入学式から三日後、ついに大学生活本格スタートの日がやってきた。菜月は朝から張り切って準備をしている。
「今日こそは標準語で頑張るんやて!」
「また出てるよ」未来が苦笑いしながら指摘した。「『頑張るぞ』でしょ?」
「あ!もう、緊張すると出てしまうんやって」
「それも」
「あああ!」
菜月は頭を抱えた。一方の未来は、なんだかんだでこの朝のやりとりが楽しくて仕方がない。菜月の慌てぶりが可愛くて、つい見とれてしまう。
「でも大丈夫、きっと慣れるよ」優しく背中を叩きながら、未来は自分の気持ちを隠そうとした。
大きな講義室に足を踏み入れた菜月。200人ほどの学生がひしめいている。
「うわあ、人多いの…」
隣に座った女子学生が振り返った。
「すみません、今何とおっしゃいました?」
「あ、人が多いですね、って言ったつもりやったんですけど…」
「『やった』?関西の方ですか?」
「いえ、福井です」
「福井!初めて会いました。私、北海道出身の山田佳乃です」
佳乃は人懐っこい笑顔で自己紹介してくれた。同じく地方出身ということで、菜月はほっとした。
「村瀬菜月です。よろしくお願いします」
「村瀬さんの話し方、なんか温かくていいですね。私、標準語話そうとして変になっちゃうんです」
「私もやって!」
二人は意気投合した。そこへ教授が入ってきた。50代くらいの穏やかそうな男性だ。
「皆さん、おはようございます。鈴木です」
講義が始まって30分ほど経った頃、教授が質問を投げかけた。
「万葉集の東歌について、何かご存知の方はいらっしゃいますか?」
菜月の手がすっと上がった。故郷で祖母から聞いた話を思い出していた。
「はい、村瀬です」
「どうぞ」
「あの、うちのおばあちゃんが言うとったんやけど…」
教室がざわめいた。菜月は慌てて言い直そうとする。
「あ、えーっと、祖母が言っていたんやけど、昔の人の歌って、今の方言みたいなもんやったんちゃいますか?」
「『やったんちゃいますか』?」鈴木教授が興味深そうに聞き返した。「つまり、当時の人々も地域独特の言葉で歌を詠んでいたということですね?」
「そ、そうです」
「素晴らしい着眼点ですね。まさにその通りです」
教授は黒板に向かい、東歌の例を書き始めた。
「関東地方の方言で詠まれた歌群を東歌と呼びます。村瀬さんのおっしゃる通り、これらは当時の『生きた言葉』で詠まれているんです」
菜月はびっくりした。まさか祖母の話が授業で役に立つなんて。
講義後、鈴木教授が菜月に声をかけた。
「村瀬さん、ちょっと良いですか?」
「はい」緊張する菜月。
「あなたの方言、とても興味深いです。福井の言葉には古い日本語の名残がたくさん残っているんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。よろしければ、今度研究のお手伝いをしていただけませんか?」
昼休み、菜月と佳乃は学食で昼食を取っていた。
「村瀬さん、すごいじゃない!もう教授と仲良しなんて」
「いや、たまたまやって」
「また『やって』!可愛い」
そこに圭介がやってきた。
「菜月さん、こんにちは」
「あ、圭介先輩!」菜月の顔がぱっと明るくなった。
佳乃は二人のやりとりを見ながら、「ああ、これは…」と思った。明らかに菜月が圭介に好意を持っている。
「今日の講義、聞いてましたよ。方言についての発言、とても興味深かったです」
「聞いてはったんですか?」
「『聞いてはった』…敬語も方言なんですね」圭介が嬉しそうに笑った。
その時、未来がやってきた。圭介と菜月が楽しそうに話しているのを見て、胸がちくりと痛んだ。
「菜月ちゃん、お疲れさま」
「未来ちゃん!こっち、こっち」
菜月は手を振って未来を呼んだ。無邪気な笑顔に、未来の胸がさらに締め付けられる。
「圭介先輩、未来ちゃんです。ルームメイトの」
「初めまして、田中です」
「佐伯です」
未来の声は少し冷たかった。圭介は少し戸惑いながらも、にこやかに挨拶した。
英語の講義で、菜月は大苦戦していた。
「Can you tell me about your hometown?」
先生に指名された菜月は立ち上がった。
「あの…My hometown is...えーっと…」
頭が真っ白になった。英語と標準語、どちらも意識しすぎて何も出てこない。
「My hometown is Fukui. It's very...あの、なんて言うんやったっけ…」
「『やったっけ』って何?」クラスメイトがひそひそ話す。
菜月の顔が真っ赤になった。
「I'm sorry, I can't speak English well...」
「It's okay, take your time」先生が優しく言ってくれたが、菜月は座り込んでしまった。
「今日は散々やった…」
ベッドにうつ伏せになった菜月。未来は心配になって隣に座った。
「英語の授業、つらかったね」
「みんなの前で恥かいてもうた」
未来は菜月の背中をそっと撫でた。
「大丈夫よ。慣れれば絶対できるようになる」
「ほんまに?」
「本当よ。それに、今日の文学の講義では先生に褒められたじゃない」
菜月が少し顔を上げた。
「そやった。でも、圭介先輩にも変な話し方やと思われたかも…」
未来の手が一瞬止まった。
「圭介先輩のことばっかり気にしてるのね」
「え?」
「なんでもない」
未来は立ち上がろうとしたが、菜月が手を掴んだ。
「未来ちゃん、ありがとう。あんたがおってくれるから、頑張れるんやて」
未来の心臓がドキドキした。菜月の手の温かさ、無邪気な笑顔。
「私も…菜月ちゃんがいてくれて良かった」
「ほんまに?」
「本当」
その時、菜月の携帯が鳴った。悠真からだった。
「はい、悠真?」
「おー、菜月。今日はどうやった?」
菜月は今日の出来事を福井弁で悠真に話し始めた。英語の失敗、文学の授業での成功、圭介先輩のこと…。
未来は複雑な気持ちで聞いていた。菜月が悠真と話している時の表情は、とても自然で幸せそう。そして圭介先輩の話をしている時は、少し照れている。
自分といる時の菜月は?
「悠真も大学楽しいけ?」
「おう、それなりにな。でも菜月の話聞いてる方が面白いわ」
電話の向こうで悠真が笑った。
電話を切った後、菜月が振り返った。
「悠真が、『菜月らしくしとればいい』って」
「そうね」未来は少し寂しそうに微笑んだ。「悠真くんの言う通りよ」
「でも、やっぱり標準語も頑張らんなん」
「頑張らなくちゃ、ね」
「そっけそっけ」
菜月は笑ったが、未来の表情が少し曇っているのに気づいた。
「未来ちゃん、どうしたん?」
「なんでもないよ。ちょっと疲れただけ」
でも本当は、自分の気持ちがよく分からなくて混乱していた。菜月のことが大切なのは確か。でもそれが友情なのか、それとも…。
「明日も頑張ろうね」
「うん、頑張るやて」
二人は笑い合ったが、それぞれの心には複雑な思いが渦巻いていた。
明日はまた、どんなドタバタが待っているのだろうか。
「今日こそは標準語で頑張るんやて!」
「また出てるよ」未来が苦笑いしながら指摘した。「『頑張るぞ』でしょ?」
「あ!もう、緊張すると出てしまうんやって」
「それも」
「あああ!」
菜月は頭を抱えた。一方の未来は、なんだかんだでこの朝のやりとりが楽しくて仕方がない。菜月の慌てぶりが可愛くて、つい見とれてしまう。
「でも大丈夫、きっと慣れるよ」優しく背中を叩きながら、未来は自分の気持ちを隠そうとした。
大きな講義室に足を踏み入れた菜月。200人ほどの学生がひしめいている。
「うわあ、人多いの…」
隣に座った女子学生が振り返った。
「すみません、今何とおっしゃいました?」
「あ、人が多いですね、って言ったつもりやったんですけど…」
「『やった』?関西の方ですか?」
「いえ、福井です」
「福井!初めて会いました。私、北海道出身の山田佳乃です」
佳乃は人懐っこい笑顔で自己紹介してくれた。同じく地方出身ということで、菜月はほっとした。
「村瀬菜月です。よろしくお願いします」
「村瀬さんの話し方、なんか温かくていいですね。私、標準語話そうとして変になっちゃうんです」
「私もやって!」
二人は意気投合した。そこへ教授が入ってきた。50代くらいの穏やかそうな男性だ。
「皆さん、おはようございます。鈴木です」
講義が始まって30分ほど経った頃、教授が質問を投げかけた。
「万葉集の東歌について、何かご存知の方はいらっしゃいますか?」
菜月の手がすっと上がった。故郷で祖母から聞いた話を思い出していた。
「はい、村瀬です」
「どうぞ」
「あの、うちのおばあちゃんが言うとったんやけど…」
教室がざわめいた。菜月は慌てて言い直そうとする。
「あ、えーっと、祖母が言っていたんやけど、昔の人の歌って、今の方言みたいなもんやったんちゃいますか?」
「『やったんちゃいますか』?」鈴木教授が興味深そうに聞き返した。「つまり、当時の人々も地域独特の言葉で歌を詠んでいたということですね?」
「そ、そうです」
「素晴らしい着眼点ですね。まさにその通りです」
教授は黒板に向かい、東歌の例を書き始めた。
「関東地方の方言で詠まれた歌群を東歌と呼びます。村瀬さんのおっしゃる通り、これらは当時の『生きた言葉』で詠まれているんです」
菜月はびっくりした。まさか祖母の話が授業で役に立つなんて。
講義後、鈴木教授が菜月に声をかけた。
「村瀬さん、ちょっと良いですか?」
「はい」緊張する菜月。
「あなたの方言、とても興味深いです。福井の言葉には古い日本語の名残がたくさん残っているんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。よろしければ、今度研究のお手伝いをしていただけませんか?」
昼休み、菜月と佳乃は学食で昼食を取っていた。
「村瀬さん、すごいじゃない!もう教授と仲良しなんて」
「いや、たまたまやって」
「また『やって』!可愛い」
そこに圭介がやってきた。
「菜月さん、こんにちは」
「あ、圭介先輩!」菜月の顔がぱっと明るくなった。
佳乃は二人のやりとりを見ながら、「ああ、これは…」と思った。明らかに菜月が圭介に好意を持っている。
「今日の講義、聞いてましたよ。方言についての発言、とても興味深かったです」
「聞いてはったんですか?」
「『聞いてはった』…敬語も方言なんですね」圭介が嬉しそうに笑った。
その時、未来がやってきた。圭介と菜月が楽しそうに話しているのを見て、胸がちくりと痛んだ。
「菜月ちゃん、お疲れさま」
「未来ちゃん!こっち、こっち」
菜月は手を振って未来を呼んだ。無邪気な笑顔に、未来の胸がさらに締め付けられる。
「圭介先輩、未来ちゃんです。ルームメイトの」
「初めまして、田中です」
「佐伯です」
未来の声は少し冷たかった。圭介は少し戸惑いながらも、にこやかに挨拶した。
英語の講義で、菜月は大苦戦していた。
「Can you tell me about your hometown?」
先生に指名された菜月は立ち上がった。
「あの…My hometown is...えーっと…」
頭が真っ白になった。英語と標準語、どちらも意識しすぎて何も出てこない。
「My hometown is Fukui. It's very...あの、なんて言うんやったっけ…」
「『やったっけ』って何?」クラスメイトがひそひそ話す。
菜月の顔が真っ赤になった。
「I'm sorry, I can't speak English well...」
「It's okay, take your time」先生が優しく言ってくれたが、菜月は座り込んでしまった。
「今日は散々やった…」
ベッドにうつ伏せになった菜月。未来は心配になって隣に座った。
「英語の授業、つらかったね」
「みんなの前で恥かいてもうた」
未来は菜月の背中をそっと撫でた。
「大丈夫よ。慣れれば絶対できるようになる」
「ほんまに?」
「本当よ。それに、今日の文学の講義では先生に褒められたじゃない」
菜月が少し顔を上げた。
「そやった。でも、圭介先輩にも変な話し方やと思われたかも…」
未来の手が一瞬止まった。
「圭介先輩のことばっかり気にしてるのね」
「え?」
「なんでもない」
未来は立ち上がろうとしたが、菜月が手を掴んだ。
「未来ちゃん、ありがとう。あんたがおってくれるから、頑張れるんやて」
未来の心臓がドキドキした。菜月の手の温かさ、無邪気な笑顔。
「私も…菜月ちゃんがいてくれて良かった」
「ほんまに?」
「本当」
その時、菜月の携帯が鳴った。悠真からだった。
「はい、悠真?」
「おー、菜月。今日はどうやった?」
菜月は今日の出来事を福井弁で悠真に話し始めた。英語の失敗、文学の授業での成功、圭介先輩のこと…。
未来は複雑な気持ちで聞いていた。菜月が悠真と話している時の表情は、とても自然で幸せそう。そして圭介先輩の話をしている時は、少し照れている。
自分といる時の菜月は?
「悠真も大学楽しいけ?」
「おう、それなりにな。でも菜月の話聞いてる方が面白いわ」
電話の向こうで悠真が笑った。
電話を切った後、菜月が振り返った。
「悠真が、『菜月らしくしとればいい』って」
「そうね」未来は少し寂しそうに微笑んだ。「悠真くんの言う通りよ」
「でも、やっぱり標準語も頑張らんなん」
「頑張らなくちゃ、ね」
「そっけそっけ」
菜月は笑ったが、未来の表情が少し曇っているのに気づいた。
「未来ちゃん、どうしたん?」
「なんでもないよ。ちょっと疲れただけ」
でも本当は、自分の気持ちがよく分からなくて混乱していた。菜月のことが大切なのは確か。でもそれが友情なのか、それとも…。
「明日も頑張ろうね」
「うん、頑張るやて」
二人は笑い合ったが、それぞれの心には複雑な思いが渦巻いていた。
明日はまた、どんなドタバタが待っているのだろうか。



