初出勤の朝。菜月は5時に目が覚めてしまった。

「緊張して眠れんかった…」

隣のベッドを見ると、未来はまだ気持ちよさそうに寝ている。起こさないよう静かに準備を始めた。

鏡の前で制服に着替えながら、菜月は小声で練習した。

「いらっしゃいませ。ご注文はいかがなさいますか。ありがとうございました」

標準語での接客用語を何度も繰り返す。

「よし、完璧やて」

あ、また出た。

◆サニーテーブル・バックヤード◆

「村瀬さん、おはようございます」

田村店長が笑顔で迎えてくれた。

「おはようございます!今日はよろしくお願いします」

「こちら、先輩の吉田さんです」

紹介されたのは20代前半の明るそうな女性だった。

「初めまして、吉田です。よろしくお願いします」

「村瀬菜月です。よろしくお願いします」

「菜月ちゃんって呼んでもいい?私はゆかりお姉さんって呼んで」

「はい、ゆかりお姉さん」

すると佳乃もやってきた。

「おはよう、菜月ちゃん!」

「佳乃ちゃん、おはよう」

「あら、佳乃ちゃんと知り合いなのね」吉田さんが嬉しそうに言った。「それなら安心ね」

◆研修開始◆

最初はメニューの説明から始まった。

「このハンバーグセットが一番人気なの。ソースは3種類から選べて…」

吉田さんの説明を菜月は一生懸命メモを取りながら聞いていた。

「分からないことがあったら、何でも聞いてね」

「はい、ありがとうございます」

「じゃあ、実際にお客様役をやってみるから、注文を取ってみて」

吉田さんが席に座った。菜月は深呼吸して近づいた。

「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」

「えーっと、ハンバーグセットをお願いします」

「はい、ハンバーグセット一つですね。ソースはいかがなさいますか?」

「デミグラスソースで」

「はい、デミグラスソースですね。お飲み物はいかがですか?」

「アイスコーヒーを」

「アイスコーヒー一つ。かしこまりました」

「上手じゃない!」吉田さんが拍手した。「敬語もちゃんと使えてるし」

菜月は嬉しくなった。練習の成果が出ている。

◆いよいよ実践◆

昼のピークタイム。店内はお客さんでいっぱいだった。

「菜月ちゃん、2番テーブルお願い」

「はい!」

若いカップルが座っている席に向かった。

「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」

「まだ決まってないです」男性が答えた。

「ごゆっくりどうぞ。決まりましたらお呼びください」

菜月は笑顔で頭を下げた。

しばらくして、手を上げてくれたので再び向かった。

「ご注文をお伺いします」

「ビーフカレーとエビピラフをお願いします」

「はい、ビーフカレーとエビピラフですね。辛さはいかがですか?」

「普通で」

「はい、普通でございますね」

ここまでは順調だった。しかし、次の質問で躓いた。

「あの、エビピラフのライスの量はいかがですか?普通盛りか大盛りか…」


「あの、大盛りはいかがですか?」

カップルが首をかしげた。

「あ、すみません!普通盛りか大盛りか、という意味です」

「じゃあ普通で」

「はい、普通でございます。ありがとうございます」

厨房に注文を通しながら、菜月は冷や汗をかいていた。



家族連れのテーブルを担当した菜月。お母さんが質問してきた。

「このサラダ、ドレッシングは何種類ありますか?」

「はい、和風、イタリアン、シーザー、ごまの4種類になります」

「ごまドレッシングをお願いします」

「はい、ごまドレッシングですね。たっぷりかけさせていただきますか?」

ここで菜月の頭に福井の祖母の声が蘇った。『サラダにはドレッシングをようけかけんなん』

「ようけ…いえ、たくさん、おかけしますか?」

「『ようけ』って何?」小学生の男の子が興味深そうに聞いた。

お母さんも笑いながら「関西弁?」と聞いてくる。

「すみません、福井の言葉です。『たくさん』という意味で…」

「へー、福井!面白い言葉使うのね」

「恥ずかしいやて」

「あ、また出た」男の子が嬉しそうに言った。

家族は温かく笑ってくれたが、菜月は穴があったら入りたい気分だった。

◆休憩時間◆

バックヤードで佳乃と一緒に休憩していた。

「菜月ちゃん、お疲れさま。初日にしてはよくやってるよ」

「でも方言出まくりで恥ずかしかったやて」

「また出てる」佳乃がくすっと笑った。「でも大丈夫。私も最初は『なまら』って言っちゃって大変だったから」

「『なまら』?」

「北海道弁で『とても』って意味。『なまら美味しい』とか」

「佳乃ちゃんも方言あるんやの?」

「うん。でも今は意識して標準語話してる。最初の頃は『いずい(しっくりこない)』とか『ばくる(交換する)』とか、通じなくて困ったもん」

同じ境遇の佳乃の話を聞いて、菜月は少し安心した。

「でもね」佳乃が続けた。「お客さん、菜月ちゃんの方言を面白がってくれてるよ。温かい感じがするって」

その時、吉田さんが声をかけてきた。

「菜月ちゃん、さっきの家族連れのお客さん、『あの子可愛いね、福井弁が面白い』って言ってくれてたよ」

「ほんまですか?」

「本当よ。田村店長も『個性的でいいじゃないか』って言ってたし」

菜月は少し嬉しくなった。

◆夕方のピーク◆

夕食時、また忙しくなってきた。菜月は少し慣れてきたのか、スムーズに注文を取れるようになっていた。

その時、見覚えのある顔がドアから入ってきた。

圭介先輩だった。

「あ…」

菜月の心臓がドキドキした。圭介先輩がこのお店に来るなんて。

「菜月ちゃん、5番テーブルお願い」吉田さんに言われ、菜月は圭介先輩のテーブルに向かった。

「いらっしゃいませ…」

「あ、菜月さん!ここでバイトしてるんですね」

圭介先輩が嬉しそうに笑った。

「はい、今日が初日なんです」

「そうなんですか。頑張ってますね」

「ありがとうございます。あの、ご注文は…」

緊張のあまり、菜月の声が小さくなった。

「えーっと、オムライスをお願いします」

「はい、オムライス一つですね。お飲み物はいかがですか?」

「アイスティーを」

「はい、アイスティーですね。かしこまりました」

注文を通してから、菜月はそわそわしていた。圭介先輩に見られてると思うと、いつも以上に緊張してしまう。

オムライスを運ぶ時も、手が震えそうになった。

「お待たせしました。オムライスです」

「ありがとうございます」

圭介先輩が食事をしている間、菜月は何度もちらちらと見てしまった。

お会計の時、圭介先輩が声をかけてくれた。

「とても美味しかったです。お疲れさまでした」

「ありがとうございました。また来てくださいの」

「あ…」

また「〜の」が出てしまった。

圭介先輩は笑って「また来ますね」と言って帰っていった。

◆初日終了◆

「お疲れさまでした!」

スタッフみんなで締めの挨拶。菜月の初日が終わった。

「菜月ちゃん、初日お疲れさま」田村店長が声をかけてくれた。「どうでした?」

「緊張したけど、楽しかったです。でも方言が出てしまって…」

「いいじゃないですか。お客さんも喜んでくれてましたよ」

「そうですか?」

「ええ。個性は大切です。ただし、基本的な接客用語は標準語で覚えてくださいね」

「はい、がんばります」

◆帰り道◆

佳乃と一緒に駅に向かった。

「菜月ちゃん、お疲れさま。初日にしては上出来よ」

「ありがとう、佳乃ちゃん。でも圭介先輩が来た時、めっちゃ緊張したやて」

「圭介先輩って、あの言語学の?」

「うん、入学式で知り合った人や」

「もしかして…好きなの?」佳乃がにやりと笑った。

「そ、そんなんちゃうんやて!」

菜月の顔が真っ赤になった。

「あー、そういう反応する時点でバレバレ」

「やめてよー」

二人は笑いながら駅に向かった。

◆寮に帰って◆

「ただいま」

部屋に帰ると、未来が待っていてくれた。

「お帰り。初日はどうだった?」

「疲れたけど、楽しかったやて」

菜月は今日の出来事を未来に話した。方言で失敗したこと、お客さんが優しかったこと、そして…

「圭介先輩が来てくれたやて」

未来の表情が一瞬曇った。

「そう…良かったじゃない」

「すごく緊張したけどね」

菜月は嬉しそうに話すが、未来は複雑な気持ちだった。圭介先輩の話をする時の菜月は、本当に嬉しそう。

「明日も頑張って」

「うん、がんばるやて」

その夜、菜月はぐっすり眠ったが、未来は少し眠れずにいた。

菜月の新しい世界が広がっていく中で、自分の気持ちはどうなっていくのだろう。

でも菜月の笑顔が見られるなら、それでいいのかもしれない。

そんなことを考えながら、未来もようやく眠りについた。