文化祭当日の朝。菜月は5時に起きて準備に取り掛かった。

「今日は絶対成功させるやて」

鏡の前で身支度を整えながら、菜月は気合を入れていた。

「菜月ちゃん、早いのね」

未来が寝ぼけ眼で起き上がった。

「ごめん、起こしてしもうた」

「大丈夫よ。今日は大事な日でしょ?」

未来は菜月の制服姿を見て、少しドキドキした。いつもより気合が入っていて、とても綺麗に見える。

「がんばって。私も絶対見に行くから」

「ありがとう、未来ちゃん」



「菜月ちゃん、お疲れさま!」

部室では既にさくらと麻美部長が準備を始めていた。

「みなさん、おはようございます」

「今日はよろしくお願いします」さくらが深々と頭を下げた。

「こちらこそ、さくらちゃん」

二人は並んで和菓子の最終チェックをした。羽二重餅、水ようかん、そして菜月特製の福井風どら焼き。

「うわあ、どれも美味しそうやの」

「また方言出てる」さくらがくすくす笑った。

「もう、さくらちゃんまで『やの』って言いそうになってるやん」

「え?」さくらが慌てた。「言ってません!」

「今『やん』って言った」

「あ!」さくらの顔が真っ赤になった。

二人は笑い合った。



お茶部のブースは中庭の一角に設置された。「福井の銘菓と茶道体験」という看板が風でゆらゆら揺れている。

「緊張するやて」

「大丈夫、練習通りやれば」さくらが菜月の手を握った。

菜月の心臓がドキドキした。さくらの手は小さくて温かい。

「ありがとう、さくらちゃん」

「一緒に頑張りましょう」

二人の手が握られている時間が、なぜか長く感じられた。


「いらっしゃいませ!福井の銘菓はいかがですか?」

菜月の元気な声で、文化祭での販売が始まった。

最初のお客さんは、隣のクラスの男子学生だった。

「これ、何ですか?」羽二重餅を指差した。

「福井の名物、羽二重餅やて。もちもちで上品な甘さが特徴です」

「『やて』?可愛い話し方するんですね」

男子学生がにこっと笑った。菜月は少し照れた。

「一つください」

「ありがとうございます!」



「この水ようかん、冬に食べるんですか?」

「はい、福井では冬のコタツで食べるのが定番やて」

「へー、面白い!」

お客さんたちは菜月の方言と福井の文化に興味津々。次々と商品が売れていく。

「菜月ちゃん、すごいね」さくらが感心した。

「さくらちゃんのおかげやて」

「私は何も…」

「いてくれるだけで心強いがよ」

さくらの頬がほんのり赤らんだ。



「菜月さん、お疲れさまです」

振り返ると、圭介がにこやかに立っていた。

「圭介先輩!来てくださったんですね」

「もちろんです。約束しましたから」

圭介は和菓子を見回した。

「どれも美味しそうですね。全種類いただけますか?」

「ありがとうございます!」菜月が嬉しそうに包装を始めた。

さくらは圭介をじっと見ていた。何となく面白くない表情。

「あの、試食もできますよ」菜月が羽二重餅の小さな欠片を差し出した。

「ありがとうございます」

圭介が菜月の手から直接受け取る時、指先が触れた。

「あ…」菜月の顔が赤くなった。

「とても美味しいです」圭介が笑顔で言った。「菜月さんの手作りだと思うと、より特別な味がします」

さくらがぎゅっと拳を握った。

◆茶道体験コーナー◆

「茶道体験もされませんか?」麻美部長が圭介に声をかけた。

「ぜひお願いします」

圭介は茶道体験コーナーに座った。菜月がお茶を点てることになった。

「緊張しますね」圭介が笑った。

「私も緊張してるやて」

菜月は丁寧にお茶を点てた。祖母に教わった通りの美しい動作。

「お茶をどうぞ」

圭介に茶碗を差し出す時、また手が触れそうになった。二人とも少しドキドキしている。

「美味しいです」圭介が心から感動した様子で言った。

「ありがとうございます」

「菜月さんのお茶には、故郷への愛情が込められているんですね」

菜月の胸がキュンとした。圭介先輩は、ちゃんと自分の気持ちを理解してくれている。

さくらはその様子を見ていて、何とも言えない気持ちになった。

◆昼休み◆

「お疲れさま」未来がやってきた。

「未来ちゃん!」菜月が手を振った。

「すごい人気じゃない。もう半分売り切れてる」

「みんながようけ買ってくれて」

「『たくさん』でしょ?」未来がいつものようにツッコんだ。

「そっけそっけ」

未来も和菓子を買った。

「美味しい!本当にお店の味みたい」

「ありがとう」

その時、さくらがやってきた。

「菜月ちゃん、この方は?」

「私のルームメイト、未来ちゃん。未来ちゃん、こちらがさくらちゃん」

「初めまして、佐伯未来です」

「田島さくらです。菜月ちゃんがいつもお世話になってます」

二人は握手した。未来はさくらを見て、「可愛い子だな」と思った。そして、さくらが菜月を見つめる目に、何か特別なものを感じた。

「菜月ちゃんから、さくらちゃんのこともよく聞いてます」

「そうなんですか?」さくらが嬉しそうに菜月を見た。

菜月は照れて顔を赤くした。


午後になって、お客さんがさらに増えた。しかし、そんな時に問題が発生した。

「すみません、これ何て言うお菓子ですか?」

年配の女性客が羽二重餅を指差した。

「羽二重餅やて」菜月が答えた。

「は?何ですって?」

「あ、『羽二重餅です』」菜月が言い直した。

「さっきは何と言ったの?」

「福井の方言で…」

「方言?」女性が眉をひそめた。「商売で方言使うなんて、失礼じゃない?」

菜月の顔が青ざめた。

「申し訳ありません」

「ちゃんとした日本語で説明してちょうだい」

女性の声は大きく、周りのお客さんも振り返った。

「すみません、これは福井県の名物で…」菜月の声が震えている。

さくらが慌てて駆け寄った。

「申し訳ございません。こちら福井県の伝統的な和菓子で…」

さくらが標準語で丁寧に説明すると、女性は満足そうにうなずいた。

「そういうことなら分かります。一つください」

女性が去った後、菜月は震えていた。

「大丈夫?」さくらが心配そうに菜月の肩に手を置いた。

「すみません、さくらちゃん。私のせいで…」

「菜月ちゃんのせいじゃないよ」

でも菜月は落ち込んでいた。やっぱり方言は迷惑なのかもしれない。


「菜月さん、どうされましたか?」

圭介が心配そうに近づいてきた。

「あ、圭介先輩…」

さくらが事情を説明した。

「そんなことがあったんですか」圭介が眉をひそめた。「その方が間違っています」

「え?」

「方言は日本語の大切な一部です。恥じることなんて何もありません」

圭介の優しい言葉に、菜月は涙ぐんだ。

「でも、お客さんに迷惑を…」

「迷惑なんかじゃありません。菜月さんの方言を聞いて、笑顔になるお客さんの方がずっと多いじゃないですか」

圭介が菜月の手を取った。

「菜月さんはそのままで完璧です」

菜月の心臓がドキドキした。圭介先輩の手は大きくて温かい。

さくらはその様子を見ていて、胸がギューっと痛んだ。

◆未来も駆けつけて◆

「菜月ちゃん、大丈夫?」未来が慌てて戻ってきた。

「未来ちゃん…」

「さっきの女性の言葉なんて気にしちゃダメよ。菜月ちゃんの方言は宝物なんだから」

未来も菜月のもう一方の手を握った。

「みんな…」菜月の目に涙が浮かんだ。

圭介、さくら、未来。みんなが自分を支えてくれている。

「ありがとうございます」

◆夕方、文化祭終了◆

結局、お茶部の和菓子は完売した。

「お疲れさまでした!」みんなで拍手した。

「菜月ちゃんのおかげね」麻美部長が笑った。

「みなさんのおかげやて」

「また出た」さくらが笑った。

片付けをしながら、さくらが小声で菜月に言った。

「菜月ちゃん、圭介先輩のこと好きなの?」

「え?」菜月が驚いた。

「だって、先輩が来ると顔が赤くなるし…」

菜月は困った顔をした。

「分からんやて」

「分からない?」

「好きやと思うけど、怖くもあるがよ」

「怖い?」

「本当に私のこと分かってくれるんやろうかって」

さくらは複雑な表情を浮かべた。

「菜月ちゃんを分からない人なんて、いないと思うけど」

「さくらちゃん…」

二人は見つめ合った。さくらの瞳に、特別な想いが込められているのを菜月は感じた。

◆帰り道◆

「今日はお疲れさまでした」

圭介が菜月を見送りに来た。

「こちらこそ、ありがとうございました」

「あの、菜月さん」圭介が立ち止まった。

「はい?」

「今度、二人でお茶をしませんか?」

菜月の心臓がドキドキした。ついに、正式なデートの誘いだ。

「あの…」菜月が迷っていると、さくらが口を挟んだ。

「菜月ちゃん、明日はお茶部の反省会があります」

「あ、そうやった」

「そうですか」圭介が少し残念そうに言った。「また今度ですね」

圭介が去った後、さくらが菜月を見た。

「菜月ちゃん、本当は時間あるでしょ?」

「え?」

「反省会、来週の予定だったはず」

菜月は気づいた。さくらが嘘をついてくれたのだ。

「どうして?」

さくらは少し顔を赤くした。

「なんとなく、菜月ちゃんがまだ準備できてないような気がして」

「ありがとう、さくらちゃん」

でも菜月は思った。もしかして、さくらは自分のことを…?

◆寮に帰って◆

「お帰り!」未来が笑顔で迎えてくれた。

「ただいま」

「文化祭、大成功だったじゃない」

「みんなのおかげやて」

菜月は今日の出来事を未来に話した。方言で怒られたこと、圭介先輩が慰めてくれたこと、さくらが助けてくれたこと。

「さくらちゃん、いい子ね」

「うん、すごく優しいがよ」

「圭介先輩からデートに誘われたのに、断っちゃったの?」

「断ったわけやないけど…まだ心の準備ができてないやて」

未来は複雑な気持ちだった。菜月の恋を応援したい気持ちと、自分の想いと。

「無理しなくていいのよ。菜月ちゃんのペースで」

「ありがとう、未来ちゃん」

その夜、三人の女性がそれぞれの部屋で、菜月のことを思っていた。

未来は菜月への想いを押し殺しながら、さくらは新しく芽生えた気持ちに戸惑いながら、そして菜月は自分を取り巻く複雑な関係に気づき始めていた。

東京での恋は、思った以上に複雑で甘酸っぱいものだった。