圭介先輩との誤解が解けて数日後。菜月はバイト先のサニーテーブルでいつも通り働いていた。

「村瀬さん、3番テーブルお願い」

田村店長に言われ、菜月は明るく返事した。

「はい!」

3番テーブルには、幸せそうな新婚カップルが座っていた。二人とも指には新しい結婚指輪が輝いている。

「ご注文はお決まりですか?」

「はい、カップルセットを二つお願いします」若い夫が答えた。

「かしこまりました。カップルセット二つですね」

注文を受けながら、菜月は二人の幸せそうな様子を見ていた。手を繋ぎ合って、お互いを見つめ合っている。

「お飲み物はいかがですか?」

「コーヒーとアイスティーをお願いします」

「かしこまりました」

菜月がオーダーを確認して立ち去ろうとした時、思わず口から言葉が漏れた。

「けなるいの」

新婚の妻が振り返った。

「え?今、何とおっしゃいました?」

「あ、いえ、その…」

菜月は慌てた。つい福井弁が出てしまった。

「『けなるい』と言いましたか?」夫も少し困惑した表情。

「あの、これは福井の方言で…」

「方言?」妻が不安そうな顔になった。

「えーっと、『うらやましい』という意味やて」

「うらやましい?」

二人は顔を見合わせた。そして、妻の表情が曇った。

「どういう意味ですか?私たちの何がうらやましいんですか?」

「え?いや、そうやなくて!」

菜月は慌てて説明しようとしたが、福井弁が混じってしまう。

「お二人がすごく幸せそうやから、けなるいなあって思って…」

「幸せそうだから、けなるい?」夫が眉をひそめた。

「羨ましいということは、何か欲しいものがあるんですか?」

「違うがやって!」

菜月の声が大きくなり、早口になった。周りのお客さんが振り返る。

「そんなに怒らなくても…」妻が怯えた表情を見せた。

「怒ってないやて!」

完全に誤解が広がっている。

佳乃が慌てて駆けつけた。

「すみません、彼女が失礼しました」

「どういうことですか?」夫が不満そうに言った。

佳乃が丁寧に説明した。

「福井では『うらやましい』を『けなるい』と言うんです。彼女はお二人が幸せそうで素敵だなと思っただけで、決して悪い意味ではありません」

「そうなんですか…」

ようやく二人の表情が和らいだ。

「本当に申し訳ありませんでした」菜月が深々と頭を下げた。

「大丈夫です。誤解でしたね」

カップルは許してくれたが、菜月は落ち込んでいた。

◆バックヤードで◆

「ごめん、佳乃ちゃん。助けてもらって」

「大丈夫。でも、接客中は標準語を意識した方がいいかも」

「そうやの…」

田村店長も心配そうに声をかけてきた。

「村瀬さん、大丈夫?」

「すみません、店長。気をつけます」

「方言は悪いことじゃないけど、お客様に誤解を与えないようにね」

「はい」



気を取り直して、菜月は午後のシフトも頑張った。

「5番テーブル、お片付けお願い」

吉田さんに言われ、菜月はお客さんが帰った後のテーブルに向かった。

食器を片付けながら、ゴミ箱に捨てられた雑誌が目に入った。それは菜月が前から欲しかった料理雑誌の季刊誌だった。

「あ!」

思わず手を伸ばして雑誌を拾い上げた。

「これ私が欲しかったやつや!おとましいんやわ!」

その瞬間、店内が静まり返った。

隣のテーブルのお客さんが驚いた顔で菜月を見ている。バックヤードから田村店長が飛び出してきた。

「村瀬さん!」

菜月はハッとした。自分が何をしたか、ようやく気づいた。

お客さんのゴミを勝手に拾い上げて、「欲しかった」と大声で言ってしまった。

「あ、あの、これは…」

店長が菜月の腕を掴んだ。

「バックヤードに来なさい」



「村瀬さん、どういうつもりですか?」

田村店長の声は厳しかった。

「お客様のゴミを勝手に拾って、『欲しかった』なんて」

「すみません、でも、あれは…」

「言い訳は聞きたくありません」

他のスタッフも心配そうに見ている。吉田さんも、佳乃も。

「あの、店長」菜月が必死に説明した。

「『おとましい』っていうのは、福井の方言で『もったいない』という意味ながやて」

「もったいない?」

「はい、綺麗な雑誌が捨てられてて、もったいないなあって思って…」

店長の表情が少し和らいだ。

「そういう意味でしたか」

「はい、お客さんのものを欲しいとか、盗もうとかやなくて、捨てるのがもったいないって…」

菜月の目に涙が浮かんだ。

「でも、言い方が悪かったです。お客さんにも、みなさんにも誤解を与えてしまって」

田村店長は深くため息をついた。

「村瀬さん、君の方言は温かくて好きです。でも、接客中は誤解を招かないように気をつけてください」

「はい」

「それから、お客様が捨てたものを勝手に拾うのも、たとえもったいないと思っても、控えてください」

「はい、本当にすみませんでした」

菜月は深々と頭を下げた。

◆休憩室で◆

「大丈夫?」佳乃が心配そうに声をかけてきた。

「ごめん、みんなに迷惑かけて」

「大丈夫よ。でも、『おとましい』って言葉、初めて聞いた」

「福井では普通に使うがやけど、東京では通じんやの」

吉田さんもやってきた。

「菜月ちゃん、元気出して。誤解は解けたから」

「でも、お客さんにも変な目で見られてしもうた」

「大丈夫、店長もちゃんと説明してくれたから」

でも菜月の心は沈んだままだった。

◆シフト終了後◆

「お疲れさまでした」

スタッフルームで着替えていると、田村店長が声をかけてきた。

「菜月ちゃん、ちょっといいですか?」

「はい」

菜月は緊張した。もしかして、クビになる?

「さっきは厳しく言ってしまいましたが、君の仕事ぶりはとても良いです」

「え?」

「方言のことも、悪いことじゃない。ただ、お客様に誤解を与えないように、少し気をつけてくれれば」

「ありがとうございます」

菜月の目に涙が浮かんだ。

「それから、『おとましい』という言葉、いい言葉ですね。ものを大切にする心が伝わります」

「ほんまですか?」

「本当です。でも、次からはお客様のゴミは、勝手に拾わないように」

「はい、気をつけます」

田村店長が笑った。

「君の方言、嫌いじゃないですよ。むしろ、このお店の個性になってる」

「ありがとうございます」

◆帰り道◆

「菜月ちゃん、お疲れさま」

佳乃が一緒に駅まで歩いてくれた。

「今日は散々やったの」

「大丈夫、みんな分かってくれたから」

「でも、また方言で失敗してしもうた」

「私も最初はそうやったよ。北海道弁で色々失敗した」

「ほんまに?」

「うん。『なまら』とか『したっけ』とか、全然通じなくて困ったもん」

佳乃の話を聞いて、菜月は少し慰められた。

「でもね」佳乃が続けた。「方言は恥ずかしいもんやないよ。ただ、使う場面を考えんとあかんだけ」

「使う場面?」

「接客中は標準語を意識して、プライベートでは方言でいい。そうやって使い分ければええんよ」

「そうやの…」

「それに、菜月ちゃんの方言、お客さんの中には好きな人もいっぱいおるで」

「ほんまに?」

「うん。『あの子の話し方、温かくて好き』って言ってた人もおったよ」

菜月は少し元気になった。

◆寮に帰って◆

「ただいま」

重い足取りで帰ってきた菜月を、未来が迎えた。

「お帰り。今日はどうだった?」

菜月は今日の失敗を全部話した。新婚カップルへの「けなるい」発言、雑誌を拾った時の「おとましい」騒動。

「大変だったのね」

「もう、方言やめた方がいいんかの」

「そんなこと言わないで」未来が菜月の肩を抱いた。

「でも、迷惑ばっかりかけてしまう」

「菜月ちゃんの方言は迷惑なんかじゃないわ。それが菜月ちゃんらしさなんだから」

「未来ちゃん…」

「確かに誤解を招くこともあるけど、それを恥じる必要はないのよ」

未来の優しい言葉に、菜月は涙が溢れた。

「ありがとう、未来ちゃん」

「どういたしまして」

その時、携帯が鳴った。さくらからだった。

「もしもし、さくらちゃん?」

「菜月ちゃん、佳乃ちゃんから聞いたよ。大丈夫?」

「うん、大丈夫やて」

「『けなるい』も『おとましい』も、素敵な言葉じゃない。誤解されても、菜月ちゃんが悪いわけじゃないよ」

さくらの温かい言葉にも励まされた。

電話を切った後、もう一本電話がかかってきた。悠真からだった。

「もしもし、悠真?」

「おう、菜月。今日は大変やったんやってな」

「どうして知ってるの?」

「なんとなく、菜月の声で分かる」

悠真の優しい声に、菜月はまた涙が出そうになった。

「方言で失敗ばっかりしてしまう」

「それでええんや」

「え?」

「菜月は菜月や。無理して変わる必要なんかない」

「でも…」

「確かに、使い分けは必要かもしれん。でも、方言を捨てる必要はないやろ」

悠真の言葉は、いつも菜月の心に響く。

「ありがとう、悠真」

「元気出せよ。菜月の方言、俺は好きやで」

電話を切った後、菜月は未来を見た。

「みんなが励ましてくれる」

「だって、菜月ちゃんは愛されてるもの」

「ありがとう」

その夜、菜月は考えた。

方言を完全に捨てる必要はない。でも、使い分けは必要かもしれない。

接客中は標準語を意識して、プライベートでは自然に方言を使う。

それができれば、きっと東京でも故郷でも、自分らしくいられるはず。

「頑張るやて」

小さくつぶやいて、菜月はベッドに入った。

明日からまた、新しい一歩を踏み出そう。

方言も、自分らしさも、全部大切にしながら。