昼下がりの邸宅は、静けさに包まれていた。
怜司は早朝から出社し、屋敷には紗良ひとり。
紅茶の香りが漂う応接室で読書に目を落としていたとき、執事が静かに告げた。

「奥さま。神宮寺家の令嬢がお見えになっております」

――心臓が跳ね上がった。
その名を聞いた瞬間、血の気が引いていく。

「……私に?」
「はい。ご主人さま宛てではなく、奥さまにぜひお話があると」

断る理由を探そうとしたが、唇は動かない。
恐怖にも似た予感が胸を締めつけ、足取りは重いのに、気づけば応接室の扉を開けていた。



深紅のドレスに身を包んだ神宮寺玲奈は、窓辺に立っていた。
陽光を受ける横顔は美しく、その気品はまさに社交界の華。
振り返った彼女の瞳は、冷たく澄んでいた。

「お邪魔いたしますわ、鳳条夫人」

「……ご用件は、何でしょうか」
紗良は胸の奥の動揺を隠し、淑やかに微笑もうとした。
だが、玲奈は容赦なく核心を突いてきた。

「単刀直入に申し上げます。――怜司さまと別れていただけませんか」

空気が凍りついた。
その言葉は、紗良の胸を鋭く突き刺す。

「……なぜ、そのようなことを」
「おわかりでしょう?」

玲奈の唇に浮かんだ微笑は、勝者の余裕を帯びていた。
「怜司さまは私とご一緒にいるとき、とても穏やかな表情をなさいます。先日も、喫茶店で……ご覧になったのでは?」

――見られていた。
喫茶店での目撃を、彼女も知っている。
背筋に冷たい汗が流れる。

「怜司さまは、あなたに縛られているだけ。形式上の結婚にすぎませんわ」
「……そんなはずは」
「では、どうしてご自宅に戻られない日が増えているのでしょう。あなたも気づいているはず」

紗良の唇が震える。
否定したいのに、声にならない。
玲奈はさらに一歩近づき、囁くように告げた。

「彼は、私を選ぶでしょう。だから――あなたから身を引くのが一番よ」



目の前が霞んでいく。
心臓は音を立てて軋み、足元から力が抜ける。
「……どうして、そんなことを……」

「簡単なことですわ。私には彼を幸せにできる自信がありますもの」

玲奈はそう言い残し、ドレスの裾を翻して部屋を去った。
扉が閉まった瞬間、張り詰めていた心の糸が切れる。

「……怜司さん」

崩れ落ちるようにソファへ座り込み、紗良の頬を熱い涙が伝った。
信じた愛は幻だったのか。
彼の優しい言葉も、抱擁も、すべて嘘だったのか――。

絶望の宣告は、静かに、しかし確実に紗良の心を凍らせていった。