文化祭から一週間後。菜月は体調を崩していた。

「うう、かぜねつができてしもうた…」

鏡で口の中を確認しながら、菜月はうなった。

「『かぜねつ』?」未来が心配そうに覗き込んだ。「熱はないみたいだけど」

「口内炎のことやて。福井では『かぜねつ』って言うがよ」

「へー、初めて聞いた。痛そうね」

菜月は痛みで顔をしかめた。これではバイトも部活も辛い。

◆バイト先のサニーテーブルで◆

「菜月ちゃん、顔色悪いけど大丈夫?」

佳乃が心配そうに声をかけてきた。

「かぜねつができて、痛いがやて」

「『かぜねつ』?」

「口内炎のことやて」

「あー、それは辛いね。私も北海道では違う呼び方してたなあ」

「なんて言うの?」

「『くちいび』って言ってた。でも東京来てから『口内炎』って言うようになったけどね」

同じような経験をした佳乃の言葉に、菜月は少し慰められた。

◆お茶部でも…◆

「菜月ちゃん、今日は元気ないね」さくらが心配そうに言った。

「かぜねつができて、痛いがやて」

「『かぜねつ』って何?」

「口内炎のこと」麻美部長が説明してくれた。「確か福井の方言よね」

「そうです」菜月が頷いた。

「可愛い呼び方ね」さくらが微笑んだ。「『かぜねつ』…覚えちゃいそう」

さくらの優しい反応に、菜月は少し嬉しくなった。

◆お茶の練習中のハプニング◆

「菜月ちゃん、テレビつけてもらえる?」

休憩時間に麻美部長が頼んだ。ニュースを見たいとのことだった。

菜月がリモコンを操作したが、画面が砂嵐状態になってしまった。

「あれ、じゃみじゃみになってしもうた」

「え?『じゃみじゃみ』?」さくらが首をかしげた。

「テレビの砂嵐のことやて」

部員たちがクスクス笑った。

「面白い表現ね」真由が感心した。「確かに『じゃみじゃみ』って感じよね、あの画面」

「でも、最近のテレビであんまり見ないわよね、砂嵐」佐藤先輩が言った。

「ほやの。昔はよう見たけど」

菜月がリモコンを色々いじっていると、ようやく正常な画面になった。

◆更衣室でのハプニング◆

茶道の練習用に着物に着替えようとした菜月。しかし、慌てていたせいか…

「あれ?なんかおかしいやて」

「どうしたの?」さくらが振り返った。


「あー、うらかしまになってる」菜月が苦笑いした。

「『うらかしま』?」

「裏表逆っていう意味やて」

「可愛い!」さくらが笑った。「菜月ちゃんの方言、本当に面白い」

「笑わんといてよ」菜月が照れながら言った。

「笑ってない、笑ってない。素敵だなって思っただけ」

さくらが菜月の着物を直すのを手伝ってくれた。二人は自然と近づいて…

「ありがとう、さくらちゃん」

「どういたしまして」

二人の目が合った瞬間、何か特別な空気が流れた。



「失礼します」

部室に圭介が入ってきた。菜月とさくらが近い距離にいるのを見て、少し驚いた。

「あ、圭介先輩」菜月が慌てて距離を取った。

「こんにちは。調子はいかがですか?」

「かぜねつができて、ちょっと辛いやて」

「『かぜねつ』?」圭介が興味深そうに聞いた。

「口内炎のことです」さくらが少し冷たく説明した。

「なるほど、福井の方言ですね」圭介がメモを取り始めた。「興味深い表現です」

菜月は複雑な気持ちになった。また「研究材料」として見られている気がして…

「あの、圭介先輩」

「はい?」

「今度のお茶の件ですが…」

菜月が何か言おうとした時、さくらが割って入った。

「すみません、菜月ちゃん体調悪いので、今日はお休みした方がいいと思います」

「そうですね」圭介が心配そうに菜月を見た。「お大事にしてください」

圭介が去った後、さくらが菜月に言った。

「無理しちゃダメよ」

「ありがとう、さくらちゃん。でも…」

「でも?」

「圭介先輩のこと、なんで冷たくするの?」

さくらの表情が少し曇った。

「別に冷たくなんて…」

「でも、いつも圭介先輩が来ると機嫌悪くなるやろ?」

さくらは黙ってしまった。

◆帰り道での会話◆

「さくらちゃん、正直に教えて」

駅に向かう道で、菜月がさくらに聞いた。

「圭介先輩のこと、嫌い?」

「嫌いじゃない」さくらが小さく答えた。

「じゃあ、どうして?」

さくらは立ち止まった。

「菜月ちゃんが…」

「私が?」

「菜月ちゃんが圭介先輩と話してる時、なんか違う顔になるの」

「違う顔?」

「いつもの菜月ちゃんじゃなくて、無理してるみたいな…」

菜月は驚いた。さくらが自分のそんな細かい変化に気づいていたなんて。

「私、無理してる?」

「うん。圭介先輩の前だと、標準語話そうとして疲れてるみたい」

さくらの指摘は的確だった。

「でも、圭介先輩は私の方言を理解してくれようとしてるやて」

「理解と研究は違うと思う」

さくらの言葉に、菜月はハッとした。

「研究?」

「圭介先輩は菜月ちゃんの方言を『興味深い』って言うけど、『好き』とか『素敵』とは言わない」

確かに、その通りだった。圭介先輩はいつも学術的な興味を示すけれど…

「でも、私の方言の美しさを分かってくれるって言ってくれたやて」

「それも研究者の視点じゃない?」

さくらの言葉が胸に刺さった。

「じゃあ、私はどうすればいいの?」

さくらが菜月の手を取った。

「菜月ちゃんらしくいればいいのよ。方言も含めて、そのままの菜月ちゃんを好きになってくれる人がいるはず」

「さくらちゃん…」

二人は見つめ合った。さくらの目に、特別な想いが込められているのを菜月は感じた。

◆寮に帰って◆

「お帰り。体調はどう?」未来が心配そうに迎えてくれた。

「まだちょっと痛いけど、大分良くなったやて」

「良かった。薬買ってきたから」

未来が口内炎の薬を差し出してくれた。

「ありがとう、未来ちゃん」

「どういたしまして」

菜月は今日のさくらとの会話を未来に話した。

「さくらちゃんの言うこと、分かるような気がする」

「どういうこと?」

「圭介先輩は確かに菜月ちゃんを大切に思ってるけど、研究対象として見てる部分もあるかも」

「そうかの…」

「でも、それが悪いわけじゃないのよ。ただ、菜月ちゃんが求めてるものと違うかもしれない」

未来の言葉は冷静で的確だった。

「未来ちゃんは、どう思う?」

「私?」未来が少し戸惑った。

「私のこと、どう思ってるかって」

未来の心臓がドキドキした。まさか菜月から直接聞かれるなんて。

「私は…菜月ちゃんのそのままが好き」

「どんなところが?」

「方言も、天然なところも、一生懸命なところも、全部」

未来の言葉は心から出たものだった。

「ありがとう」菜月が笑顔になった。「未来ちゃんがそう言ってくれると嬉しいやて」

未来は自分の想いを伝えられずにもどかしい気持ちになった。



いつものように悠真から電話がかかってきた。

「もしもし、悠真?」

「おう、菜月。体調悪いって聞いたけど、大丈夫か?」

「うん、かぜねつができただけやから」

「かぜねつか、懐かしいな。子供の頃、俺もよくできとったな」

「覚えてる?」

「おう、痛がってよく泣いとった」

悠真の優しい声に、菜月は心が温まった。

「東京での恋愛はどうや?」

「えー?なんでそんなこと聞くの?」

「なんとなく、菜月の声に迷いがあるような気がして」

さすが幼なじみ、菜月の心の変化を敏感に感じ取っている。

「実は…」

菜月は圭介先輩のこと、さくらのこと、複雑な気持ちについて話した。

「なるほどな」悠真が考え込んだ。

「どう思う?」

「菜月が一番大切にしたいもんは何や?」

「え?」

「自分らしさか、それとも東京に馴染むことか」

悠真の質問は核心を突いていた。

「両方大切やて」

「そうやな。でも、どっちかを選ばんといけん時もあるやろ」

「難しいやて」

「焦らんでもいい。菜月のペースでええから、じっくり考えてみ」

「ありがとう、悠真」

電話を切った後、菜月は窓の外を眺めた。

東京の夜景はきらきらと美しいけれど、時々故郷の静かな夜空が恋しくなる。

自分は何を求めているのだろう。圭介先輩との恋なのか、それとも自分らしくいられる関係なのか。

そして、最近のさくらの優しさや、未来の支えの意味も考えてしまう。

「複雑やの…」

小さくつぶやいて、菜月はベッドに向かった。

明日はきっと、また新しい発見があるだろう。

恋も、友情も、自分らしさも、全部大切にできる道があるはず。

そんなことを考えながら、菜月は眠りについた。