと発表したんや」
「うん、でもなんか複雑で」
「分かる気がする」佳乃がうなずいた。「私も北海道弁のことで、似たような経験があるもん」
「佳乃ちゃんも?」
「大学入った頃、方言サークルに誘われたことがあるけど、断った」
「どうして?」
「なんか、『珍しいから』って理由やったから。方言を話す自分じゃなくて、北海道弁そのものに興味があるって感じで」
菜月は佳乃の気持ちがよく分かった。
「でも」佳乃が続けた。「本当に菜月ちゃんのことを好きになってくれる人は、方言込みで菜月ちゃんを見てくれるはず」
「そうかの」
「圭介先輩がどっちなのかは、もう少し時間をかけて見極めたらええんちゃう?」
◆その夜、寮にて◆
「今日はお疲れさまでした」
未来が温かいお茶を入れてくれた。
「ありがとう、未来ちゃん」
「発表会、どうだった?率直な感想は?」
「うーん…圭介先輩が私のことをどう思ってるのか、よく分からんくなったやて」
「研究対象として?それとも一人の人間として?」
「そう、それ」
菜月はベッドに横になった。
「でも、今日気づいたことがあるやて」
「何?」
「お茶部の人たちとおった時と、今日の発表会での気持ちが全然違った」
「どういうこと?」
「お茶部では、私の方言を『温かい』って言ってくれるけど、今日は『興味深い』って言われた」
未来は菜月の言葉の違いに気づいた。
「『温かい』と『興味深い』…確かに全然違うわね」
「そう、お茶部では私も一緒に楽しんでるけど、今日は私だけが『観察される側』やった」
菜月の気持ちが整理されてきた。
「私、お茶部に入ろうかな」
「いいと思う。菜月ちゃんが一番自然でいられる場所が一番よ」
その時、菜月の携帯が鳴った。悠真からだった。
「はい、悠真?」
「おう、菜月。今日は大学で発表があったんやってな」
「うん、でも複雑やった」
「どんな風に?」
菜月は悠真に今日の気持ちを話した。悠真は最後まで聞いてくれた。
「菜月は菜月や。方言も含めて菜月なんやから、それを大切にしてくれる人を見つけることや」
「ありがとう、悠真」
「それと、無理して標準語話さんでもいいぞ。菜月らしくおればいい」
電話を切った後、未来が言った。
「悠真くん、いつも的確なアドバイスをくれるのね」
「うん、小さい時からずっと私のことを分かってくれとる」
未来は少し寂しい気持ちになった。悠真のように、菜月のすべてを受け入れて支えてくれる人。自分にはなれないのだろうか。
「未来ちゃんも、いつも私を支えてくれてありがとう」
菜月が突然言った。
「え?」
「あんたがおってくれるから、東京でも頑張れるやて」
未来の胸が温かくなった。
「私も、菜月ちゃんがいてくれて本当に良かった」
二人は見つめ合った。
明日からまた新しい一歩を踏み出そう。自分らしく、でも成長していきながら。
菜月の東京ライフは、まだまだ続いていく。
「緊張するやて…」
未来が一緒について来てくれた。
「大丈夫よ。聞くだけなんだから」
「でも、もし私のことを発表してたらどうしよう」
「その時はその時よ。菜月ちゃんの魅力をみんなに知ってもらえるじゃない」
会場には50人ほどの学生が集まっていた。前方には「第3回方言研究発表会」と書かれた横断幕が掲げられている。
「思ったよりようけ人がおるの」
「『たくさんいますね』でしょ?」未来がいつものようにツッコんだ。
「そっけそっけ」
二人は後ろの方の席に座った。
鈴木教授が司会で登場した。
「皆さん、お忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます。今日は学生たちの方言研究の成果を発表していただきます」
最初は2年生の女子学生による関西弁の研究発表だった。
「関西弁の『やん』『ねん』『わ』の使い分けについて…」
学術的で真面目な発表に、菜月は少し安心した。こんな感じなら大丈夫そう。
続いて東北出身の男子学生が津軽弁について発表した。
「『わ』と『だべ』の語尾変化について分析しました」
会場では「へー」「面白い」という声が上がっていた。
「それでは、田中圭介君による『福井弁の魅力と言語的特徴』です」
菜月の心臓がドキドキした。やっぱり自分のことを発表するのか。
圭介がスクリーンの前に立った。
「皆さん、『やて』という言葉を聞いたことはありますか?」
会場がざわめいた。
「これは福井県で使われる方言で、標準語の『だよね』『でしょ』に相当します」
スクリーンに福井弁の例文が映し出された。
『きれいやて』→『きれいだよね』
『おいしいやて』→『おいしいでしょ』
『そうやて』→『そうだよね』
「なんか、恥ずかしいやて…」菜月が小さくつぶやいた。
「でも、ちゃんと説明してくれてるじゃない」未来が慰めた。
圭介の発表はさらに続いた。
「福井弁には他にも興味深い表現があります。『つるつるいっぱい』という言葉をご存知でしょうか?」
また会場がざわめく。
「これは『満杯』という意味です。コップに水が『つるつるいっぱい』に入っている、という使い方をします」
菜月の顔が真っ赤になった。昨日バイト先で使って恥をかいた言葉だ。
「他にも『ようけ』(たくさん)、『そっけ』(そう)、『だっけ』(でしょ)など、温かみのある表現が豊富です」
スクリーンには菜月が普段使っている言葉がずらりと並んでいる。
「これらの方言を実際に使って会話する福井出身の学生に協力していただき、生きた言語として研究することができました」
会場の視線が菜月を探している気がした。
「それでは、実際に福井弁での会話例をお聞きください」
圭介がマイクを持った。
「今日は、村瀬菜月さんに来ていただいているので、少し福井弁で話していただけませんか?」
菜月は頭が真っ白になった。突然名前を呼ばれるなんて聞いていない。
「え…?」
会場の全員が菜月を見ている。
「あ、あの、菜月さん?」圭介が会場を見回した。
未来が菜月の手を握った。
「断ってもいいのよ」
でも菜月は立ち上がってしまった。断るのも恥ずかしい。
「あ、あの…」
マイクを渡された菜月。手が震えている。
「何か、普段使っている福井弁で話してもらえませんか?」圭介が優しく言った。
「あの、えーっと…」
緊張のあまり、何を話していいか分からない。
「大学生活はどうですか?」圭介が助け船を出した。
「あ、大学は…楽しいやて」
会場から「おー」という声が上がった。
「バイトもしてるんやけど、最初は方言で失敗してばかりで…」
だんだん調子が出てきた菜月。
「お客さんに『つるつるいっぱい』って言って、『?』って顔されたり、『おあげさん』って言って通じんかったり」
会場が笑い声に包まれた。
「でも、今は慣れて、みんな優しくしてくれるやて」
「ありがとうございました」圭介が拍手した。
会場からも大きな拍手が起こった。
◆発表後◆
「菜月さん、ありがとうございました」圭介が近づいてきた。
「あの、急に名前呼ばれるとは思わなくて…」
「すみません、事前に相談すべきでした」
周りの学生たちが菜月に話しかけてきた。
「すごく可愛い方言ですね」
「温かい感じがします」
「福井ってどんなところですか?」
菜月は戸惑いながらも質問に答えていた。
発表会が終わって、未来と菜月は教室の外に出た。
「お疲れさま。すごく良かったよ」
「でも、なんか複雑やて」
「どうして?」
「みんな私の方言を面白がって見てるみたい。まるで珍しい動物みたいに」
未来は菜月の気持ちを理解した。
「確かに、そう感じちゃうかもね」
その時、圭介がやってきた。
「菜月さん、今日は本当にありがとうございました」
「いえ…」
「あの、もしよろしければ、今度お茶でもしませんか?お礼をさせてください」
菜月の心がドキドキした。圭介先輩から誘われるなんて。
「あの、でも…」
「嫌でしたら、無理をしなくても…」
「いえ、そうじゃなくて」菜月が言いかけた時、未来が口を挟んだ。
「菜月ちゃん、時間ないんじゃない?バイトがあるでしょ?」
「あ、そっけ。今日はバイトがあるやて」
「そうですか。では、また今度」圭介が少し残念そうに言った。
「すみません」
圭介が去った後、未来は自分の行動に後悔した。なぜ邪魔をしてしまったのか。
「未来ちゃん、ありがとう。助かったやて」
「え?」
「実は、圭介先輩とお茶するのが怖かったやて」
「どうして?」
「今日の発表会で分かったけど、やっぱり私は『研究対象』なんやと思う」
菜月は複雑な表情を浮かべた。
「圭介先輩は悪い人やないと思うけど、私の方言を『面白い現象』として見てる気がして」
未来は菜月の肩を抱いた。
「菜月ちゃんはそのままで十分素敵よ。研究対象なんかじゃない」
「ありがとう、未来ちゃん」
◆バイト先のサニーテーブルで◆
「菜月ちゃん、今日も元気やの」
佳乃が声をかけてくれた。
「今日はちょっと疲れたやて」
「どうしたん?大学で何かあった?」
菜月は今日の発表会のことを話した。
「へー、圭介先輩が菜月ちゃんのこと発表したんや」
「うん、でもなんか複雑で」
「分かる気がする」佳乃がうなずいた。「私も北海道弁のことで、似たような経験があるもん」
「佳乃ちゃんも?」
「大学入った頃、方言サークルに誘われたことがあるけど、断った」
「どうして?」
「なんか、『珍しいから』って理由やったから。方言を話す自分じゃなくて、北海道弁そのものに興味があるって感じで」
菜月は佳乃の気持ちがよく分かった。
「でも」佳乃が続けた。「本当に菜月ちゃんのことを好きになってくれる人は、方言込みで菜月ちゃんを見てくれるはず」
「そうかの」
「圭介先輩がどっちなのかは、もう少し時間をかけて見極めたらええんちゃう?」
◆その夜、寮にて◆
「今日はお疲れさまでした」
未来が温かいお茶を入れてくれた。
「ありがとう、未来ちゃん」
「発表会、どうだった?率直な感想は?」
「うーん…圭介先輩が私のことをどう思ってるのか、よく分からんくなったやて」
「研究対象として?それとも一人の人間として?」
「そう、それ」
菜月はベッドに横になった。
「でも、今日気づいたことがあるやて」
「何?」
「お茶部の人たちとおった時と、今日の発表会での気持ちが全然違った」
「どういうこと?」
「お茶部では、私の方言を『温かい』って言ってくれるけど、今日は『興味深い』って言われた」
未来は菜月の言葉の違いに気づいた。
「『温かい』と『興味深い』…確かに全然違うわね」
「そう、お茶部では私も一緒に楽しんでるけど、今日は私だけが『観察される側』やった」
菜月の気持ちが整理されてきた。
「私、お茶部に入ろうかな」
「いいと思う。菜月ちゃんが一番自然でいられる場所が一番よ」
その時、菜月の携帯が鳴った。悠真からだった。
「はい、悠真?」
「おう、菜月。今日は大学で発表があったんやってな」
「うん、でも複雑やった」
「どんな風に?」
菜月は悠真に今日の気持ちを話した。悠真は最後まで聞いてくれた。
「菜月は菜月や。方言も含めて菜月なんやから、それを大切にしてくれる人を見つけることや」
「ありがとう、悠真」
「それと、無理して標準語話さんでもいいぞ。菜月らしくおればいい」
電話を切った後、未来が言った。
「悠真くん、いつも的確なアドバイスをくれるのね」
「うん、小さい時からずっと私のことを分かってくれとる」
未来は少し寂しい気持ちになった。悠真のように、菜月のすべてを受け入れて支えてくれる人。自分にはなれないのだろうか。
「未来ちゃんも、いつも私を支えてくれてありがとう」
菜月が突然言った。
「え?」
「あんたがおってくれるから、東京でも頑張れるやて」
未来の胸が温かくなった。
「私も、菜月ちゃんがいてくれて本当に良かった」
二人は見つめ合った。
明日からまた新しい一歩を踏み出そう。自分らしく、でも成長していきながら。
菜月の東京ライフは、まだまだ続いていく。



