玲奈が去った後も、応接室には彼女の香水の残り香が漂っていた。
それは紗良にとって、夫の背後に忍び寄る影そのもののように感じられる。
「……怜司さんが、私を……」
ソファに沈み込んだまま、指先は冷たく震えていた。
心を必死に守ろうと繰り返す――“きっと嘘よ、そんなはずない”。
だが、玲奈の自信に満ちた言葉と、昼間に見た夫の微笑みが重なり、信じたい気持ちは砕かれていく。
その夜。
帰宅した怜司は、普段と変わらぬ穏やかな声で言った。
「紗良、今日はどうだった?」
「……何も」
視線を合わせられない。
彼の笑顔が、玲奈に向けられたものと同じだと思うと、胸が軋む。
「疲れているのか?」
「いいえ……ただ、少し眠いだけ」
短く返す紗良に、怜司は怪訝そうな眼差しを向けた。
けれど、それ以上は追及しなかった。
その優しさが、今はむしろ苦しい。
――なぜ、嘘をつくの。
――どうして、私を欺き続けるの。
胸の奥で叫びながらも、声にはできなかった。
夜半。
怜司が眠りについた隣で、紗良は目を閉じられずにいた。
玲奈の冷たい瞳、艶やかな唇から放たれた残酷な言葉が耳にこびりついて離れない。
「怜司さまと別れてください」
繰り返し蘇るその宣告は、暗闇の中で刃となり、紗良の心を切り裂き続ける。
夜明け前。
窓の外に白い光が差し込む頃、紗良は小さく呟いた。
「……もう、怜司さんを信じられない」
声は震え、涙にかすれていた。
初恋を捧げ、夫婦として築いてきた幸せな日々が、音を立てて崩れていく。
そして紗良の心は、氷のように冷たく閉ざされていった。

