入学式当日の朝、菜月は鏡の前で何度も練習していた。
「わたくし、村瀬菜月と申します。よろしくお願いいたします」
標準語での自己紹介を完璧にマスターしたつもりだった。隣のベッドで準備をしている未来が、くすくすと笑いながら振り返る。
「菜月ちゃん、そんなに緊張しなくても大丈夫よ。入学式なんて、みんなドキドキしてるもの」
「でも、変な話し方したら恥ずかしいやて…」
「あ、また出た」未来が指摘する。「『やて』って『だよね』ってこと?」
「あ!」菜月は口を手で押さえた。「だから練習しとったのに…」
「『しとった』も可愛いじゃない。でもまあ、気をつけたいなら頑張って」
大学の講堂は新入生で埋め尽くされていた。菜月は未来と一緒に中ほどの席に座り、周りを見回した。みんな都会っぽくて洗練されて見える。
「すごい人やの…」
「『やの』?今度は『だね』?」
「あ、また!」
学長の挨拶が終わり、新入生代表挨拶の時間になった。突然、司会者が菜月の方を向いた。
「それでは、文学部代表として、村瀬菜月さんにお願いいたします」
「え?」
菜月の頭が真っ白になった。そんな話、聞いていない。慌てて立ち上がると、隣の未来が小声で教えてくれた。
「入学書類に『人前で話すのが得意』って書いたでしょ?」
確かに、故郷では子供会やお祭りの司会をよくやっていた。でも、それは福井での話。東京でこんなにたくさんの人の前で話すなんて…。
壇上に上がった菜月は、マイクの前に立った。会場がしーんと静まり返る。練習した標準語での挨拶が頭に浮かんだが、緊張のあまり口が動かない。
「あの…えーっと…」
深呼吸をして、菜月は口を開いた。
「皆さん、初めまして。村瀬菜月やて」
会場がざわめいた。しまった、と思ったが、もう止まらない。
「福井から出てきました。こんにゃ大きい大学で勉強できるなんて、夢みたいや。みんな頭良さそうで、私なんかついていけるか心配やけど…」
客席からくすくすと笑い声が聞こえ始めた。菜月の頬が赤くなる。
「でも、一生懸命がんばりますけ。みなさん、よろしゅうお願いします!」
深々と頭を下げると、会場から温かい拍手が沸き起こった。意外だった。もっと冷たい反応を覚悟していたのに。
壇上から降りながら、菜月は客席を見回した。その時、後ろの方に座っている男子学生と目が合った。短い黒髪に優しそうな眼鏡、にこやかに拍手をしている。
「おつかれさま」席に戻ると、未来が肩を叩いてくれた。「すごく良いスピーチだったよ」
「でも、全部方言で話してしもうた…」
「『してしまった』ね。でも、みんな温かい反応だったじゃない。菜月ちゃんの人柄が伝わったのよ」
式が終わって外に出ると、さっき目が合った眼鏡の男子学生が近づいてきた。
「あの、素晴らしいスピーチでした」
「あ、ありがとうございます…でも恥ずかしかったんやって」
「また出た」未来がボソッとつぶやく。
男子学生が笑った。
「僕、田中圭介です。関西出身なんですが、方言の温かさ、すごく伝わりました」
「関西!」菜月の目が輝いた。「私も方言やもんで、親近感わきます」
「『やもんで』って言うんですね。福井弁って面白いなあ」
未来は二人のやりとりを見ながら、なんとなくもやもやした気持ちになった。菜月が他の人とこんなに楽しそうに話しているのを見るのは初めてだった。
「あの、良かったら今度、方言について語りませんか?」圭介が提案した。「僕、言語学に興味があるんです」
「ほやほや!」菜月が手を叩いた。「もしよろしかったら、今度お時間あるときに」
標準語で言い直そうとする菜月を見て、圭介が首を振った。
「そのまま話してください。福井弁、とても魅力的です」
菜月の頬がほんのり赤らんだ。
その日の夜、寮の部屋で未来と菜月は入学式の感想を話していた。
「圭介先輩、やさしい人やったの」
「『でしたね』でしょ」未来が少しぶっきらぼうに言った。
「あ、そっけそっけ。でも、方言のこと理解してくれて嬉しかったやて」
未来は複雑な気持ちだった。菜月の方言を一番最初に受け入れたのは自分だったのに、圭介先輩の登場で何だか置いていかれたような気分になる。
「菜月ちゃん、圭介先輩のこと気に入ったの?」
「え?」菜月がきょとんとした。「やさしい先輩やなあと思っただけやって」
「そう…」
その時、菜月の携帯が鳴った。故郷の悠真からだった。
「もしもし、悠真?」
「おー、菜月。入学式どうやった?」
「それがね…」菜月は今日の出来事を福井弁で悠真に報告した。代表挨拶の話、圭介先輩との出会い、全部を楽しそうに話す。
電話を切った後、未来が聞いた。
「悠真くんって、幼なじみなのよね」
「うん。小さい時からの付き合いやて」
「彼氏とか、そういうんじゃないの?」
「悠真?」菜月が首をかしげた。「そんなんじゃないやって。ただの幼なじみ」
でも、電話で話している時の菜月はとても楽しそうだった。福井弁で自然に話している姿を見ていると、未来は菜月の本当の顔を見ているような気がした。
「私も菜月ちゃんと、もっと自然に話せるようになりたいな」
「え?」
「なんでもない」
窓の外では東京の夜景が輝いている。菜月にとって新しい生活が始まったばかり。これから一体どんなことが待っているのだろう。
「明日から授業やの。がんばらんなんね」
「『がんばらなくちゃ』ね」
「ほやほや(そうそう)!」
二人は笑いながら、それぞれの明日への思いを胸に眠りについた。
でも未来は、なかなか寝付けずにいた。菜月の寝顔を見つめながら、自分の気持ちがよく分からなくなっていた。
圭介先輩への複雑な気持ち、悠真への何となくのヤキモチ、そして菜月への…この気持ちは一体何なのだろう。
「菜月ちゃん…」
小さくつぶやいて、未来もようやく眠りについた。
新学期最初の日、きっとまた色々なことが起こるに違いない。
「わたくし、村瀬菜月と申します。よろしくお願いいたします」
標準語での自己紹介を完璧にマスターしたつもりだった。隣のベッドで準備をしている未来が、くすくすと笑いながら振り返る。
「菜月ちゃん、そんなに緊張しなくても大丈夫よ。入学式なんて、みんなドキドキしてるもの」
「でも、変な話し方したら恥ずかしいやて…」
「あ、また出た」未来が指摘する。「『やて』って『だよね』ってこと?」
「あ!」菜月は口を手で押さえた。「だから練習しとったのに…」
「『しとった』も可愛いじゃない。でもまあ、気をつけたいなら頑張って」
大学の講堂は新入生で埋め尽くされていた。菜月は未来と一緒に中ほどの席に座り、周りを見回した。みんな都会っぽくて洗練されて見える。
「すごい人やの…」
「『やの』?今度は『だね』?」
「あ、また!」
学長の挨拶が終わり、新入生代表挨拶の時間になった。突然、司会者が菜月の方を向いた。
「それでは、文学部代表として、村瀬菜月さんにお願いいたします」
「え?」
菜月の頭が真っ白になった。そんな話、聞いていない。慌てて立ち上がると、隣の未来が小声で教えてくれた。
「入学書類に『人前で話すのが得意』って書いたでしょ?」
確かに、故郷では子供会やお祭りの司会をよくやっていた。でも、それは福井での話。東京でこんなにたくさんの人の前で話すなんて…。
壇上に上がった菜月は、マイクの前に立った。会場がしーんと静まり返る。練習した標準語での挨拶が頭に浮かんだが、緊張のあまり口が動かない。
「あの…えーっと…」
深呼吸をして、菜月は口を開いた。
「皆さん、初めまして。村瀬菜月やて」
会場がざわめいた。しまった、と思ったが、もう止まらない。
「福井から出てきました。こんにゃ大きい大学で勉強できるなんて、夢みたいや。みんな頭良さそうで、私なんかついていけるか心配やけど…」
客席からくすくすと笑い声が聞こえ始めた。菜月の頬が赤くなる。
「でも、一生懸命がんばりますけ。みなさん、よろしゅうお願いします!」
深々と頭を下げると、会場から温かい拍手が沸き起こった。意外だった。もっと冷たい反応を覚悟していたのに。
壇上から降りながら、菜月は客席を見回した。その時、後ろの方に座っている男子学生と目が合った。短い黒髪に優しそうな眼鏡、にこやかに拍手をしている。
「おつかれさま」席に戻ると、未来が肩を叩いてくれた。「すごく良いスピーチだったよ」
「でも、全部方言で話してしもうた…」
「『してしまった』ね。でも、みんな温かい反応だったじゃない。菜月ちゃんの人柄が伝わったのよ」
式が終わって外に出ると、さっき目が合った眼鏡の男子学生が近づいてきた。
「あの、素晴らしいスピーチでした」
「あ、ありがとうございます…でも恥ずかしかったんやって」
「また出た」未来がボソッとつぶやく。
男子学生が笑った。
「僕、田中圭介です。関西出身なんですが、方言の温かさ、すごく伝わりました」
「関西!」菜月の目が輝いた。「私も方言やもんで、親近感わきます」
「『やもんで』って言うんですね。福井弁って面白いなあ」
未来は二人のやりとりを見ながら、なんとなくもやもやした気持ちになった。菜月が他の人とこんなに楽しそうに話しているのを見るのは初めてだった。
「あの、良かったら今度、方言について語りませんか?」圭介が提案した。「僕、言語学に興味があるんです」
「ほやほや!」菜月が手を叩いた。「もしよろしかったら、今度お時間あるときに」
標準語で言い直そうとする菜月を見て、圭介が首を振った。
「そのまま話してください。福井弁、とても魅力的です」
菜月の頬がほんのり赤らんだ。
その日の夜、寮の部屋で未来と菜月は入学式の感想を話していた。
「圭介先輩、やさしい人やったの」
「『でしたね』でしょ」未来が少しぶっきらぼうに言った。
「あ、そっけそっけ。でも、方言のこと理解してくれて嬉しかったやて」
未来は複雑な気持ちだった。菜月の方言を一番最初に受け入れたのは自分だったのに、圭介先輩の登場で何だか置いていかれたような気分になる。
「菜月ちゃん、圭介先輩のこと気に入ったの?」
「え?」菜月がきょとんとした。「やさしい先輩やなあと思っただけやって」
「そう…」
その時、菜月の携帯が鳴った。故郷の悠真からだった。
「もしもし、悠真?」
「おー、菜月。入学式どうやった?」
「それがね…」菜月は今日の出来事を福井弁で悠真に報告した。代表挨拶の話、圭介先輩との出会い、全部を楽しそうに話す。
電話を切った後、未来が聞いた。
「悠真くんって、幼なじみなのよね」
「うん。小さい時からの付き合いやて」
「彼氏とか、そういうんじゃないの?」
「悠真?」菜月が首をかしげた。「そんなんじゃないやって。ただの幼なじみ」
でも、電話で話している時の菜月はとても楽しそうだった。福井弁で自然に話している姿を見ていると、未来は菜月の本当の顔を見ているような気がした。
「私も菜月ちゃんと、もっと自然に話せるようになりたいな」
「え?」
「なんでもない」
窓の外では東京の夜景が輝いている。菜月にとって新しい生活が始まったばかり。これから一体どんなことが待っているのだろう。
「明日から授業やの。がんばらんなんね」
「『がんばらなくちゃ』ね」
「ほやほや(そうそう)!」
二人は笑いながら、それぞれの明日への思いを胸に眠りについた。
でも未来は、なかなか寝付けずにいた。菜月の寝顔を見つめながら、自分の気持ちがよく分からなくなっていた。
圭介先輩への複雑な気持ち、悠真への何となくのヤキモチ、そして菜月への…この気持ちは一体何なのだろう。
「菜月ちゃん…」
小さくつぶやいて、未来もようやく眠りについた。
新学期最初の日、きっとまた色々なことが起こるに違いない。



